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当然、旭は私の周囲の異変を知らない。
その日の放課後もいつも通り図書館に行って、公園に寄って、二人と一匹で話をして。彼の様子には何も変化がないから、私はもやついた気持ちのまま帰宅した。ご飯を食べてお風呂に入って、やっと一息つける時間。
「はー。茶太郎ー」
茶太郎を抱っこしたまま自分の部屋のベッドに腰掛けて、その頭に顔を埋めて思い切り深呼吸する。鼻腔をくすぐる愛犬の香り。もふもふの毛皮と、ふわふわの尻尾。私の脇に鼻先を突っ込んで甘えてくるのが可愛くてたまらない。
そのまま後ろに倒れて一緒にひと眠り……しようとしたところで、階下から玄関ドアの開く音が聞こえてきた。大きな耳を動かして、たちまちベッドから飛び降り、茶太郎はコンビニから帰った母の元に駆けていく。家族が帰ってくる度に、茶太郎は飛びついて大歓迎するのだ。
「薄情ものー」
さっきまでイチャついていたのに。一人呟いて、私は半開きになっていたドアを閉めた。
さて、寝る前に課題を済ませておかないと。振り向いた机の上で、充電中のスマホが点滅しているのに気が付いた。通知が一件。結々からメッセージが届いている。「起きてる?」だって。起きてるよって、すぐに返信する。
――黙っておくべきだと思うけど、教えるね。
不穏な言葉に返事を打つ前に、画像ファイルが送信された。
軽くタップして、読み込まれた中身を見る。それは新聞の切り抜きで、一見すると何でこんなものを結々が送ってきたのかわからない。
不倫相手を殺害。三十五歳の主婦を容疑者として逮捕。
嫌な見出しを読み進める。日付を見るに、私が小学三年生の頃の事件だった。容疑者の名前は、
「何これ」
思わず声が出た。こんな事件の記事を、何で結々が私に教えるんだろう。不倫は最低だし、そのうえ殺人だなんてあり得ない。
何これ。声に出したのと同じ文言をスマホに打ち込んで送信した。何らかの理由で私をからかっているのかとも思ったけど、こんな意味不明で気味の悪いやり方を結々が取るはずがない。
目の前でメッセージが返ってきた。それを見た私の心臓は、本当に止まらなかったのが奇跡だったと思う。
――旭くんは、その女の息子だよ。
結々にはその後すぐに電話をかけて、話を聞いた。口で何て説明したらいいのかわからないから、画像を送ったらしい。
「梓の仲良しのことだから、こんなこと教えるのはよくないって思ったんだけど」
彼女の声は明らかに落ち込んでいた。それに結々を責めるのは明らかに間違っているから、私は責めたりはしなかった。ただ、これで全部を理解した。
「みんなが噂してたのは、このことだったんだ」
沈黙が答えだった。立ちすくんだまま、スマホを握る手元が震える。今更でいいから嘘だって言って欲しい、冗談だよって笑って欲しい。だけど結々はそんな悪趣味な女の子じゃない。それはいつも一緒にいる私がよく知っている。
「……信じられないよ」
小声で訴えると、「そうだよね」って結々は言った。
「でも、西ノ浦では有名なんだって。その……この事件のこと」
「その話がうちの桜浜にまで流れてきたの」
「あたしもだけど、みんな噂好きだから。こんなのさ、飛びついちゃうでしょ……。それで、梓が一緒にいるのを見かけた誰かが言いふらしたんだと思う」
頭がくらくらして目眩がする。今にも力が抜けて、耳に当てているスマホまで落としてしまう気がした。
どちらの学校とも近い図書館だから、生徒の誰かに見られていたとしても何の不思議もない。かといって、噂の出所なんて探ることはできない。紙に水が染み込むように、どこからともなくじわじわと話は広まって、いつの間にか周りを取り囲まれている。それだけなんだ。
「だけど、こんなの、関係ないでしょ」あり得ない台詞と知りながら、私はそう言うしかなかった。「旭が悪いことをしたってわけじゃないんだし」
「それは間違いないけど」
「なら、噂することなんてないのに」話しかけてきた女子二人組の嫌味な笑顔を思い出す。彼女たちは、旭を、そして彼と仲の良い私を嘲笑していたんだ。今になって悔しくて堪らない。
「陰でこそこそして、一体何なの。そんなに人を馬鹿にして何が楽しいの!」
声をあげてから、返事がないことにはっとした。躊躇いながらも教えてくれた結々に、文句を言われる筋合いはない。
「ごめん、結々。つい腹が立って……」
「ううん。そう、だよね。関係ないよね」
そうはいっても、結々は私が心配だって言った。犯罪者の、それも殺人犯の子どもが私のそばにいるのが、不安なんだろう。その気持ちはありがたいけど、旭を疑ってほしくない。
少し話して電話を切ってから、私はベッドに倒れ込んだ。頭の中がぐしゃぐしゃで、新聞記事の内容が絶え間なくリフレインする。
関係ない。旭には、関係ない。
何度も自分に言い聞かせて、それでも心はいつまでもざわついていた。
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