5-3 取調室(3)
蛍光灯の色だけが、やたらと明るく取調室内を浮かび上がる。
一昔前の、無機質で冷たい鋼製机が圧ありげに狭い室内に鎮座し、また被疑者の顔を容赦なく照らす卓上蛍光灯スタンドなど、と。
そのような警察改革以前の調度品は、今やドラマで作られた世界にしか存在しない、と言っても過言ではない。
実際、斉藤と榊が向かい合わせる平机は、角が丸く温かみのある木目の天板が張られている。
池井は大きく吸い込んだ息を、丹田に力を込めながらゆっくりと吐いた。
「榊さん、昨夜はよく眠れましたか?」
斉藤の声が、狭い取調室内に凛として響く。
ノート型パソコンの液晶画面から視線を動かさずにいた池井は、斉藤の真っ直ぐなその声に少し安堵した。
--大丈夫、いける。
池井は、静かに頷いた。
「えぇ。斉藤さんは?」
そんな池井の心境を知ってら知らずか。
榊は静かに口を開いた。相変わらずの、表情の全く読めない笑顔を浮かべる。
「え? 俺ですか?」
榊の穏やかで鋭利な視線と、強い意志を含んだ真っ直ぐな斉藤の視線がかち合った。
バシッ--!
斉藤は、瞬間的に身を固くする。
互いの視線が交わった刹那に、見えた小さく激しい火花。
机の上にパラパラと落ちて消えたものの。
その強さと衝撃は、蛍光灯の緩い光など色褪せてしまうほどだった。
(呑まれるな! 落ち着け!)
そう、心の中何度も言い聞かせた斉藤は、膝の上に置いた手を強く握りしめる。
「顔色がすぐれないから、あまりよく眠れてないんじゃないですか?」
「いや、そんなことないですよ。榊さん」
表情で悟られてはいけない。
大丈夫、いける--!
斉藤は食いしばった奥歯の力を緩めると、口角を上げて笑顔を見せた。
「本当に?」
「至って普通。かえってよく眠れてるくらいです」
「そっか」
「どうして?」
「え?」
「榊さんはどうして。どうして、俺にそんなことを聞くんですか?」
「いやぁ、深い意味はないよ。単なる世間話だって、斉藤さん」
「そうですか」
「ひょっとしてあれですか? 斉藤さん」
「え?」
「私が勾留されてるから。変な奴に襲われなくてもいいって、思ってるから。よく眠れるようになったんじゃないですか?」
「違いますよ、榊さん」
榊の目を真っ直ぐに見つめ、斉藤は力強く言葉を放った。
「俺は一人じゃないんです、榊さん。こんな俺を支えてくれる人がたくさんいる。だから、安心して眠れるし、立っていられるんです」
「……へぇ。そっか」
斉藤の言葉に一つも動揺することもなく、榊は顔に貼り付けたアルカイックスマイルを崩さない。
その榊の視線は、不安定さを隠し強がる斉藤を見透かしているかのように。
鈍く光る。
榊は手錠の跡が少し残る腕を机に乗せて、頬杖をついて言った。
「じゃあ、そろそろ。私も本気だそうかな?」
空気がかわった、と。
ノートパソコンのキーボードの上に指を滑らせながら、池井は漂う空気の流れを漠然と感じとっていた。
『榊さん。あなたは、なぜあの家にいたのですか?』
『なんでだろうね。うーん、なんでかな? なんでだと思う? 斉藤さん』
『それは俺にはわからないから聞いてるんですって、榊さん』
『そういえば、斉藤さんは。なんであの家に私がいるってわかったんですか?』
『ちょっと待って、榊さん。俺の質問にまず答えてください』
『なら、私の質問にも答えてよ、斉藤さん』
『いや、まず俺のが先です』
『もう……斉藤さんは、頑固だなぁ』
『榊さんもでしょう?』
『いやぁ、まいったなぁ。私はもうちょっと斉藤さんと腹を割って喋りたいんだけど』
『今は取調べ中ですよ、榊さん。世間話をしてるんじゃないんです』
『あぁ、そうだったね』
『榊さん……』
事件と微妙にズレていく実のない会話。
生産性と進歩のない斉藤と榊の会話が、文字となって液晶画面に羅列する。
のらりくらりとして、なかなか手の内を見せない榊。
そして、探り探り会話を誘導する斉藤と。
一進一退すぎて、時間だけが厭に遅く流れている感じがした。
池井の耳が捉える二人の情景。
目には見えない分、斉藤がブレたらいつでも助けに行ける準備はできていた。
それに監視カメラが設置してある取調室という環境下ということもあって。
多少、池井自身も〝ただならぬ事態には絶対にならない〟と。
後から思えば、当てにならない自信と慢心があったに違いない。
〝取調室に監視カメラ〟--。
警察や検察における、密室での違法や不当な取調べによる自白等の強要により、
無罪を有罪にしない--。
海外では日本より先に導入されてきた取調室の可視化である。
平成二十八年の刑事訴訟法等の一部改正に基づき、裁判員裁判対象事件・検察官独自捜査事件について。
身体拘束下の被疑者取調べの全過程の録画が、義務付けられたのだ。
警察では被疑者などの取調べを、捜査部門以外の警察官によって、監視・録画が行われている。
その取調室内の様子を監督する制度を、取調監督官制度といい、平成三十一年六月に施行されているのだ。
冤罪裁判が尾を引く現状が多いはずなのだが、意外と新しい制度改正と言えよう。
「そうだ! 斉藤さん」
穏やかに、緩く進んでいた空気を破るように。
突然、榊の声が明るく響く。
池井は、思わずキーボードを押下していた指を止めた。
チラつく液晶画面から少し視線をズラす。
池井は、声のする取調室中央に注視した。
「なんですか、榊さん。まだ、何か世間話があるんですか?」
池井に背を向けて座る、斉藤の表情はわからないが。
榊の表情は、斉藤の肩越しに見てとることができる。
相変わらずの、微笑。
笑っているのに、奥底が仄暗く光る榊の目が、池井の背中にスッと冷気を走らせた。
「世間話というか……覚えているかなぁ、と思って」
「え?」
「私は覚えているんです」
「何を、です?」
「久しぶりだね、〝わっくん〟」
「!?」
榊の意表を突く一言に、椅子をガタつかせ動揺したのは池井の方だった。
何故、それを知っている!?
何故、今それを言うんだ!?
手のひらが汗ばみ、ゴクリと喉を鳴らす池井とは対象的に。
榊に対峙する斉藤の背中は、ピクリとも反応しない。
止めるべきか、それとも斉藤に算段があるのか。
斉藤の表情がわからない以上、池井は状況を変える一歩が踏み出せなかった。
「覚えてるでしょう? わっくん」
「覚えて……る? 何を?」
「あの日、私とわっくんは、あの家にいたんだよ」
「家?」
「あの日は、暑かったよね。一緒にアイスを食べて、それから公園で遊撃者のゲームをしたんだ」
「してない、です。そんなの。それに俺はあなたを知らない」
「私は知ってる」
次第に小さくなる斉藤の声。
それを覆い被せるように、榊は静かに言い放った。
「あの日、私は斉藤さんを……わっくんを助けたんだ」
「いや、わかんない……榊さん。俺にはそんな記憶はない」
「〝わっくん、逃げろ!〟」
「ッ!!」
池井は思わず立ち上がった。
狼狽する池井を、榊は一瞥する。
冷たく、酷く鋭い視線。警察官として幾度も修羅場を潜り抜けてきた池井でさえ、一瞬怯んでしまうほどに。
榊の圧に気圧されてしまった。
「あの日、あの時。わっくんは、何をした?」
「……」
「ねぇ、何をした? わっくん」
「俺は……」
「言ってよ、ほら」
「俺は……俺が」
凛としたクリアな斉藤の声が、小さく淀んでいく。
斉藤の表情が見えないせいで、池井はしてはいけない油断をしてしまったと認識した。
(
圧迫感が抜けぬ胸に無理矢理力を込めて、池井は声を振り絞った。
「斉藤ッ!!」
「俺が……やりました」
取調官である斉藤がポツリ、ポツリと呟く、信じられない言葉。
その〝やりました〟の真意が全く分からないにも拘らず。
斉藤の言葉が池井の腹の底で引っかかる記憶を、強く揺さぶり刺激した。
斉藤の背中が、小さく震える。
先ほどまでの覇気がまるでない。
一瞬で、少年に戻ってしまったかのように、か細く頼りない斉藤の声が、再び取調室にこだまする。
「俺が……やりました」
この言葉を、斉藤から引き出せたことに満足しているのか。
榊は、相変わらず感情が読めない笑顔を貼り付けて、斉藤を見下ろしていた。
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