10
「ねえ、うちに遊びに来ない?」
電話越しに美澄さんが言って、私はその誘いに乗った。暇な夏休みを過ごしていたから、是非にと足を運ぶことにした。
土曜日の午前十時、家を出て十五分ほど歩いた先にある小さなマンション。エレベーターに乗ると、ようやく蝉のミンミン声が聞こえなくなる。三階のボタンを押して、うすくかいた汗を手の甲で拭う。
三階の廊下に辿り着いて部屋の前でチャイムを押すと、すぐにドアが開いて美澄さんが顔を出した。
「梓ちゃん、いらっしゃい。暑かったでしょ。入って入って」
今日も元気な彼女の姿に、こっちもなんだか嬉しくなる。おじゃましますと上がって手を洗い、2LDKのリビングで言われるままに絨毯の上に座る。麦茶入りのコップを乗せたお盆をローテーブルに置いて、美澄さんが向かいに座った。クーラーが効いていて、汗がすっとひいていく。
「おー、梓、久しぶりだな」
ようやく兄の
「久しぶりって、先週も会ったばっかじゃん」
「そうだっけ? まあ気にすんなよ。それよりいいよなあ、高校生は。夏休みなんてもんがあって」ため息をつきながらカウンターキッチンの冷蔵庫を開けて、麦茶をコップに注いで飲んでいる。
「自分だって、高校時代はあったでしょ」美澄さんは呆れた顔をする。
「そりゃそうだけどさ」美味しそうに麦茶を飲み干してコップを置いた。「梓、夏休みなのに暇してんのか」
「別に暇じゃないし」
「ならいいけどさ。宿題はさっさと終わらせとけよ」
「もー、小学生じゃないのに」
私の非難にもへっちゃらで、兄は壁際の棚にある小銭入れを手に取る。「ちょっとコンビニ行ってくる」そう言い残して、さっさと部屋を出て行った。
「マイペースなんだから」
私が口を尖らせると、「そうだねえ」と美澄さんは笑う。「でも、梓ちゃんのこと、心配してるみたいよ」
「いやいや、嘘でしょ」
「ほんとほんと。時々口にしてるけど、妹が高校生活楽しんでるか、兄貴はそれなりに気になってるっぽい」
ふーんと鼻を鳴らして、私は曖昧に頷いた。兄とは仲が良い方だと思うけど、べったりくっついているわけでもない。心配と言われても、あまりぴんとこない。
それからたわいの無い話をして、笑い合う。お盆休みは美澄さんの実家に泊まりに行くとのことで、会えないのは少し寂しいけど仕方ない。
「華の高校生活はどう? 満喫してる?」
笑い合いながらも、美澄さんの台詞に一瞬言葉が詰まってしまった。すぐさま「もちろん」って返事をする。
「よかった。あたしの高校時代はずーっと部活三昧だったから、梓ちゃんはどうしてるのかなって気になってたんだ」
彼女は高校で弓道部に入っていたそうだ。袴姿で弓を射る美澄さんを想像するだけで、かっこよさに惚れ惚れしてしまう。
「図書館に入り浸ってるだけだけどね」
「真面目だよ、梓ちゃんは。流石あたしの妹」本当に嬉しそうな顔をしてくれる。「友だちとは上手くやってる?」
「うん」
頷いた私の顔は、強張っていたと思う。図書館のことも学校のことも、思い返すと胸の奥がチクチク痛んだ。こうしている間にも、私の居場所はひとつ失われているのかもしれない。苦しくって、堪らない。
「あたしね、ずっと姉妹が欲しかったんだ。うちは兄貴二人だから、こうやって休日にゆっくりお喋りをする妹ができて、颯太には感謝してる」
突然、美澄さんはそう言いだした。
「それも梓ちゃんだからね。こんなに良い子が遊びに来てくれて、あたしは幸せ者だ」
「大袈裟だよ、そんなの」
「ううん。全然大袈裟なんかじゃない。梓ちゃんみたいに優しくて可愛い子は、そうそうお目にかかれないよ」
大仰な誉め言葉にむず痒くなって、視線を俯けてしまう。そんな私を見て、美澄さんは小首を傾げて笑いかけた。
「颯太もだけど、あたしもあなたが幸せでいるのを心から願ってるから。頼りないと思うけど、悩みがあればどんなことでも相談に乗るよ」
美澄さんは全て見抜いていた。私が思い悩んでいるのに気が付いて、だからこうして誘ってくれた。兄もきっと、私が話しやすいように席を外してくれたんだと思う。家族といえど二対一だと緊張してしまうから、美澄さんを信用して私と二人きりにしているんだ。
「ごめんね、言い難いことだったら、無理に話せなんて言わないから。ただ、梓ちゃんは一人じゃないよって伝えたくて」
優しさが心に迫って、私は目元を拭いながら首を振って否定する。幸せ者は私の方だ。ただ普通に接しているだけで、こんなに自分を心配してくれる人がそばにいる。
「……好きだとか付き合いたいとか、そんなんじゃなくて、放課後に会えるだけで十分なのに。他の女の子がその男の子を好きだって言ったら、どうしたらいい?」
美澄さんになら話せる。私はわかりにくい言葉を並べる。
「その女の子と、梓ちゃんは仲良しなの」
「ううん……。でも、可愛くて人気者で、誰とでも話せる子。とてもじゃないけど、私じゃかなわない」
涙がじわじわ浮かぶ。テーブルの端にあるティッシュ箱から一枚取って、美澄さんはそっと私の目元を拭ってくれる。小さな子どもになった気持ちだ。
「梓ちゃんとその男の子は、仲良しなの」
「……そう、だと思う。だけど私、それだけでよかった。好きだとかよくわからないから、このまま一緒に話せるだけでよかった。だけど、もし……もしあの子と付き合ったりしたら、私はもう会えなくなる。二人で本を読むことなんて、できなくなる」
旭の存在は、いつの間にか私の心の大きな場所を占めていた。今までのような時間を過ごせなくなるなんて、辛くて寂しくて堪らない。
だけど、私に小夏ちゃんを引き止めていい理由はない。
「私、わがままだよね。何もしてこなかったくせに、こんなこと思うなんて」
「そんなことないよ」
「でも……」
「梓ちゃんの気持ちは、すごく真っ直ぐで間違ってなんかない。卑屈になったり、自分を責める必要なんて、これっぽちもないよ」
両腕で抱きしめてくれるから、私は我慢するのをやめた。すると後から後から涙が溢れて零れ落ちる。嗚咽が漏れて、ただ泣きじゃくることしかできない。そんな私の背中を、美澄さんはぽんぽんと優しく叩いて、「大丈夫、大丈夫」と宥めてくれる。落ち着くまで泣いてから、私はやっと彼女から身体を離した。
「何もしてこなかったのを後悔してるなら、これから進んだらいいんだよ」
「それって、どうしたらいいの。好きって気持ちがわからないのに、告白なんてできない」
「告白して成功するのが全てじゃないよ。梓ちゃんの気持ちを、その男の子に直接伝えてごらん。恥ずかしいかもしれないけど、ここで黙って身を引いたら、永遠に後悔するよ。それより一足だけ進んで、思ってることを伝えたらいいよ」
渡してくれるコップの麦茶を一口飲んで、頷いた。美澄さんの言う通りだと思った。黙って逃げていなくなって、平穏に学校生活を送れたとしても、心の中で引きずって後悔し続けるのは明らかだった。
「あたしたちの時もね、いろいろあったんだ」
苦笑して、美澄さんは自分のコップに口をつける。
「けど、諦めなくてよかったと今は思ってる。一度は逃げようとしたんだけどね」
「どういうこと」
「あたしの親が、婿養子になるなら結婚を認めてやるって颯太に言ったの、知ってるよね」
頷いた。だから兄の苗字は私と同じ七瀬ではなく、美澄さんの実家の
「何勝手なこと言ってるんだって思ったよ。颯太の気持ちや立場は無視して、自分たちの都合しか考えてない。でも、それが無理なら別れろって言われて。親に許されなくても、あたしたちの問題なんだし、逃げようってあたしは提案したの」
「逃げるって、どうやって」
「うちの実家とは縁切ろうってこと。親の嫌な面見てうんざりしてたし、説得も出来なかったから、あたしは全部捨てる覚悟だった。だけど颯太は、それぐらい受け入れるって言ったの。その時、正直颯太にも腹が立ったんだ。あたしは覚悟してるっていうのに、全然分かってないって思って」
少し目を細めて、懐かしむ表情をする。
「でも、子どもなのはあたしだった。絶縁なんてそう簡単に出来る事じゃないし、あらゆる面でリスクもある。なのに颯太はあたしにも頭を下げて、なんでもするから一緒にいたいなんて言ったの。その上であたしが家族を失う結果になったら、それこそ自分は悔しいんだって」
「お兄ちゃん、そんなこと言ったの?」
「うんうん。信じられないでしょ。呑気で頼りなくてマイペースなのにさ。だけど、颯太を信じて逃げなくてよかったって、今は心から思ってるよ」
仲良しの夫婦だとは知っていたけど、まさかそこまで強い結びつきがあっただなんて知らなかった。私の前では呆れるほどぼんやりしている兄が、惚れた彼女のためなら腹を括れる人間だったなんて。
「人間同士だからね、誰だっていろいろあるよ」美澄さんは少し恥ずかしそうにはにかむ。「必ず良い目を見られるとは限らないけど、相手を想う気持ちは、きちんと伝えるべきだよ」
「……私、かなわないと思う。もしその女の子が告白なんかしたら……」
「大丈夫! 梓ちゃんはね、自分で思ってるよりずーっと良い子なんだから。梓ちゃんに、もっと一緒にいたいって言われて落ちない男なんていない。そんなの男じゃない」
笑顔で言う美澄さんに、思わず私も笑ってしまう。
「ね、推測だけじゃなくて、きちんと自分の言葉で想いを伝えてみなさい。大丈夫、梓ちゃんなら出来る」
「……うん。ありがとう、美澄さん」
「いいのいいの。妹の力になれたなら、お姉ちゃん嬉しい」
顔を見合わせて笑っていると、ガチャと玄関ドアの開く音が聞こえた。「ただいまー」間延びした声に、二人で「おかえりー」と返事をする。
暑い暑いと言いながら、やたらと時間をかけてコンビニから帰ってきた兄に、美澄さんが新しく麦茶を入れてあげる。
「お兄ちゃん、なかなか熱い男なんだね」
立ったままコップを受け取る兄に言う。
「なんだよ、いきなり」
訝しむ兄に、なんでもないと返事をし、私は決意した。早速、スマホに打ち込む文面を頭の中で考え始めていた。
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