4-1 Grim Reaper's Scythe(4)
息を止め、手の強張りを隠す。
池井は窓ガラスに映る影を逃さぬよう狙いを定めて、右足を半歩引いた。
「よぉ、池井」
予想外に呼ばれた自身の名前と、緊張を壊すしがれた男の声。
記憶の底に残る煙草でやけたその声に、池井は止めた息を小さく吐いて振り返った。
「……なんだ、田島先輩か。驚かせないでくださいよ」
心底ホッとしたような、緊張が解かれた池井の声に。
しがれた声の主は、目深に被ったハンチングハットをとった。
人の良さげな初老の男が、池井に歯を見せて笑う。
そして、帽子で癖のついた白い髪を、男は大きな手のひらで撫で付けた。
「現役の池井が、こんなジジイの尾行を警戒するなんてな。オレの尾行も、まだまだいけるなぁ」
「やめてくださいよ、本気でビビりましたって」
卒配(※警察学校初任から卒業後、初めて配置される所属)直後、一番身近にいた。
そして、一番実戦警察官のなんたるかを教え込まれた、警察人生の恩師といっても過言ではない、まさにその人が。
池井の目の前に立っていた。
何年も前に退官して、警察官という身分ではなくなっても、田島に頭は上がらない。
幾分、小さくなった田島の肩を目にした池井は、思わず眉尻を下げた。
「こんな所で……。田島先輩は、交通事故の関係ですか?」
「まぁな」
「交通事故鑑定人も、遅くまで大変ですね」
「この歳になってまで〝交通捜査の宮脇さん〟に、しごかれるとは思わなかったよ」
田島は、困ったように眉根を上げる。
面倒なことがあると、すぐそうなる。
田島の眉は、本人の言葉や行動より正直だ、と。
その懐かしい表情に、池井は思わず吹き出しそうになった。
「宮脇先輩も、職人気質の強い方っすからね」
「まぁな。その辺は、現役の頃と変わらんよ」
愚痴混じりに言う田島は、池井の肩をポンと添える。
そのまま池井を連れ出すように、非常出入口の持ち手に手をかけた。
外気がひんやり、と。
厭に冷たく感じる。
池井は初めて、シャツが汗ばんでいたことに気づいた。
「いつもはな。仕事中の後輩の邪魔になっちゃいけねぇと思ってよ。見かけても、声なんて掛けねぇんだがな」
「そんな……。気を使わないでくださいよ、先輩」
田島は池井の肩を強く握ると、緊張感のないゆっくりとした口調で続ける。
「あの時と同じ顔をしているお前が、ほっとけなかったんだよ」
「え?」
「どんな手を使ってでも、犯人をヤってやるって顔してたぞ。池井」
「……そ、んなことは!」
咄嗟に池井は、反論した。
その反論を飲み込まざるを得ないほど、小さくなった田島の肩から強い圧が発せられ、池井は驚き目を見張る。
狼狽する池井に視線など向けずに。
田島は池井の肩をより力を加えて掴んだ。
「落ち着け、池井。お前がしっかりしなきゃならん」
「先輩……俺は、別に」
「指揮官のたった一つの誤った指示が、命取りになる」
「ッ!」
「何を抱えてるか、守秘義務があるから聞かねぇけどよ。気をしっかりもて」
何も言っていないのに。池井の心の奥底で乱れる感情を、あっさりと読み取った田島に。
池井は、言葉を発することさえできずにいた。
(この人の前じゃ……俺は、まだまだ〝ひよっこ〟なんだな)
真実を追求するあまり、自らの言動で斉藤を不安定にさせてしまったこと。
部下である栗山すら、守ることができなかったこと。
何事もうまくいかないことに対する、自分への憤り。
出世し、うまく立ち回ることができるようになった。
成長したはずの自分は、まだまだ退官した田島の領域にすら届かない。
のしかかる不甲斐なさ、その全て。
たった一言。
あっさりと、田島に指摘された。
見抜かれて怒りを感じるどころか、池井はむしろスッキリとしていた。
あの頃とは……違う!
まだ若く、立ちはだかる不条理にどうすることもできなかった。
あの頃の池井には、決して抱くことがなかった感情が湧き上がる。
--大丈夫。まだやれる。諦めるな! 最初からやり直せば良い!
「先輩……田島先輩」
「なんだ、池井」
「やっぱ、先輩には敵わないな」
「池井は、俺の大事な後輩だからな」
「ありがとうございます。おかげて吹っ切れました」
「これからのF県警を担う後輩の役に立てたんなら、老いぼれの本望ってもんだ」
「先輩! 今のヤマが終わった、メシでも行きませんか?」
「おう。老いぼれの愚痴を聞いてくれるんだったら、いつでもいいぞ」
「あはは! 田島先輩には、やっぱ敵わないなぁ」
一歩、また一歩。
アスファルトに踏み出した足元が、明るく感じる。
池井は空を見上げた。
暗い影が一つもない、澄み切った夜空に三日月が浮かび上がる。
不安はまだ、自身の中に残っていた。
それでも、それを否定はしない。
--それでも、まだ。大丈夫だ。
優しく柔らかく照らす、月明かりが。池井の背中をそっと、押してくれているように感じていた。
池井が〝柔らかな灯り〟と感じた月。
同じ月を見上げた斉藤は、その月を怪訝な顔で見上げていた。
月には、鋭い眼光を宿す
死神が持つ大きな鎌は、水を滴らせたように。
滑らかに。
怪しく月明かりを乱反射する。
〝怖い--〟という感情が先走るほど。
輪郭のはっきりとしたその夜の三日月は、とても鮮明で鋭利で。さながら、死神の大鎌のようだった。
乱反射した小さな光は。
(今日は、バイクで帰ったらヤバそうだな……)
これほどに疲労し、これほどに不安定な自分自身。
重い思考と足取りが、斉藤の動きを余計に制限する。
そして、国道沿いのバス停へと向かう。
「……る……たよ」
瞬間、歩道の植え込みから、何か聞こえたような気がした。
斉藤は、ゆっくりと声がした方へ視線を移動させる。
「なぁ……悪かったよ」
「ッ!?」
弱く震えた、男の声。
それでも、思いの外はっきりと聞こえた突然の声に、斉藤は驚いて声すら上げることができなかった。
ガサッと植え込みが大きく揺れて。男の声が、暗闇の中からより鮮明に聞こえてくる。
「もう、何もしねぇから……許してくれよ」
頭がキン、と冷えてくる。
不安定な自分自身を奮い立たせるように。斉藤は、反射的に右足を半歩引いた。
「誰だ……そこにいるのは、誰だ!!」
「なぁ、許してくれよ……なぁ」
ガサガサ--。
斉藤の声に反応するように。
植え込みの枝葉が、さらに大きく揺れる。
瞬間、斉藤の目の前に大きな影が立ち塞がった。
「なっ!?」
視界限界までに映る男の様子に、斉藤は思わず絶句した。
「なぁ、あんた……お巡りなんだろ? 悪かったよ……許してくれよ……」
自動車のヘッドライトが、左右に行き交うのみの暗がりの中。
年齢こそは明確に特定できないものの、中年の男が震えながら、斉藤に近づいてくる。
両手を粘着テープらしきもので拘束された、ほぼ全裸に近い男。
頭から爪先まで。男は、全身血まみれだった。
ヘッドライトが乱反射するたびに照らし出される男の様相と、不気味に光る手元に。
斉藤の思考は、信じられないくらいに凍りついていた。
下腹部から下の出血が
斉藤は自身の呼吸が、荒くなるのを感じた。
「許す……って、なんだよ。お前」
「お願いだ……許してくれよ」
斉藤の問いかけには、一切応じずに。
同じ言葉を繰り返し呟きながら、男は斉藤へフラフラと近づいてくる。
重たい足が、斉藤を地面に縛るかのように。
動くことすらできない斉藤に、男は徐々に距離を詰める。
その時、不気味に光る男の手元に、何が握られているのか。
斉藤は、ようやく理解することができた。
刃物--!!
鋭く尖った刃先が、真っ直ぐに斉藤へと向けられている。全身の血液が一気に足元に落ちるが如く、斉藤の全身を強張らせた。
血まみれの手を真っ直ぐに伸ばせば、斉藤の胸を捉えることができる距離。
瞬間、斉藤は下唇を強く噛み締めた。
「ゔぁぁぁぁ!!」
半歩引いた右足が、咄嗟に動いて男の腹部を蹴り上げる。
静寂すぎる夜を引き裂くように、男が耳を塞ぎたくなるような声で絶叫した。
全身を痙攣させフラフラする男の背中に、反射的に膝を押し付け制圧する。
「やめろぉぉぉ!! ゔぁぁぁぁ!!」
絶叫し暴れる男を歩道に押し付け、斉藤はポケットの中からスマートフォンを取り出した。
必死な状態であるのに、頭は妙に冴え渡る。
「至急!! 至急!! こちら人身安全・少年課の斉藤!! 警察本部前で男を確保!! 至急、応援を要請する!! 至急、応援を要請する!!」
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