6-3 key of memory(3)

「榊さん、出てください」

 F県警察C警察署の留置場に、静かにそして伸びやかな声が響く。

 ガチャリ、と。鉄格子の鍵が目の前で緩まった。

 壁にもたれてぼんやりしていた榊は、外界との隔たりを一瞬で無にしたその音に。

 薄く笑みを浮かべる。

「はーい」

 榊は、ゆるい返事をして立ち上がった。

 斉藤に蒔いた種は上手く作用しただろうか? 

 斉藤を揺さぶり、混乱させた取調べから三日が過ぎた。

 このまま決定打となる証言や証拠を、自分から聞き出さなければ。

 証拠不十分で釈放になるだろう。

 そもそも、のだから。

 この小さな鉄格子の世界とも、もうすぐお別れだ。

 幾分、白色のペンキで塗装されマイルドな雰囲気になっているとはいえ。

 警察署の留置場に施された鉄格子の牢獄感は全く薄まる要素がないと思える。

 僅か四畳半ほどの独居房に独立トイレと布団が置いてあるだけの、最低限のスペース。

 それが今の榊の寝食をするパーソナルスペースだ。 といっても、透け透けのパーソナルスペースなんて、あってもないのと同然だ。

 二十四時間常に監視され、週一の風呂の間も例外ではない。

 自殺防止とはいえ、まるで動物園の動物になったような感覚に。

 榊自身、苦笑いが込み上げて仕方がなかった。

 何もすることがない。

 できるといえば考えることくらいか、寝ることくらい。

 こんなところに長らくいると、心身ともにガタがきてしまうことは、想像に固くなかった。

 榊が常に平常心でいられたのは、所謂。

 客観視できる、自身の職業病のおかげとも言えよう。

 房の外に出た榊は、大きく伸びをしてスリッパに足を入れた。

 そして、両手両足を大きく広げて起立する。

 榊がここに来てから、一番最初に覚えたルーティンだ。

 制服を着た若い警察官は微動だにしない榊に、くまなく金属探知機をかける。

 頭のてっぺんからつま先まで、ゆっくりと慎重に。

 金属探知機をかけ終わると、今度はラテックスの手袋を嵌めた警察官の手が、榊の全身を探っていく。

 これら一連の動きは、被留置者が留置中に紐や危険物の嚥下等により、自死する可能性の物を排除するためだ。

 しっかりと起立をしているものの、こういうとき、榊はどこを見ていいか未だに皆目見当がつかない。

 じっと、自分の体を這う警察官の手を見るのもどうかと思う。

 わざとらしく上を見上げるのも、天井に設置された監視カメラの先にいる警察官と目が合いそうだ。

 視線のやり場に困った榊は、仕方なく。

 いつも、ぐるっと留置所を見渡すことにしている。

 どこまでも視界に入るのは、白い鉄格子の小さな部屋。

 途中、隣の房の言葉も交わしたこともない男と榊の視線がかち合ったりするが、それ以上の事もそれ以下の事も起こらなかった。

 全てが透けて見える、空間。

 プライバシーもなにもないこの空間こそ、今の榊の全てであり世界だった。

「今日、私は警察本部に?」

 榊は自分の身体総見をしている警察官に声を掛けた。

 しゃがんでズボンを細かく探っていた警察官は、榊と視線を合わすことなく呟く。

「さぁ、どうなんでしょう。自分は看守係なので。迎えにきてる刑事にでも、聞かれたらどうでしょうか? 榊さん」

「あぁ、そうですね」

 淡々と、表情も崩さず。

 身体総見を終えた警察官は、携行していた手錠を榊に見せる。斉藤とはタイプの違う、若い警察官。

 とりつくしまもなく、淡々としたこの警察官は榊のにはならなさそうだ、と本能が告げている。

 榊は若干物足りなさを感じつつ、自らの両手首を上にして差し出した。

「榊さん、手錠と腰縄をつけますよ」

「はい」

 ベルトを通していないズボンのベルト通しに、警察官は慣れた手つきで腰縄をとおす。

 そして、丁寧に腰縄を背中で縛った。

 カチカチと定期的な金属音をならしながら、手錠を榊の手首に嵌めていく。

 手錠をつける両手も手順も。

 隙も、遊びもない。

 榊は堪らず溜め息をついて言った。

「名前、なんていうんですか?」

「え?」

「あなたの名前です。教えてもらえませんか?」

「自分のですか? 何故?」

 若い警察官は、若干、眉を顰める。

「ちょっと興味がわいた、からですかね?」

「へぇ、本当にそうなんですか?」

「どういう意味ですか?」

「榊さんの興味は別のところでしょ? 違いますか?」

「まさか」

「榊さんが自分に声をかけたのは、自分が単純にあなたに興味を示さなかったからでしょ?」

「あなた、言うねぇ」

 結構、ズバリと指摘された。

 仕事柄、こちらが事件・事故や被害者・加害者に指摘することはあっても。

 指摘されることはない。

 ドキッと鼓動が一つなり、心の中を揺さぶられる。

 余計に榊は、この若い警察官の名前が知りたくなった。

「教えて、もらえませんか? 名前」

「無理です」

「あなたは私もの名前を知っているではありませんか?」

 榊のその一言に。

 警察官は一瞬だけ、目を丸くする。

 そして切れ長で涼やかな目を細めて、少し口角を上げた。

「自分の場合、榊さんの名前は、職務上知り得たものですよ? 自分が興味を持ったわけではないです」

「そこをなんとか。内密にしますんで」

「教えません。教えられません。自分はまだ階級が開示情報に達してませんし。状況的にも無理ですよ」

 --

 ここまでブレないと、手も足もでない。

 ちょっと前に出会っていたかったなぁ、でも--

 榊は、ニヤリと笑う。

「まぁ、いいです。自分はもうすぐここから追い出されます。その時は、あなたを取材させていただきますよ」

、の話ですけどね」

 若い警察官は、榊の腰紐を持つと閉鎖的な房の鍵を開けた。



「あ、斉藤さん?」

 色合いは開放的な、白い壁に囲まれたているはずなのに。

 留置場の廊下は、異様に長く不思議な圧を感じる。

 何回、何十回と。

 取調の度に通ったこの廊下が、榊はなんだか苦手に思っていた。

 それは多分、苦手とする閉所に関係しているのではないか、と自ら結論付ける。

 留置場の砦ともいえる白く重い鉄扉が次第に大きくなり、若い警察官によってその鍵が開けられた。

「……ッ」

 大きく開けられた鉄扉の向こう側から、差し込む明るい光。

 閉鎖された留置場と外とを繋ぐ。

 中間のようなこの場所の光は、蛍光灯のみしかないのだが。

 思わず目を細めてしまうほど、異様に明るく榊の瞳孔を刺激した。

 サァッと一瞬で、視界が白く霞む。

 次第に明るさに目が慣れた時、榊の目の前には意外な人物が立っていた。斉藤である。

「あ、斉藤さん?」

 榊は思わず、声を発した。

「榊さん、こんにちは。この間はお見苦しいところを見せてしまって、すみませんでした」

 そう言って、斉藤は頭を下げる。

 斉藤の声は、非常に落ち着いているように感じた。

 しかし、小刻みに動く視線は、あの取調室の時と全く変わっていない。 

 斉藤から僅かに漂う、自身なさげな視線や表情。

 それは、さっきの切れ味鋭い若い警察官とは異なり支配欲をくすぐる。

 榊は目を細めて、見下ろすような笑みを浮かべた。

「いえいえ。大丈夫でしたか?」

「はい。ようやく体調も戻りました」

「〝わっくん〟について、何か分かりましたか? 斉藤さん」

 完全に挑発のつもりで。斉藤が我を忘れてしまう〝キーワード〟を放つ。

 〝わっくん〟--。

 榊が言った瞬間、斉藤の目が少し見開かれた。

 しかし、それも一瞬で消える。若干、拍子抜けした

「そのことで、榊さんにちょっと付き合っていただきたくて」

 動揺などなかったかのように。

 斉藤は穏やかに笑って、静かに榊のキーワードに答えた。

 留置場の閉鎖的空間と現実世界の間のドアを開けると、池井と栗山が並んで立っていた。

「いやぁ、お揃いで……って。大丈夫でしたか? 怪我の方は」

 留置場から解放された瞬間の榊の声は、やたらと明るく張りがある。

 その場違いで朗らかな声にのせらた一言は。

 明らかに一際険しい顔をしていた栗山に対して向けられている。

 栗山の眉間に余計に皺が寄った。

「おかげさまで後遺症もなく。俺がどうにかなったら、悲しむ人がたくさんいるんでね。気合いで帰ってきたよ」

「Romeo must die(色男は必ず死ぬ)ならぬ、Romeo will never die(色男は決して死なない)ですね」

「まぁな」

 栗山の怒気の含んだ曖昧な返事。

 それを聞き流した榊は警察署の裏口をでた瞬間、違和感を覚える。

 いつもと違う。目を見張る榊の前には、セダンタイプの黒い乗用車が横付けされていた。

「あれ?」

「なんだ、榊」

「いつもの白い、ゴツい車じゃないんですか?」

 違和感が募るほど、さらなる違和感が現れる。 

 警察本部へ取調べに行く時は、必ずと言っていいほど、白いハイエースで送迎されていた、とか。

 護送の人数が少ないだとか。

 榊は身構えて、足を止めた。

「どうしました? 榊さん」

 柔和な笑顔を浮かべている割には、相反するように身を固く榊に。

 斉藤が穏やかな口調で声をかけてる。

「何を、考えてますか? 斉藤さん」

「いやぁ、特には……」

「特には?」

「ちょっと、ドライブしませんか?」

 斉藤の意外な言葉に、榊は思わず振り返った。

 腰縄を持つ斉藤は、至っていつもどおりで。

 忙しく視線を動かしている。榊は、思わず息を呑んだ。

 (なんだ? 何を……斉藤は、考えているんだ?)

「ドライブ、ですか?」

「はい! 留置場から、榊さんの分のお弁当もいただいてきました。時間はいっぱいありますから」

「だから、なんですか?」

「榊さん! 今はドライブ、楽しみましょう」

 その言葉が合図だったように。

 池井が後部座席のドアを開けると、反対側から後部座席に乗り込んだ栗山に腕を引っ張られた。

 同時に後ろからくる斉藤に体ごと押し込められ、抵抗という言葉を忘れてしまったかのように。

 あっという間に狭いセダンに監禁された。

 後部座席に違いの肩が触れ、ひしめき合う音が聞こえる気がする。

「さ、行きましょうか? 榊さん」

 にこやかな笑顔で、斉藤は言った。

 その笑顔の裏にある斉藤の本心が見えなくて、榊は斉藤の目の奥をジッと凝視するしかなかったのだ。

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