13

「そんなに怒らんでもええやん」

 イベント会場を出た時には、私は涙目になっていた。

「ばかばかばーか、旭のばか!」

「たかが虫やで。噛まれて死ぬわけやあらへんし」

「そういう問題じゃないの!」

 文句を垂れながら彼の後に続く。「機嫌直してくれや」そう言う旭が入ったのは、一風変わったカフェ。店内で猫と触れ合える、いわゆる猫カフェだった。一見普通のカフェだけど、中ではあちこちに猫がうろついている。そういえば、猫カフェって入ったことがない。

「もしかして、本命ってここ?」

 案内されて二人掛けのテーブルにつく。旭が頷いて、私は店内の様子をぐるりと見渡した。確かにここは、お客の半分以上をカップルが占めている。そうでなくても親子か、友人同士で連れ立っている。男子高校生が一人で来るのは気が引けるかもしれない。

 店員さんに、私はミックスジュース、旭はカルピスを注文した。

「ぷちやそこらの野良猫しか、普段見てへんからな。飼われてる猫を観察してみたかったんや」

 すぐそばの出窓にも、二匹の猫が丸くなっていた。黒猫が一匹と、もう一匹は垂れ耳のスコティッシュフォールド。仲が良いのか折り重なっている。

 運ばれてきたジュースのグラスにストローをさす。猫たちは、こっちに顔は向けているけど、愛想を振りまくでもなく眠たそうな表情をしている。

「可愛いね。仲良しなのかな」

 互いにもたれ合う猫たちを見ていると、微笑ましい気持ちになる。

「そうでもなさそうやで」

 カルピスに口をつける旭が言って、黒猫がちらりと彼の方に目をやった。

「この黒猫の本命は、あの猫や」

 そう言って、向こうの壁際に設置されたキャットタワーを指さした。グレーの毛皮を持つロシアンブルーが、女性客の振る猫じゃらしで遊んでいる。こっちは随分と愛想が良い。

「片想いやな」

「猫の世界にも片想いってあるの」

「そりゃあるよ。向こうの猫が振り向いてくれんて、こいつは拗ねとる」指先で猫の鼻をつついた。「猫やって辛いわな」黒猫は返事をするように、にゃーと小声で鳴いた。

 猫の恋愛も大変なんだ。しみじみ思いながら、もう一匹のスコティッシュフォールドを撫でる。人慣れしている猫は、うとうとしたままじっと触られている。滑らかな手触りが心地よい。

 しばらく猫と遊んで、話して。充実した一時間はあっという間に過ぎていった。

「割とわかるもんやな」

 店を出ながら、旭は自分の力に感心していた。既に私たちは、このカフェの従業員同士の関係に誰よりも詳しくなっていた。

 今日の予定はこれで終わり。だけどそれがもったいなくて、私はさりげなく猫カフェの向かいのお店に吸い込まれる。「あのお店、可愛い」そんなことを言って。

 チェーン店の駄菓子屋は、店の奥から手前まで、ぎっしりとお菓子を並べていた。スーパーではあまり見かけない、百円未満の安い商品が多い。飴玉、グミ、チョコレートなんかがぎゅうぎゅうに詰まった透明な箱。お金を入れて綿菓子を作る機械。棚にはおまけ付きのガムが並んでいて、小さな子どもたちがわいわい群がっている。

「そうや、なんか欲しかったら買うたるよ」

 思いついた顔で、旭が言う。

「いいよ、そんなの」

「ええって。せっかく来てもろたんやし。でも一つだけやで」

 いたずらっぽい顔をするのに、私もその厚意に甘えることにした。どれにしようか。お菓子がぎっしり詰まった店内は、見ているだけでわくわくする。

「じゃあ、これ!」

 その中で、私は小ビンを一つ手に取る。ぷっくり膨れた可愛らしいガラスビンの中には、色とりどりの星が詰まっている。金平糖だ。薄い黄色や緑、ピンク色をした甘い星たち。こんなに可愛いお菓子はそうそうない。

「ほんまに宇宙好きやな」苦笑しながらも、旭は私からビンを受け取った。

 会計を終えた彼から手渡された小さな紙袋を抱えて、店を出る。小ビンが熱を持っているように、ぽかぽかと温もるような気分。なんだか嬉しくて仕方ない。

「ありがとう、旭」

 フロアの真ん中には、ベンチの置かれた休憩スペースがあって、そこに座ってお礼を言う。旭は笑うけど、どこか困ったような顔を見せる。

「今日はすまんかったな。せっかくの日曜やのに」

 思わぬ言葉に、慌てて首を横に振った。

「そんなことないよ。私も楽しかったもん」

「もし知り合いとかに見られとったら、またいらんこと言われるやろ」

 無意識のうちに、紙袋を持つ指に力が入ってしまう。

「気にしないでよ。だって……」旭は気にしていたんだ。私が誰かに変な噂をされないかってこと。「私たち、ただの友だちでしょ」

 散々繰り返した言葉、ただの友だち。だけど、彼の前で口にすると、何故だか辛い気持ちになる。

 私たちは隣にいる。こうして一緒に遊びにも来ている。

 それなのに、埋められない溝がある。この頃には私も薄く察していた。彼は常に距離を置いている。いろんなことを教えてくれながら、最後のひとかけらをきっと隠して見せないようにしている。

 悲しくて、胸の奥がぎゅっと窄まった。受け身のくせに、私はなんてわがままなんだろう。

「あのね」迷う前に、私は言葉を絞り出した。「私、クラスの子に、告白されたんだ」

 彼は、はっと息を呑む。「……なんて返事したん」

「いきなりで、私もびっくりしちゃって……。返事は待ってもらってる」

「ほうか……」

 私はどうしたいんだろう。旭になんて言ってもらいたいんだろう。

「……よかったやん」

 わからないけど、彼の返事は聞きたい言葉じゃなかった。心臓が縮こまって、私は皺が寄るまで紙袋を握る。

 あっという間に、どうしようもなく深く冷たい沈黙が、私たちを包み込んだ。辛くて辛くて、唇をぎゅっと噛む。嫉妬してほしい、焼きもちを焼いてほしい。そうした汚い感情が自分にあったのもショックだった。

「旭は、本当にそう思うの」やっとの思いで震わせた喉からは、そんなか細い声が漏れた。

「七瀬はどうなん」

 返事をせず問いかけを返してくるのに、大地くんの顔を思い出す。器用で明るい、人気者のクラスメイト。

「わからない。……いい人なのは、わかるけど」

 私はなんて嫌なやつなんだろう。全員にいい顔をしようとして、その上旭を試そうとまでしている。自己嫌悪で潰れて消えたくなる。

「俺は、正直言うと……」彼は低く呻くように囁いた。「……嫌やな」

 顔をあげて、彼の横顔を見つめる。目を合わせない旭は、自分の足元に視線を落としている。

「もし七瀬がそいつと付き合うたら、もう俺とは図書館でも会われへんやろ。少なくとも、今日みたいなんは無理や」

「会えないことは、ないと思うけど」

「いや、あかん。そんな中途半端なんは駄目や」

 きっぱりと言って、旭ははっきり私の目を見た。

「そんなん、いつか相手を裏切ってしまう。信用してくれる人を裏切るんだけは、絶対にやったらいかん」

 真剣な瞳に、大袈裟だとは言えなかった。そうだねって、頷くしかなかった。

「俺は今のままがええけど、七瀬を引き止める権利なんかない。俺は七瀬とは付き合えんのやから、わがままは言えへん。それに俺なんかと一緒におっても、一つもええことないんや」

 付き合えない。旭と付き合うことは考えていなかったのに、きっぱり言い切られると悲しくなる。

 でも、旭といると時間を忘れる。楽しくて、いつまでだって話していたくなる。

「そんなこと言わないでよ、いいことないなんて。私は一緒にいて楽しいよ」

 一瞬驚いた顔を見せて、彼はありがとうと呟いた。ほんのり浮かんだ笑顔が、強張った私の心を緩く溶かす。

「きっと七瀬が思うてくれてるより、俺はええやつやない。やから、これ以上なんも出来ん。同じ学校のクラスの男と付き合うた方が、何倍もええんや」

 私を宥めるように、説得するように言葉を繋いで、「でも」と続ける。

「本心を言うてええなら……嬉しくはない」

 何があるんだろう。一体何が、彼をここまで卑下させているんだろう。

 わからないけど、一つだけわかったことがある。

 俯く彼に、私は笑いかけた。

「じゃあ、また一緒に出かけてくれる?」

「言うたやろ、それは裏切りやって」

「私を裏切り者にさせたくなかったら、名前で呼んでよ」

 決めた。決まっていたのかもしれないけど、私は気が付いた。付き合えなくても、これからも旭と会いたい。もっと同じ時間を過ごして、たくさんのことを教えて欲しい。

「そんな……」言いかける彼の瞳を、今度は私が真剣に見つめる。丸くなった目でやっと理解した旭は、徐々に融解する表情でやっと笑った。梓という私の名前を、初めて口にした。

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