5-2 取調室(2)

 はぁ、っと--。

 吐いた小さな呼吸音。

 そんな小さな小さな音でさえ、池井の耳は過敏に拾う。

 斉藤の呼吸が浅い。

 池井はその聴覚と肌に触れる振動で感じとっていた。

「大丈夫だ、斉藤。心配するな。俺が補助者ではいる。お前に違和感があったら、すぐ交替する。いいな」

 気休めでしかないことはわかっていた。

 わかっていたが。

 緊張を押し殺す斉藤には、直に伝えなければならない言葉だと池井は強く思った。

 薄暗いF県警察本部の廊下を並んで歩く斉藤の肩が。

 まさか、こんなにも池井にはとても小さく、心許なく見えるとは。

 こんな時、最近顕著すぎる栗山の空気の読めない明るさが必要なんじゃないだろうか、とか。

 そんなことを頭の隅で思いながら、池井はそっと、斉藤の肩に手を置いた。

 触れた手のひら。

 思った以上に華奢な肩から、斉藤の不安が一気に流れ込んでくるようだった。

「はい。了解です」

 流れ込んできた負の気配とは裏腹に。

 斉藤の声は凛として、真っ直ぐで。

 淀んだ廊下にはっきりと響いて。

 どこにも迷いがないように思えた。

 胸を打つ、妙に深度に刺さる違和感。

 池井は堪らず、斉藤の顔を覗き込んだ。

「な、なんですか? 池井補佐」

 いきなり、己の視界に入ってきた上司の怪訝な顔。斉藤はギョッとして半身を引く。

「いや、呼吸の割には。落ち着いた顔してんだなぁと思って」

「落ち着いた顔……してますか?」

 池井の意外な言葉に、斉藤は思わず目を見張って応えた。

「有無を言わさず、ヤツ調からな。ガチガチに緊張してんのかと思った」

「緊張は、してますよ。それなりに。それに、榊ですし……」

表情かおと声だけなら、緊張してるようには見えねぇよ」

「そう、ですか?」

「俺の心配も杞憂だったかな」

 このところ、ずっと皺を寄せたままだった池井の眉間から力が抜ける。

(部下を信用しなくてどうすんだ、俺)

 斉藤の華奢な肩をポンと叩くと、池井は目を細めて口角を上げた。

「いえ! 池井補佐がいてくださるから!」

「そ、そうか?」

「俺が不甲斐なくて、申し訳ないですが……。今日は、よろしくお願いします」

「おう」

 少し。

 互いがまとう空気が軽くなる。

 池井がそう感じている一方。

 極めて冷静に、穏やかに振る舞う斉藤の心中は、千々に乱れていた。

 落ち着け、と思えば思うほど。

 色んな記憶がフラッシュバックする。

 瞼に焼きついて離れない。

 あの時の。

 真っ赤に染まる家に佇み、穏やかな笑顔を浮かべる榊の姿が浮かび上がる。

 さらに厄介なのは。

 その狂気めいた榊やあの赤い風景に、どこか既視感を覚えていることだった。



「なーんか、忘れてるような気ィすんだよなぁ」

 取調室へ向かう池井と斉藤の、重たい空気を纏った背中を見送った栗山は。

 机上に積み上がる事件書類にゆっくりと手を伸ばした。

 療養休暇中に溜まりに溜まった事件書類にうんざりしながら、栗山はその書類の一つ一つに目を通していく。

(そういえば、も、こんなふうに書類に目を通していたよなぁ)

 栗山が警察本部前の路上で、自動車に轢かれたあの時も。

 あの時は、池井に戦力外通告を受けてからのデスクワークだったのだが。

 今のこの状況が、あの時の状況にとても酷似していると、栗山は感じていた。

(あの時は、そう……確か)

 不貞腐れてイライラしていたんだ、と。

 栗山は事件書類に刻まれた活字を一文字ずつ拾いながら、一ヶ月も満たない己の記憶を反芻する。

「失礼します! 会計課予算編成室の緒方です! 池井補佐はいらっしゃいますでしょうか!!」

 栗山が記憶を遡ろうとした瞬間。

 執務室に響き渡る、明るくはっきりとした声が響いた。

 栗山の記憶のメモリーへと繋がる回路は、その明るい声に遮断されシャットダウンする。

(あぁ、もう! 邪魔しやがって! なんなんだよ!)

 心の中で、悪態をついては見たものの。

 何故か。

 響く声音に悪い気はしなかった。

「あぁ……またいらっしゃらないのかー」

 執務室の出入り口付近で、緒方は困ったように眉尻を下げる。

 分厚いファイルの何冊も抱えた緒方の肩が、栗山にはガクッと力をなくしたように見えた。

 そのファイルが床に落ちるのを想像して、堪らず足が動いた。

「あ! 栗山係長! 復職されたんっすね! よかったぁ」

「え?」

 よほど栗山が、怪訝な顔をしていたのだろう。

 緒方は困ったままの眉尻をさらに下げて、ぎこちない笑顔を貼り付けた。

 緒方は深々と頭を下げると、栗山の脇をすり抜ける。

 そして、池井の卓上に一冊のファイルを置いた。

「栗山係長、すみません」

「あ? なんだ?」

「来年度予算の県の財政課から打ち返しがきたので、資料にまた目をとおしていただけないか、と。池井補佐に伝えてもらっていいっすか?」

「あぁ、わかった」

「よろしくお願いします」

「すみませんねぇ。警務部門の方にはわからないでしょうけど。捜査部門を急に訪ねてこられても、会うのは無理でしょ?」

「ははは、そうですね! そうでした! お忙しい中すみません」

 平静を装いつつも。

 栗山の頭の中は混乱していた。

 フル回転で、近い記憶を必死に呼び起こす。

 この会話、このやりとり。

 以前、どこかでやったような既視感。

 なんか、やっぱり……何かを。

 事故直前の何かを、忘れているかもしれない。

「はいっ!?」

 栗山に呼び止められた緒方は、必要以上驚いて返事をした。

「あんたに言うのも、失礼かもしれないが。俺、事故直前の記憶が曖昧でさ」

「そう、なんすか……」

「俺、なんかあんたと会話した気ィすんだ」

「……」

「悪いが、何か知ってんなら。教えてくれないか?」

「……え、と」

「お願いだ! 頼む! 緒方係長!」

 そう言い放つと、栗山は土下座をせんばかりに頭を深く下げる。

「ちょ! 栗山係長! 頭を上げてください!」

「お願いだ! 緒方係長! これを思い出さなきゃ! 俺は多分、後悔する気がする! お願いだ! 教えてくれ!」

 人に頭を下げて懇願する今の自分が、どれほどカッコ悪いか。

 いつもスマートに、常に高い理想を持ち、無駄なことなどしないように。

 でも今は! 目の前の緒方に縋り付き、懇願しなければならないほど、形振なりふりなどかまっていられなかった。

「……シールを」

「え?」

 ポツリと。

 雨音のように静かに響く、緒方の言葉に栗山は勢いよく顔を上げた。

 緒方はファイルを抱えたまま、意志の強い眼差しで栗山を見ていた。

 ガチッと。

 重なり合う視線に、栗山の空白だった記憶の一部が揺さぶられる。

「あの時、栗山係長は」

 緒方は、かちあう視線をはずすことなく言った。

「証拠品の〝ガラリス〟の死神リーパーのシールを見て、を思い出されていました」

「あ……!」

 濃霧に覆われて不明瞭だった栗山の記憶の一部が、刹那に、はっきりと輪郭を帯びてくる。

 あぁ! そうだ!! あの時、あの時に!! 栗山は、もう一度深々と緒方に頭を下げた。

「ありがとう! 緒方係長!」

 栗山の声は、執務室を震わすほどの大きく響く。

 瞬間、栗山は緒方に踵を返して走り出した。

勢いよく執務室から廊下に飛び出し、薄暗い廊下を走る。

 あのシール、どこかで見たと思ったんだ! 

 単なる刑事の直感にしかすぎないけれども! 

 腹の底に芽生えた違和感を伝えなければ! 

 それを斉藤に伝えなければって! 

 あの時も、こんなふうに廊下を走って! 

 そして、事故にあったんだ! 

 押し寄せる波のように覚醒した栗山の記憶は、自身を引いた車の運転手の顔まで、明確に脳裏に映し出す。

 何かに脅され、怯えたような目をしてハンドルを握るあの男は……。

 斉藤を襲撃した、局部を切り取られたあの男だ! 

 迫る車。

 ハンドルを握る男の首元がキラリ、と光ったと思った。

 乱反射した光が、後部座席にいた男の顔を浮かび上がらせる……。

 あの新聞記者だ! 

 病院でチラッとだけ、ほんの秒の間に見た記憶がある新聞記者。

 そうだ……! 

 アイツの取材鞄には、この死神リーパーのキーホルダーが付いてたんだ!

 斉藤、あの新聞記者に、気をつけろって!! 近づくなって!! 伝えたかったんだ!!

 階段を駆け下り、廊下を走り。

 息を切らし栗山は、勢いよくドアを開けた。

 取調室と特殊加工したガラス一枚隔てた薄暗い部屋にいた捜査員の視線が、一気に栗山に注がれる。

 呼吸を整える間も惜しむように、栗山は乾いた喉を振り絞った。

「今すぐ……! 取調べを中止してください!」

「おい、栗山おまえ。何言って……」

「いいから! 取調べを中止して、斉藤を出してください!」

『俺が……やりました』

 栗山の言葉に被るように。

 取調室内の声が室内の音響装置をとおして、薄暗い部屋に響く。

 一瞬、水を打ったように。

 部屋の中が静かになった。

 その声に、栗山は全身が氷のように冷たくなる。

 体中の血が足元に落ち、得体の知れない不安が栗山を襲った。

『俺が……やりました』

 マジックミラー越しの取調室で、取調官の斉藤がポツリ、ポツリと呟く言葉。

 その斉藤の目はどこか焦点が合っておらず、瞳の奥に鈍く仄暗い光が宿る。

「あ、いつ……今の、何て言った!?」

 栗山は、思わず言葉を失った。

 何故、斉藤がそんなことを口走っているのか。

 栗山には、何一つわからなかった。

 しかし、ただ一人。

 その状況を楽しむかのように。被疑者の榊だけが、穏やかな表情で静かに笑顔を浮かべていたのだ。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る