4-2 Grim Reaper's Scythe(5)

「災難だったな、斉藤」

 目を瞑って椅子に項垂れていた斉藤の耳に、落ち着いた声が響く。

 聞き慣れた、さらには叱責される事もあるこの声に。

 斉藤の荒れた波のように昂った心がスッと穏やかなった。

 鉛が入っているんじゃないか、と疑いたくなるほど。

 重たく鈍い頭を上げた斉藤の視線の先には、暖かい外気に触れ、表面が結露した缶コーヒーがあった。

 斉藤は缶コーヒーに手を伸ばす。

 そして、ため息と同時に、力の入らない両足に力を入れ立ち上がった。

 目の前で、視線がかち合う。

「池井補佐……」

 そう呟いた斉藤の声は、思いの外掠れていて。

 斉藤は無理やり咳払いをした。

 自覚があることはもちろん、他人の目にも今の自分はかなり疲れて見えるに違いない。

 そんな斉藤を前に、池井は柔らかな表情を崩さず、斉藤の肩に軽く手をおいた。

「怪我はないか?」

「はい」

「しかし、だいぶ疲れた顔してんじゃねぇか。座ってていいぞ、斉藤」

「いえ、大丈夫です。池井補佐」

「嘘つけ」

「え?」

 池井の言葉に、斉藤の目に思わず力が入る。

「最近、色んなことがありすぎるだろ」

「……」

「俺の前では強がんなくていいんだぞ?」

「いえ、本当に。久しぶりに〝制圧〟したんで、疲れただけですよ」

「俺より若いヤツが、何ジジくさいこと言ってんだよ」

「池井補佐こそ。病院に戻らせることになってしまって……すみません」

「自分が病気や怪我をしても、流石に一日二回は病院には来ないだろうな」

 ハハハ、と。

 苦笑いしながら、池井は未だ冷たい缶コーヒーを斉藤の手に握らせた。

「男の身元、分かりましたか?」

 池井はため息を吐きながら、首を横に振る。

「全身の暴行、局部の切断。さらには強制性行の後。報復行為として考えればヤツは、性犯罪の容疑者なんだがな」

「……」

「今、鑑識がヤツのDNAと過去の性犯罪者のDNAを照会中だ」

「そうですか」

「案外、検出ヒットしないもんなんだろ……この手の犯罪は、露見にしくいからな」

「確率的には、そっちの方が、検出ヒットするより高いでしょうね」

 刑法犯認知件数は平成十四年に約二八六万件に達しているが、翌平成十五年以降は年々減少傾向にある。

 しかしながら、殺人や強盗・組織犯罪等の重要犯罪は、それに反比例するように上昇傾向にあるのだ。

 この認知件数には、暗数といって事件化されていない部分も多くあるといえよう。

 自転車盗や器物破損等の軽犯罪の認知件数は、目に見えて発生件数の上昇・下降が分かりやすい。

 ところが性的被害・虐待に係る発生状況は、認知件数より暗数が多く、潜在件数が高い傾向にある。

 特に子どもに係る当該犯罪については、被害者である子どもを取り巻く環境等が影響する。

 潜在化しやすいのだ。

 したがって、一つの露見した事件の裏には、無数の忌まわしい事件が潜んでいることになる。

 ガラス一枚隔たれた先にいる、は今。

 機械に繋がった沢山の管に囲まれて、全身を包帯で巻かれていた。

 痛々しい、とは感じるものの。

 白いベッドに横たわっている男の姿に「かわいそう」だとか「辛そう」だとか。

 斉藤自身、自然に湧き上がるであろう感情すら、特段沸き起こることもなかった。

『お願いだ……許してくれよ』

 逆に頭の中にこだまする男の声に、警察官という身分を忘れて、嫌悪感すら抱いてしまう。

 こういうのって、自業自得ってヤツなんじゃないのか?

 許す? 

 どうして、あの男だけ許さなければならない? 

 もしあの男が、本当に加害者ならば。同じように懇願した被害者達を、決して〝許してはいなかった〟はずだ。

 不安定で行き場のない感情を押し殺すように、斉藤は下唇を強く噛んだ。

「にしても、ありゃ〝私刑〟的なもんだろうなぁ」

 同じようにガラスの向こうを眺めていた池井が、微動だにしない男に向かってポツリと言った。

「私刑?」

「あぁ」

 私刑は、公権力の法に基づく刑罰権を発動することなく、個人等より執行される私的な制裁または法的手続なしに加えられる暴力的制裁と指す。

 日本では同音異義語の〝死刑〟と区別するため〝私刑〟と称されている。

 池井の突拍子もない言葉に、斉藤は思わず苦笑いをした。

「まさか、私刑とか。漫画やドラマじゃあるまいし」

「〝事実は小説よりも奇なり〟とか言うだろう」る

「まぁ、そうですけど」

「あんな状態で生きていかなきゃいけない、とかよ。もしヤツが本当に性犯罪の容疑者なら、この上ない屈辱だろうな」

 --屈辱? 

 そんな感情で片付けていいのか? 

 奴に屈辱を与えて、それで被害者が救えるのか? 

 池井の言葉に斉藤は再び、強く下唇をかんだ。

「斉藤、今日はもう帰れ」

 無駄に力が入った斉藤の表情を横目に、池井は驚くほどゆっくりと口を開いて言った。

 小さく、低いその声は、病院の廊下に這うように響く。

「え?」

「色々あったから、顔が死んでんぞ。調書は明日でいい。早く帰って休め」

「しかし! 記憶が鮮明なうちに、文字に起こしておかないと!」

「興奮して疲れ切った頭じゃ、起こしたくても文字なんか起こせないだろ」

「いや、そんなことは」

「無理すんな、斉藤」

「……」

「何も考えずに頭を休めろ。より記憶が鮮明になる。今日はもういい、早く帰れ」

「はい。わかりました」

「なんだ? 夜道が不安か? 俺が送ってやろうか?」

「い、いえ! 大丈夫です!! 池井補佐に送ってもらうなんて!!」

「冗談だよ。早く帰れ、斉藤」

「-ッ! 失礼しますッ!」

 子どもみたいに、軽くあしらわれたような気がして。

 斉藤は、若干言葉の語尾を強めに言い放った。

 そして、言葉の勢いにまかせて踵を返す。

 池井とは視線を合わさなかったが、恐らく小馬鹿にしたように笑って自分を見ているのだろう。

 まだまだ半人前、といわんばかりに。

 斉藤はまっすぐに非常口のドアを力強く開けて、外に出た。

 正義感、怒り。

 不安、恐怖。

 断片的に脳裏に現れては消えるあの男の顔。

 態度では反論してみたものの。

 斉藤の中に渦巻く感情や思考は、体中から沸き起こる冷めぬ興奮気味の熱量で、より一層掻き乱された。

 池井の言っていることは、正しい。

 斉藤自身より全てを理解し、見透かす。

 突然倒れたり、記憶が曖昧になふこと。

 それに加えて、感情すらコントロールできない自分に歯痒いほど不満を感じた。

「何やってんだ、俺は……ガキかよ」

 きちんと言葉で反論できず、態度で八つ当たりみたいに不満を池井にぶつけること。それが、斉藤にできる唯一の強がりだった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る