第3話 予感

 中庭には清楚な美貌の女性がいた。派手さは決してないが、誰もが振りかえらずをえない端正さがある。

 射干玉ぬばたまの髪は非常に長く美しいが、その髪はやはりうなじのあたりで簡素なまげが結われていた。


 その彼女は、白玉のような肌を土で汚し、それでもにこにこと明るく笑って鼻歌を歌っている。

 土のついた野菜の入ったかごを地面に置いて、中庭の中央の井戸の水で野菜を洗おうとしていた。

 静嘉たちの母親だ。香雪こうせつという。


 三人を見ると、彼女は、「まあ!」と上品で温かい声をあげた。


静嘉せいか端粛たんしゅく、今日も売れた? ——盛徳どの、お久しゅう」


 一瞬だけ盛徳は、彼女から目を背けた。痛ましいものを見るかのように。

 だが、微笑みなおして「はい」と優しく返す。


「お久しゅうございます、香雪様。端粛様と、静嘉様も、お元気そうで」

「母さま、ちゃんと売れました! ぜんぶ」

「ました〜!」


 姉弟は母の顔を覗きこみながら同時に言った。

 静嘉は得意げな顔をして、背負っていたかごを母の前に置いた。


「お肉があります! 鶏肉が!!」

「まあ! お肉!」


 香雪は静嘉を抱きしめた。ふたりではねとびながら大喜びする。母はにこにこ笑う。


「野菜もあるし、今日はお肉と野菜のあつものにしようかしら」

「やったあ!」


 歓声をあげたのは、成長期の男の子である端粛だ。

 すこし、咳ばらいの音が聞こえた。盛徳だった。それに香雪が気づき、不審の色を瞳にやどす。


「どうなさいました、盛徳どの」

「香雪様と、緊急のお話が。——数分でかまいませぬ。お時間をくださいませ」

「さようですか」


 香雪は表情を硬くすると、幼い子どもたちを見た。


「では、お母様は盛徳どのとお話がありますから、ふたりは遊んでらっしゃい」


 静嘉が好奇心にあふれた目をしているのを見て取って、母は娘の襟首をつかんだ。


「……遊ぶのはなしね。静嘉、お肉を厨房の氷室においてから、中庭でお野菜を洗ってちょうだい」

「はぁい」


 ぶう、と頬をふくらませた静嘉は、いわれたとおり、肉を厨房の氷室に入れた後、母がまだ洗えていなかった野菜を、桶に突っ込んで洗った。母と盛徳は正房の客間で何か話しこんでいるようだった。


 聞き耳を立てようとする。盛徳と母が結婚する話だったら、どれだけ嬉しいだろう。


 だが、風がびゅうびゅうと吹き、上手に聞けなかった。端粛は、「畑と、鶏さんの様子を見てくる」と裏庭へといってしまった。

 

 ふたりが話しこんだのは本当にわずかなあいだだけだった。だが、その数分で、美しい母の笑顔は消えていた。


「静嘉、明日、お客様が来るわ」

「お客様?」

「とても偉いお方」


 それだけいって、母は静嘉から野菜を受け取り、厨房へ消えてしまった。


 その日の夕餉が、親子揃って心穏やかに食べられる最後の夕餉になるとは、このときの静嘉はまったく知らなかった。


 夕餉の時間をご一緒にという言葉に、盛徳が辞去していったかわりに、端粛が戻ってきた。


 正房に上がるなり、美貌の少年は首を横に振った。

 夕餉の準備をしていた静嘉は「だめだった?」と聞く。


「うん、鶏さん、卵産んでなかった。あと、明日は娃々菜わわさいが採れそう」


 彼はそう言いながら手を洗い、食事をする卓子の椅子にすべるように腰掛けた。そうとうお腹が空いていたらしい。

 しばらくして、香雪が一番に端粛にあつあつの羹を用意する。


「おいしい!」


 端粛が笑顔で喜んでいる。この夕餉の時間が何より幸せだ、と自分も食卓に着きながら、静嘉は感じた。


「母さま、明日はお客様が来るから、私たちは娃々菜の収穫をしていたほうがいい?」

「いえ。あなたたちにいてちょうだい。あなたたちの、とくに端粛のお客様なの」

「ぼく?」


 端粛は小さな指で、自分で自分を指した。

 突然、香雪が椅子から立ち上がる。端粛と静嘉の席の前にやってきて、両手を広げた。


「いらっしゃい」


 幼い端粛は、すぐ母の胸へ飛びこんでいった。だが、静嘉は戸惑いを隠せない。


「母様?」

「おいで、静嘉」


 おずおずと、母に寄っていくと、母の手が静嘉の腰を掴んだ。ぐいと母のほうへとひきよせられる。


「母様は、あなた達に謝らなくてはいけないことが山ほどある。ごめんなさい。本当にごめんなさい。でも、母様はあなたたちの幸せを願っている。二人の幸せを毎日祈っていたということを、忘れないで」


 母は泣いているようだった。母の体温を感じながら、ゆっくりと抱き返す。


「母様……、なにをおっしゃってるの」

「あはは、母様、ぼく、いい子にしてるよ!」


 端粛が無邪気な返答をする中、嫌な予感で静嘉の胸はいっぱいになる。



 翌日はまばゆいほどの晴れだった。秋にしては珍しく、とても暑い。

 いつも朝早く起きる習慣のある静嘉は、今日も夜明けより早めに起きた。井戸から水を汲み、顔を洗う。薄ぼんやりと考える。


 母は何故、昨晩、あれほどまでに暗い表情をしていたのだろう。


 ――盛徳おじさまとの会話からだわ。


 盛徳が結婚の申し込みでもして、母が迷っているのだろうか。それとも、もっと何か深い事情があるのだろうか。


 正房へと赴くと、薄桃色の美しい襦裙きものを着、珊瑚さんご玻璃はりで出来た簪を射干玉の髪に刺し、粉黛ふんたいをつけている母がいた。まるで貴族の夫人のようだった。こんな母は見たことがない。


「母様?」


 ぞくりとしながら母の顔を恐る恐るうかがう。これから何が起きるというのだろう。

 母は、はかなげに微笑んだ。


「大丈夫。あなたと端粛は、悪いようにはされないわ。それより、こんなこともあろうかと、あなた達のために用意していた服があるのよ」


 母は衣装掛けに、二着、服を用意していた。


 一つは上等な絹の、薄い青の襦裙。おそらく静嘉のものだろう。

 もう一つはやはり上等な絹の、男物の黒に臙脂の縫取りのされた上衣下裳。おそらく端粛のものだろう。


「き、貴族が着るみたいな服ですね、母様」


 圧倒されながら母を見ると、母は意味深な顔つきをする。


「早く着替えましょう。手伝うわ。着替えたら、端粛を起こしましょう」


 秋の涼やかな風が、母娘の間を通る。

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