3-2 Grim Reaper's Scythe(2)

 F市総合病院に着いた池井は、足速に受付を駆け抜けた。

 病院内の雑音も気にならないほどに、脈打つ池井の鼓動。

 己の不安を押し込むように、池井は、ぎゅっと拳を握る。

 池井の視線の先、一点には。

 長椅子に腰掛けて、不安げに表情を曇らせる緒方勇刀の姿があった。


「緒方係長!!」

「……池井補佐」


 白い閉塞的な廊下に、池井のよく通る声が響き渡る。

 緒方はその声に反応して、弾かれたように立ち上がった。

 緒方の着用する白いシャツ、そして捲り上げた剥き出しの腕に。

 付着した苦々しいほどに、赤く浮き上がる大きな染みが目立つ。

 池井は思わず顔をしかめた。


「栗山は!?」

「今、緊急手術中です」

「そうか……」

「俺、止められませんでした」

「え?」


 肩を落として緒方が言った意外な言葉。

 池井は思わず緒方に聞き返した。


「止められなかった、って。どういうことだ、緒方係長!」


 喰われそうなほど、強く激しい池井の視線。

 緒方はそれに己の視線を重ねることなく、俯いて拳を、強く握りしめた。

 重たく、空気さえも沈み込む雰囲気が漂う。

 強く口をつぐむ緒方の肩を、池井は強く掴んだ。


「緒方係長!!」

「……栗山係長。事件のに気づいたみたいなんです」

「何か!? 何か、ってなんだ!!」

「証拠品を見て、いきなり庁舎外に走り出したんで。俺、栗山係長を追いかけることしかできなくて」

「証拠品?」

「はい」


 池井の脳裏に、あの薄気味悪いシールの図柄が鮮明に浮かぶ。


「栗山は……証拠品を見て、走り出したのか?」

「はい。俺が栗山係長を追いかけて、正面玄関を出た直後くらいでした。小型車が勢いよく走ってきて、歩道から身を乗り出した栗山係長にぶつかったんです」

「なんだって!?」


--何に、何に気づいたんだ? 栗山は。


 池井の腹の中に、漠然とした不安が肥大していく。

 事件の手がかりに気づいた栗山が、こんなにもタイミングよく事故に遭ったりするのだろうか?


--厭な、感じがする。


 忘れられないあの日に感じた、得体の知れない気持ち悪さが再び池井を内側から圧迫して。

 池井は堪らず、眉間に皺をよせた。


「やっぱり、池井補佐もそう思いますよね」

「え?」

「そんな顔してるってことは、何からしら違和感があるってことっすよね?」


 伏せていた顔を上げた緒方は。

 強い意志を帯びた、真っ直ぐな視線で池井を見上げる。


「タイミングが良すぎるんです」


 静かな、それでいて強く響く緒方の声。

 その声は、池井が一番触れてほしくなかった一線に触れてしまった。

 それは警察組織の一員として。

 さらには、幹部として組織を守る事を職責に課せられた警察官として。

 一番触れては、ならないこと。

 喉の奥が、キュッと締まる感覚。

 池井は振り絞るように声を出す。


「……緒方係長、それ以上言うな」

「警察内部に内通者がいる」

「緒方ッ!!」


 緒方の静かな声に、池井はつい声を荒げて反応した。


「あんなにタイミング良く襲われたりしますか!? たとえ偶然だったにしても、偶然じゃ片付けられない!」

「もう、いいッ! 緒方、もう何も言うな!!」

「池井補佐ッ!! 何を危惧してるんですか!? 何から逃げているんですか!?」

「……」

「そんなんじゃ、何も前に進まないじゃないですか!」


 射抜かれるような。

 池井を見つめる真っ直ぐな緒方の眼差しが、一瞬、光を含んでグラッと揺れる。


「俺だって、そんなこと。一ミリも考えたくないんですよ、池井補佐」


 目から今にも溢れそうな涙を揺らし。

 緒方は、力強く言葉を繋げた。


「でも、そんなんじゃ。何にも変わらないんです」

「そんなことくらい、言われなくてもわかってるよ」

「目を背けないでください。考えうることの全てを考えてください。でなきゃ、何にも変わらない。誰も救われない」


 強がりな事を言ったものの。

 緒方の得体の知れない気迫と圧のある言葉に、池井は組織の職責を担う幹部として。

 それ以上、緒方に反論することができなかった。

 根底にある、後悔だらけしかないあの時の思いを、緒方の真っ直ぐな思いが刺激する。

 警察官としての使命感をたぎらせる、説得力のある緒方の言葉。

 池井自身、らしくもなく納得してしまったのだ。


 あの時に、こんなふうに自分の考えや思いを言えていたなら。

 その思いを真っ直ぐに受け止めてくれる人がいたなら。


 市役所で過去を断ち切ろうと邁進する永井も、幼い永井すら救えなかったと後悔する池井も。

 そして、未だにわからない、消えた被害者自身も。

 きっと、もっと早くに救われていたに違いない。


 至極当たり前のことを、至極簡単に言われるとは。

 池井肩から一気に力が抜けるのを感じた。


「俺も力になります、池井補佐」

「緒方……」

「もっと視点を変えなきゃ、見えるものも見えなくなります」

「そうだな、そうだよな」


 自分を納得させるように、池井は静かに返事をすると。

 廊下に設置された長椅子に腰を下ろす。

 硬い座面の感覚など、全く気にならない様子で。

 池井は腕を組み、それっきり喋らなくなった。


* * *


「それは良かった……! 一安心ですね、補佐」


 電話口の池井の声が、若干固い気がするものの。

 事故に遭った栗山の容態が良好との知らせに、斉藤は安堵のため息を漏らした。


『命に別状はないとはいえ、一カ月ほど入院が必要だそうだ。事が事だからな。病院警護も加わるから、人員もよりキツキツになるかもしれん』

「了解です」

「体調が戻らない中、斉藤には悪いんだが。ちょっと頑張ってもらわなきゃならんな』

「それはもう。補佐、そんなことは気にしないでください」

『すまんな。斉藤、監視カメラのデータは?』

「データは回収して、複製したHDDを、サイバー犯罪対策課へ引渡してきました。同じ複製データを今から持ち帰って精査するところです」

『そうか。あとは結果待ちだな』

「はい」

『できることは、とことんやるぞ。斉藤』

「了解です! 池井補佐」


 スマートフォンに軽く触れて、斉藤は再び深くため息を吐く。

 池井から電話がくるほんの数分前。

 斉藤は重たい体を引き摺るように、F県警察本部の玄関をくぐった。市

 役所の会議室で倒れそうになったことは、誰にも言わずに。

 極力、普通である事を意識しながら振る舞う。

 それだけで、信じられないくらい全身に疲労感が行き渡った。

 自分自身がコントロールできない。

 まるで子どもみたいに、弱く小さな存在に思えてならなかった。

 先ほどの池井との会話でもそうだ。

 自分が本調子でないことが、池井の足を引っ張っているのではないか? 

 栗山の事故も、ひょっとしたら自分が関係しているのではないか? 

 そして、立っていられなくなるほどの違和感を自分自身に抱えたまま、職務を遂行すいこうできるのか?


 様々な疑問が、不安となって斎藤の中を駆け巡る。

 体の中でぶつかり合う、それらを振り払うように。

 斉藤は大きく頭を振った。


(弱気になるな! 大丈夫! 俺は何があっても大丈夫だ!)


 斉藤は短く息を吐くと、パチンと両手で頰を挟み込むようにして叩いた。

 こういう時に頼れるのが、己を鼓舞することだけだなんて。

 斉藤は堪らず苦笑した。


「斉藤さん!」


 執務室へと続く階段のドアノブに、斉藤が手をかけた瞬間。

 記憶の浅い部分に引っかかる声に、背中を掴まれるように呼び止められた。


「あ、榊さん」


 振り返ると、記者室に入ろうとしていた榊と視線がかち合う。

 恐らく、榊も外出先から帰ってきたのだろう。

 カメラが入っていると思料される大きな鞄が、榊の肩から下げられているのが見えた。

 斉藤は、思わず目を細める。

 榊の鞄に取り付けられた小さな丸いキーホルダー。

 それが庁舎の蛍光灯の光を乱反射して、斉藤の目に鋭い光を突き刺した。


「斉藤さんも、今帰りですか?」

「はい。榊さんも?」

「えぇ。以外にもやる事はあるんで」

「大変ですね、榊さんも」

「しがない地方新聞の記者なんで、掛け持ちなんてザラですよ。人使い荒いんだから、全く」


 そう言って榊は気だるそうに、無精髭の生えた顎をなぞる。


「榊さんも、あまり無理なさらずに」

「斉藤さんこそ」

「え?」

「なんだか顔色悪いですよ?」

「そう……ですか?」

「実は悩み事とかあったりして」

「いや、そんなんじゃ……」


 ひた隠しにしている斉藤の内面を、見透かしているような榊の言葉に。

 斉藤は、少しドキリとした。


「斉藤さん、モテそうですもんね! 彼女のご機嫌とりとかでしたら、いい店知ってますよ?」

「ま、まさか! 俺、全然モテないですって!」

「またまたぁ! いつでも言ってください! たまに取材で食リポもしてるんで!」

「仕事の幅が広すぎますよ、榊さん」


 斉藤の返しに榊は、大きな声で笑う。


「あはは! 便利屋でも始めようかな?」


 と手を振りながら、記者室の奥へと消えていった。

 榊を見送った斉藤は、再び小さく息を吐いた。

 そして、階段へと繋がるドアノブに手を伸ばす。


(あれ? なんだ、この感じ……)


 普通の、ごくごく普通の。

 楽しく他愛もない会話だったはずなのに。

 斉藤の胸には、小さなしこりのような違和感が沈んでいた。

 斉藤は大きく頭を振って、ドアを勢いよく開ける。


(切り替えろ! ちゃんと事件のことだけ考えろ!)


 あまり、距離を縮めてはいけない。

 聞屋とは、距離を保たなければ……。

 余計なことを考えぬよう、勢いに任せて階段を登る。

 斉藤はHDDの入った鞄を、爪の跡が残るほど強く握りしめた。

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