6-1 key of memory(1)

「おいっ! 斉藤しっかりしろっ!」

 自分に振り下ろされるハンマーのような怒号と、目の前でパチンと破裂音を響かせる手のひらの音に、斉藤はハッとした。

 滲み、霞がかかったような視界に瞬間、グラッとする。

 あぁ、この感覚は。

 泣き腫らした後のような視界に似ているんだ。

 そう思った途端、違和感と不安感が一気に斉藤に押し寄せる。

 一瞬、息が止まった。

「ゲホッ……ゲホッ」

 正常に機能していたはずの呼吸が乱れ、肺が空気を欲するように斉藤が咽せる。

 体が二つに折れ、バランスを失った。

 グラりと流れるぼやけた視界に急に伸びてきた手が、斉藤の不安定な体を支える。

 驚いた斉藤は、目を大きく見開いて顔を上げた。

 目の前に人の形がうっすらと浮かび上あがる。

 瞬時に、手を差し出した人物が誰だか、斉藤にはすぐには認識出来なかった。

「大丈夫か、斉藤!」

「栗山……係長?」

 未だ不安定な視界を補完するように。

 斉藤の耳は、己の体を支えているのが栗山である事を認識させる。

 頭も足元も、不安定にふわふわとした感覚。

 辛うじて声を発してみたものの、なんだか歯医者で麻酔を打たれた直後みたいに。

 自分の舌までもが麻痺していて、呂律までも怪しい気がした。

(俺、何してんだ? あれ……俺は)

 クリアに機能しない思考で、斉藤は直近の記憶を懸命に引き出す。

「俺……取調べ」

「今日はもう終わったんだ、斉藤!」

「終わっ、た? いや、俺……榊さんと、まだ」

「もういいから! いいんだよ、斉藤」

「良くない、良くないですよ……俺まだ、何も」

「斉藤。覚えて……ないのか?」

「え?」

「お前……本当に?」

「何を……覚えてないんですか?」

「じゃあ、何を自供したんだよ」

「え? 自供?」

「お前、言ったんだよ」

「何を?」

「〝俺がやりました〟って」

「ッ!?」

「斉藤……ちょっと、こっちこい!」

 無理矢理栗山に首根っこを掴まれた斉藤は、狭い視界のまま、暗いF県警察本部の廊下を引き摺られるように歩かされていた。



『あの日、あの時。わっくんは、何をした? ねぇ、何をした? わっくん』

『俺は……』

『言ってよ、ほら』

『俺は……俺が』

『斉藤ッ!!』

『俺が……やりました』

 再生されては、また最初に巻き戻される取調映像。

 暗く閉ざされた部屋の壁一面のスクリーンに映し出されるそれは。

 幾度となく繰り返され、回数を経るごとに斉藤の視力や思考を疲弊させる。


 栗山に首根っこを掴まれて。

 まずはじめに斎藤が強引に連れてこられたのは、警察本部の最上階にある食堂だった。

 現状把握ができないまま。

 食堂の席に座らされ、目の前にドンとカツ丼が置かれる。

「とりあえず食え」

「え?」

 栗山の突飛すぎる行動に、斉藤は言葉を失った。

「食ったら、ゆっくり反芻しろ」

「えぇ?」

「とりあえず、脳に糖分をまわせ」

「栗山、係長!?」

 意識も足元もフラフラして、食欲なんてまるでないのに何を考えているんだ、この人は……。

 しかもなんでカツ丼なんだ? と、斉藤はいぶかしげに栗山を見返した。

「そんなに睨むなよ、斉藤」

「だって……これは」

「いいから。落ち着いて、食え」

「い、いただきます」

 目の前で腕組みをし、自分を見下ろす栗山の圧に推されて。

 斉藤は渋々割り箸を取る。

「お前、さっきちゃんと見えてただろ?」

「え?」

「記憶だよ、記憶」

「記憶……?」

「榊に大分押されてたけど、お前ちゃんと見えてただろ? お前に眠る記憶が」

「わ、わかりません!! 俺、あんま覚えてないんですってば」

「大丈夫だ」

 何をいっても〝大丈夫だ〟しか言わないんじゃないか? 

 それとも、栗山には揺るがない自信があるのか。

 揺るがない自信を孕み斉藤を凝視する栗山は、斉藤がカツ丼を口に運ばないかぎり緩む事はないだろう。

 斉藤は観念したかのように、一口、カツ丼を口に運んだ。

「食べたら、見るぞ」

「え?」

「取調室の映像だよ」

「え? なんで?」

「とりあえず、早く食え」

「は、はい」

 栗山の意図がわからないまま、カツ丼を平らげた斉藤は。

 また栗山に首根っこを掴まれて、警察本部の小さな会議室に連れてこられた。


 そして、今。

 斉藤は暗い室内で、延々と取調官の録画映像を見せられている。

 とりあえず、無理矢理だったとはいえ。

 体力的に心理的に疲弊する作業が待っているのなら、腹に何か入れていておいて正解だった、と思わざるをえない。

 警察官である自分が不明な事件の自供をする、異様な録画映像が繰り返し流れる。

 終わりの見えないこの状況下。

 斉藤は流石にため息をついた。

「やめるか? 斉藤」

 暗い室内で響く池井の声が、今までに無いくらい気遣うように柔らかな口調で。

 斉藤は思わず、隣に座る池井の方を見る。

 柔らかな口調とは裏腹な。

 眉間に皺をよせ険しい表情をした池井に、斉藤は驚いて目を見張った。

「いえ、大丈夫です」

「何か引っかかることはあるか?」

「……ありません」

「なんでなんて言ったんだ?」

「何度も言いますが、あまり覚えてなくて」

「なんで覚えてないんだ? 斉藤」

 池井は繰り返し同じ映像が流れるスクリーンから、目を離さずに口を開く。

 質問の内容自体、一番斉藤自身が困ってしまう内容で。

 斉藤は深くため息をついた。

「……頭が、とてもぼんやりして。榊の声しか耳に入らなかったように思います。現に、池井補佐に名前を呼ばれたことすら、記憶にありません」

「榊が言っていた事は?」

「昔〝会ったことがある〟って、アレですか?」

「あぁ」

「すみません……わかりません。けど……」

「けど?」

 膝の上に置かれた拳を握り締める。

 そして、一つ一つ言葉を拾うように、ゆっくりと応えた。

「あの時、脳裏にいくつかの映像が浮かんできました。先日の現場じゃなかった。多分、小学生の頃の記憶の断片だと思います」

「斉藤!?」

「少し、鍵が開きました。榊と栗山係長のおかげで」

 スクリーンを凝視していた池井が、初めて視線をそこから外して斉藤を見る。

 画面に映るうつろな光を孕んだ目をした斉藤とは違う。

 目に意志の強い光を宿した斉藤が、真っ直ぐに池井を見つめ返した。

「池井補佐。もう一度、コールドケースが見たいです」

「斉藤……お前」

「お願いします、池井補佐」

 また、原因不明で倒れてしまうかもしれない。

 それでも、フラッシュバックした幾つかの記憶からこぼれた映像は。

 榊と今の事件と、コールドケースに眠る事件を繋げるのではないか、と直感していた。

 榊に言わされた自供。

 何故、あんな事を言ってしまったのか? 

 何故、榊一郎は、あんなに楽しげに自分を見ていたのだろうか? 

 そしてあの時、自分はどんな顔をして榊を見ていたのだろうか? 

 その答えが……正しい答えを。

 斉藤はどうしても知りたかったのだ。

 〝大丈夫〟栗山の声と池井の声と、自分の心の声が重ね、重なる。

 斉藤は強い視線で池井を見た。

「何か分かりそうなんです……お願いします! もう一度、コールドケースを見せてください! お願いします!」

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