7-2 avenge or revenge(2)

「あなたは、仇を返してはならない。あなたの民の人々に恨みを抱いてはならない。あなた自身のように隣人を愛さなければならない」

 そう、先生はおっしゃっいました。

 優しく、全てを包み込むような。

 先生の穏やかな表情と声が、すんなりと耳をくすぐり、滑らかに嚥下して言葉が胸に落ちるのです。

 そうだ、そうですね。先生、あなたの言うことはいつだって正しいのです。

 正しくて、何より先生を愛しているから。

 あなたの言葉がすとんと胸に落ちるんだと、思っていました。 

 腑に落ちるって、こういうことをなんだって実感します。

 でもね、先生。

 先生が愛しなさいと言う隣人が、バケモノだったら? 

 ボクはどうしたらいいのですか? 

 ボクを、友だちを。

 お構いなしに傷つける、人の皮を被ったバケモノだったら、ボクはどうしたらいいんでしょうか?

 辛いこと、苦しいことしか、ボクらに与えないバケモノ。

 ボクはそれを愛さなければならない。

 だから、恨むことも、復讐することもできないんです。

 愛して……愛するって何なのでしょう? 

 どうして? 

 こんな酷いことをするバケモノを、愛さなければならないのでしょう? 

 恨んでも、復讐しても、何も生まないから?

 じゃあ、愛したら何かが生まれるのですか? 

 ううん、違いますよ。

 愛したぶん、生まれるのですよ、先生。

 にある凄く、とても深くて痛いキズがその証拠。

 バケモノを愛すれば、愛するほど。

 ボクには恨みと復讐が芽生えるのです。

 先生、実はね。

 ボクは知っているんです。

 先生がバケモノを隠しているってこと。

 ボクらを傷つけるバケモノを隠しているって、知っているんです。

 先生、ボクは愛してます。

 先生も、先生が隠しているってバケモノも、全て。

 愛して……愛さなければならないのです。

 そうか、だから--こんなに満たされるのですね。

 友だちを愛して。

 そして、友だちと同じように

 だから、こんなにも、ボクは……愛されているのですね。




『マル被同乗、車両ナンバーF五三〇マッチのま四一六〇。現在F県K市Y町○○丁目、Y小学校附近市道を北方向へ直進』

 上空を旋回する県警ヘリからの無線に、遠野は少し狼狽した。

 小さく下唇を噛むと、ゆっくりとハンドルを右に切る。

「遠野補佐?」

 目の前にいる、榊を乗せた車両がぬるいスピードで視界から外れるのを見ながら、花井紗央里は首を傾げた。

「あの車の後ろに着いて行かないのですか?」

「ここから先は、住宅地の道幅の狭い生活道路なんです」

「そうですね」

「四十年くらい前に整備された新興住宅地は、メイン道路は広いんですが、一本中に入ると比較的狭い市道が多い。こんなペカペカな〝いかにも公用車〟が二台も連なって走ってたら目立つでしょ」

「確かに」

「榊に尾行がバレるってのもありますが、今の時代、どこで〝市民記者〟が撮影しているかわかりませんからね」

「なるほど」

「それに」

 遠野は左右の飛び出し等に気を配りながら、再びハンドルを左にゆっくりと切る。

「俺たちは、結構重要な使命を仰せつかっていませんでしたっけ?」

「それは遠野さんだけでしょう?」

「そうでしたっけ?」

「そうですよ」

 呆れたのか、それ以上踏み込みたくないのか。

 はたまた、少し怒っているのか。

 不自然な笑顔を貼り付けた花井は、少し単調に答えた。

 遠野は花井の反応に、口元を緩める。

「まぁ、斉藤の言っていたってのが分かって、よかったじゃないですか? 花井先生」


* * *


「斉藤巡査部長の記憶だけに頼るのは、ちょっと問題があるように思います」

 人身安全・少年課から少し奥まった廊下の先の部屋から、花井の若干尖った声が響いた。

 遠野が個人的に、池井から呼び出された翌日。

 正式に特命がが下った遠野は、寿命寸前に端が黒ずんだ蛍光灯が心許なく照らす薄暗い廊下を歩いていた。

 あまり乗り気がしない、と。

 遠野は視線の先にある部屋のドアノブに手をかけた。

 室内は、入った瞬間から微妙な緊張感を孕んでいた。

 その場の緊張感をピリッと生み出す面子も、多種多様と言っても良い。

 池井に召集されたその面子、それは。

 人身安全・少年課の斉藤、栗山はもちろん。

 サイバー犯罪対策課の市川や臨床心理士の花井、県警ヘリを管理する警備課の航空隊まで。

 必然的に最年長となった遠野も、流石にこの〝強面子つよめんつ〟には言葉を失った。

「しかもつい最近蘇った記憶でしょう? 十年以上前の記憶は、自分に有利に補正されている可能性もなきしもあらずでは?」

 悪気なく放たれる直球すぎる花井の言葉に、当の本人である斉藤も苦笑いを隠すことができないようだ。

 はははっと小さく笑った。

「そう言われてしまえば、元も子もないですけど」

「いや、斉藤の記憶は鮮明です!!」

 斉藤本人が自身なさげに答える横で、何故か栗山が自信満々に斉藤の記憶を擁護する。

 遠野はさらに閉口した。

「栗山さん、あなたね……」

 口調の尖りにうんざりを乗せて、花井が栗山を一瞥する。

 その冷たい視線など気にもせず、栗山はしたり顔で続けた。

「風化せずに、まるっと仕舞われていた記憶です! 錯誤・誤認なんてまずあり得ません! ただ!」

「ただ?」

「記憶のパーツがバラバラなだけなんです!!」

「はぁ?」

 栗山の放った言葉に、花井の尖が余計に増す。

「栗山さん、あなたの言っていること。大体破綻してるって気付きません? 記憶のパーツがバラバラって、錯誤・誤認の可能性大じゃないですか?」

「聞いたら、分かったんですよ。花井さん」

「何がです?」

「斉藤の記憶は、一つ一つが写真みたいになってる」

「写真って……」

「その写真に音声・気温・明暗・臭気・感覚まで一瞬で乗っかってる。それが、何百枚、何万枚って脳内にあるんですよ!」

「……」

 あまりの理論に、流石の花井も閉口した。

 言葉を失う花井を尻目に。

 栗山はかなりの厚さの用紙を、無造作に机の上に置く。

 遠野は思わず目を見張った。

 罫線けいせんも何もない白い紙に、筆圧の強いボールペンで沢山の字が羅列している。

 走り書き、といっても過言では無い。

 それくらい性急な筆跡の割には、状況等の内容はかなり細かで無駄がないくらい端的で。

 そして驚くほど意思のこもった筆圧に、目を奪われる。

 全身全霊がこもった、という言葉がぴったりと当て嵌まる、そう遠野は感じていた。

「この全部が、斉藤の〝眠っていた記憶〟か?」

 遠野は静かに口を開く。

「はい」

 バツが悪そうに、斎藤は再び苦笑いした。

「目の前に浮かぶ〝〟を、そのまま皆さんに見せられたらいいんですけど……。こうするしか方法が無くて」

「画との再現率は?」

「百です。ただし……」

「ただし?」

「時系列がぐちゃぐちゃなんです」

「……」

「これが、のどの部分かわからない。声や言葉、内容も。気温や照度もわかるのに、順番がめちゃくちゃで」

 分厚い資料にざっと目を通した遠野は、思わずため息をつく。

 確かに、記憶に蓋をしたくなる内容だ、と。

 眉間に皺を寄せて、その資料を隣にいた市川に渡した。

「それで、斉藤巡査部長のが、今回の事件と繋がるのですか?」

「繋がるといえば繋がる。微妙なラインですが、十五年前という時間経過を考慮しても、勝算は八十といったところです」

 遠野が抱いた疑問を引き継ぐように、市川が表情を崩さずに問う。 

 その問いに、静かで冷静な口調で池井が答えた。

 栗山の熱量とは違う、質の違う熱がピリピリと遠野の手を刺激する。

「八十ですか。残りの二十は?」

「榊の記憶で補完します」

「結構なカケですね。榊が嘘をつくとしたら?」

「ヤツは嘘はつきませんよ」

 池井は、口角を上げて言った。

「こちらの推測が正しければ、の話ですけどね」


* * *


 遠野はしばらく車を走らせると、スピードを緩めゆっくりと停止した。

 寂れた公園がある、どこにでもある住宅街。

 死角などないように見えるが、死角だらけの街を見渡す。

 そして、遠野は静かに「ビンゴじゃねぇか、池井」と呟いた。

 シートベルトを左手で外すと、その左手は迷うことなく無線機を握った。


『引き当たり支援・遠野から各局。Y町○○丁目三角公園付近交差点にて、停車中の引き当たり車両を目視で確認。これより離席し、引き当たり支援に入る。繰り返す--』


 イヤホンから流れる遠野の声。

 停止した車内にいる斉藤等は皆、返事をしないのはもちろん、表情すら変えない。

 池井が短く「降りるぞ」と言ったその瞬間に、榊が手錠を嵌めた手を上に持ち上げ、大きく伸びをした。

「おい、降りるぞ。榊」

 面倒臭そうな態度の栗山が、いたってマイペースに欠伸までする榊に促すようにいう。

「待ってくださいよ。少しくらい、懐かしんでもいいでしょ? ね、斉藤さん」

「外に出てから、懐かしみましょうよ。思い出って、何かに触れないと補完されないこともありますよね」

「まぁ、そうかもですね」

「じゃあ、出ましょうよ。榊さん」

「斉藤さん……」

「何ですか? 榊さん」

「いや……なんでも」

 想像以上に、気味が悪いくらい穏やかだ、と。

 斉藤を一瞥して、榊はようやく重たい腰をあげて車外へと一歩踏み出した。

 ザワッと。色んな音や匂いが、榊を刺激する。

 風が木々を揺らす音、湿気を含んだ土の匂い。

 甘いホットケーキの匂いと、子どもたちの元気な笑い声と。

 榊は、空を仰いでポツリと呟いた。

「変わらないなぁ、この辺は」

 纏わりつく懐かしい空気に、榊は目を細める。

「そうですね。変わらない」

 榊の言葉に追従するように、斉藤が静かに続けた。

「いや、変われないのかも」

「変われない? どういうことですか? 斉藤さん」

「変わらないんですよ、俺も、榊さんも」

「斉藤さん。さっきから言ってることが、曖昧すぎますよ?」

「俺たちは、あの時から変われないでいる。そうでしょう、榊さん。違いますか?」

 斉藤の言葉が、厭に榊の脳内にこだまする。

 瞬間、目の前に映る公園の風景が、真っ赤に染まったように、そう榊には見えていた。

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