5-1 取調室(1)

『なぁ、そろそろちゃんと喋ってくんないかな? 榊さん』

『あなたじゃ多分無理なんですよ。他の人に代わってください』

『前はもっと協力的だったじゃないですか?』

『協力的? 私は協力的だった覚えはありませんよ? あなたがそう思い込んでいるだけでしょう?』

『榊さん……あのなぁ』


 マジックミラー越しに繰り広げられる、F日報の榊と取調官の淡々とした会話のやり取りが。

 何故か、斉藤の胸をざわつかせた。

 白々しいほどに。

 やたら明るい取調室と特殊加工したガラス一枚隔てた薄暗い部屋に斉藤と池井は、息をも押し殺して佇んでいた。

『ところで、僕が勾留されている事は、報道発表してないんですか?』

『なんで? なんでそう思うんだ、榊さん』

『いや、隠蔽するの得意でしょ? 警察って』

『隠蔽なんかするわけないだろ? 榊さんがちゃんと喋ってくれないから、できるもんもできないんだよ』

『誤認逮捕って、カッコ悪いですもんね』

『あのなぁ……いい加減にしろよ?』

『あぁ、ほら。顔に不機嫌が出てきてる』

『ッ!!』

『だから言ったじゃないですか。あなたじゃ無理なんですよ』

『榊さん、あんたね!』

『わかったら、取調官を変わってください。それにもう、取調室に入って1時間半が経過してる。そろそろ解放してくれませんか?』

『……わかったよ』

 見た目にも固そうなパイプ椅子に座る榊に。

 再び手錠と腰縄がかけらると、取調官は榊を連れてやたらと明るい取調室を後にする。

 無機質な足音が狭い室内に響く中。

 ほんの一瞬。

 榊とマジックミラーの向こう側にいる斉藤の視線が、かちあった気がした。

「ッ!」

 瞬間、押さえ込んでいた呼吸を乱さる。

 斉藤は堪らず咳き込んでしまった。

 目なんて、合うはずもないのに。

 榊の一挙手一投足に、いちいち動揺する自分が情けなくて、斉藤は下唇をグッと噛み締めた。

「勾留延長が認められても、今のまんまじゃ厳しそうだな」

 腕を組んで難しい顔をした池井は、ため息混じりに言葉を漏らす。

「そうですね。当初送致前に供述した榊の発言も、かなり抽象的でしたからね」

 池井に漏れた言葉に、斉藤は視線を合わさずに返事をした。

 なかなか抜けない、喉の奥に溜まる不快さ。

 斉藤は無理やりに、それを押し殺した。

「決定的な事を聞き出さない限り、かなり弱いよなぁ……」

「河村さんをもってしても、核心には至りませんでしたね」

「あぁ、今思えば。のらりくらりとした回答だよな」

 誰もいなくなった取調室の灯りが消え、真っ暗になった取調室を未だ真っ直ぐに見つめる斉藤と。

 それとは対照的に、池井はうんざりしたように目を閉じた。

「言ってしまえば、ただ現場に居ただけ。みたいな感じになっちまうもんなぁ」

「不起訴、釈放の可能性も、無きにしも非ずですか? 池井補佐」

「まぁな。でも、不起訴・釈放されたらたまったもんじゃないぞ? 曲がりなりにも記者だからな、アイツは。〝実録! 勾留ルポ〟なんて書かれてみろ。SNSのトレンド入り間違いなしだ」

 池井は、はぁとため息をついて天を仰いだ。

 警察官は、被疑者を逮捕してから四十八時間以内に、検察官へ送致する手続きをしなければならない。

 この四十八時間以内に、犯罪に係る被疑者の取調べや実況見分等の証拠収集を行う。

 警察官からの送致を受けた検察官は証拠等に基づき、送致から二十四時間以内に、被疑者に対する勾留請求または釈放のいずれか選択し、決定することになる。

 警察等の捜査機関は、被疑者の身体拘束をしてから七十二時間以内に、その継続するかどうかを判断しているのだ。

 榊の場合。

 四十八時間の間は至極協力的での質問にも、取調官を煽ることもなく、穏やかに受け答えをしていた。

 しかし、勾留期間が決定した後、榊の態度は一変する。

 取調官を煽り、事件について何も答えなくなってしまったのだ。

 遅々として進まない取調べ。

 当初、榊の協力的な態度に、取調官が態度を軟化させてしまったのも否めない。

 目の当たりにする取調べ現場の異様さ。

 そして、歪んだパズルのように不可解に整合性がとれない状況下。

 斉藤自身も歯痒く感じていた。

〝決定打がない--〟

 何人もの取調官を煙に巻き。

 榊の初回の勾留期間が、間も無く終了する、というところまできていた。

 身体拘束が決定した被疑者は、刑事施設に一定期間拘束される。

 これを勾留という。被疑者の場合は原則十日間。

 勾留期間は、刑事訴訟法二〇七条一項等で定められているのだが、条件を満たすと、この勾留期間が延長されることがある。

 そう、〝やむを得ない事由〟がある場合は。

 検察官の請求により裁判官が勾留期間を延長することができるのだ。

 これを勾留延長という。

 勾留延長の要件である〝やむを得ない事由〟とは、「捜査を継続しなければ検察官が事件をどのように処分するのか判断できない」、「十日の勾留期間では必要な捜査が終わらない」及び「勾留を延長すれば捜査の障害がなくなる見込みがある」の三つの条件・事情による。

 これら全てが揃っている場合のみに、初めて認められるのだ。

 したがって、この要件を満たさなければ検察官は被疑者に対して、不起訴の決定を行う。

 不起訴になれば、今までの捜査が全て水の泡にる最悪の事態になってしまうのだ。

 池井にとっても、斉藤にとっても。

 一連の事件が、榊と関係しないかもしれない可能性が高くても。

 不起訴それは、不起訴それだけは。

 どうしても避けなければならないと感じていた。



「斉藤! 快気祝いは、いつしてくれるんだ?」

「栗山係長。怪我、まだ治ってないんですよね?」

「あぁ!」

「……飲んで、大丈夫なんですか?」

「いや、だから俺。不死身だし」

 切羽詰まった捜査状況を、まるで無かったことのように無視する栗山の声が執務室に響く。

 復職して未だ空気を読めないのか。

 栗山は相変わらず豪快に笑いながら、斉藤に自らの快気祝いをねだっている。

 取調べを傍聴し、心的に疲弊した斉藤は、自分らに刺さる他の課員の視線を思いの外痛く感じていた。

(やっぱ、この人。打ち所が悪かったに違いない)

 栗山の意外な事故の後遺症に、斉藤は堪らず閉口してしまう。

「見ない内に顔色も良くなってるし。今のおまえとなら楽しい酒が飲めそうなんだけどなー」

「……」

「今週がダメなら、来週でもいいぞ? 斉藤」

「とりあえず、医者の許可貰ってきてからにしてください。栗山係長」

「えー!? 斉藤って、そんな真面目だったか?」

「真面目ですよ、俺は」

「なんか、母ちゃんみたいだな。本当」

 栗山は残念そうに口をへの字に曲げて、再び執務机に鎮座する膨大な書類へと視線を戻した。

 栗山に指摘されたとおり。

 ここ最近、斉藤の顔まで浸す水のように溢れていた不安定さは。

 干潮時の海の如く縮小してきている。

 実際、榊を逮捕してからというもの。

 少年に係る事案も極端に減り、斉藤の身の回りで不可解な出来事が起こることは皆無になった。

 未だ、不安定さは残るものの。

 不安に駆られて、深夜に飛び起きることも無くなったし。

 いつの寝たのか、直近の記憶が曖昧になることも無くなった。

 記憶の深度には、まだ綻びがある。

 しかし、斉藤自身、徐々に以前の生活と自分自身を取り戻しつつあったのだ。




「榊が、斉藤を取調官に指名している」

「はぁ!?」

 いかにも他人事、と言わんばかりの留置管理課・菊村の言葉。

 大凡おおよそ、そんな予感はしていたものの。

 他人の口からそれを聞くと、池井も流石に狼狽せずにはいられなかった。

 F県警察本部--薄暗い廊下の先にある会議室。

 池井は、榊を留置している留置管理課補佐の菊村に呼び出された。

 気乗りしない、重たい足取りで向かった会議室の、狭い室内に異様に響く互いの声に、些か非現実的な感覚を覚えていた。

 世間を騒がしている一連の未成年誘拐事件に関して、上層部が痺れを切らしているのだろう。

 遅々として進まない事件捜査と取調べに対し、早期決着を求めてきているのだ。

 少年事件であると同時に、誘拐事件の要素も含む。万が一、容疑者が他にいるのことを考えた場合。

 容疑者逮捕等の一報により、非認知の事件で失う他のリスクを考慮しなければならない。

 それを踏まえた上での、報道規制。被疑者として拘束される榊が、警察付きの記者であること。

 その事実が、今回の報道規制の綻びを早めたに違いない。

「菊村補佐」

「何だ、池井補佐」

「斉藤には無理だ……」

「どうして?」

「未だずっと不安定で……榊(アイツ)の取調官なんて、耐えうるはずない」

 トップダウンの命令には逆らえない、が。

 不安定さが未だ燻る斉藤に、取調べという深く思い負担をかけるのは無理だ。

 池井の胸中は警鐘が鳴り響く。

 気がつけば、提案された菊村の言葉に異を唱えていた。

 経験上、こういう時に一番最初に感じた悪い予感は劇的に当たる。

「取調監督官も、榊の要望をとおすつもりでいる」

「いや、無理だ。無理だよ、菊村補佐」

「そこはお前が、補助者で取調室に入るなり。フォローすればいいんじゃないか? 上司なんだろ?」

「それだから、だろ」

 、特別専従室の時のように。

 榊の目の前で混乱してしまったら? 

 未だ掴めぬ、斉藤の過去が開いてしまうことになったら? 

 ましてや監視カメラが設置された取調室で、不測の事態になってしまったら? 

 池井はかぶりを振った。

「悪いが池井補佐。もうがそれで決定を下している」

「……」

「斉藤巡査部長にその旨を伝えてくれ。よろしく頼む、池井補佐」

 伝えるべきことを伝えた、と。

 池井に踵を返した菊村は、一直線に会議室の重たい鉄扉に向かって歩く。

 そして、軋む音を立てるドアノブに手をかけた。

 キィィ--。

 会議室に残る池井に振り返ることなく、廊下へと足早に去っていく菊村の背中を。

 池井は最低な気分で、眺めていた。

 上の命令と、自らの思いが激しく乖離する。

 簡単には消化できない、菊村の理不尽な言葉が頭の中でこだました。

 池井は、ため息と同時に天を仰いだ。

「どうすりゃ、いいんだよ。全く」

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