2-3 見えない過去(3)

 そこは、異様に静かだった。

 サイレンも響かず、赤色の煌めきもない。


 報道協定ほうどうきょうてい(※警察が新聞・テレビ等に対して、報道を一切控えるように求め結ばれる協定のこと。誘拐事件やハイジャック、人質事件が発生した場合において用いられる)により、世間に可視化されることない捜査だ。

 H署を経由し車を走らせた斉藤は、覆面パトカーのエンジンを切るとゆっくり息を漏らした。


「随分、規制が引かれてるんですね」

児童掠取じどうりゃくしゅだけが、目的じゃないらしいからな」

「……あれは、どういう意図なんですかね?」

「さぁな」


 池井は助手席のドアを開けて、体を外へと滑らせる。

 そしてどんよりと分厚い雲が、広がる空を見上げた。


「雨が降らなきゃいいが」

「そうですね。もってくれたらいいんですが」


 H署について、事件の詳細を確認した斉藤は、思わず声を失った。

 事件発生を知らせる三十分前。

 被害児童宅の郵便受けに投げ込まれた、犯人のものと思われるメッセージ。

 そこには、意外な言葉が羅列していた。


『あの子達に会いたい。連れてきてくれたら、子どもは解放するよ』


(なんか、モヤモヤする)


 胸に閊える厭な感覚が、斉藤の呼吸を浅くさせる。


「どうした? 斉藤」

「いえ、なんでも……なんでもありません」


 こういう何気ない一言でも、おそらく。

 池井は自分の深い所を探っている、と。

 斉藤の結んだ手のひらに、冷たい汗が滲む。

 無意識に身構えた斉藤は、小さくため息をついた。

 の一挙手一投足にまで、いちいち緊張しなければならないとは。


「あ、斉藤さん?」


 気が抜けず、全方向に神経を尖らせていた斉藤は、いきなり響く聞き覚えのある声に過度に反応した。


「あ……榊さんか」

「榊さんか、って」


 振り返ると規制線の向こう側、十メートルほど先に。

 ポロシャツにジーンズといった軽装をしたF日報新聞の榊が立っている。

 以前の服装より、なんだかこざっぱりしている気がした。


 報道協定の影響だろう。

 どこから見ても、近所の住民にしか見えない榊の装いに、斉藤は再び小さくため息をついた。

 榊は穏やかな表情で規制線ギリギリまで歩み寄り、斉藤に近づいてきた。


 「誰だ、あいつは?」と言わんばかりの、池井の鋭く冷たい視線に背中がヒリつくのを感じながら。

 斉藤は、榊に軽く頭を下げた。


「大変ですね、斉藤さん」

「いえ、早く見つけなければならないので」

「報道協定はしかれてますが、私達も微力ながら協力します」

「ありがたいです」

「何か良い情報があったら、すぐお知らせします」


 榊はそう言うと、再び住宅街に溶け込むように遠ざかっていく。

 斉藤は思わず、榊の影に一礼していた。


綾人あやとは! 綾人は、無事なんでしょうか!?」


 玄関まで響く、被害少年の母親の声。

 「そんなことを言っても……」と、頭ではわかっているはずだ。

 しかし、言わざるを得ない母親の気持ちを考えると、斉藤は、その声にも言葉にも。

 そうやすやすと答えることができなかった。


 ほんの一時間前。

 その僅かな時間で、被害少年・浦井綾人とその家族の日常が異常なものとなる。

 浦井家のリビングには、既に所轄の警察官も臨場しており、ただならぬ圧が空気を押し潰した。

 部屋の真ん中にあるソファーには、落ち着かない様子の母親と不安げな表情を浮かべた小学生くらいの女子がいる。

 物々しい雰囲気をなるべく軽減させようと。

 母親と女子の傍らに膝をつく女性警察官が、二人の手をぎゅっと握りしめていた。


「藤本、犯人から連絡は?」


 静かな喧騒に割って入るように。池井は、リビングにいる捜査員に声をかける。


「池井補佐、おつかれさまです。今のところは何も連絡はありません」

対象者マルタイは、携帯電話の所持を?」

「子ども用携帯は所持しているようです。母親が二、三回GPS検索を試みたそうですが、電源が切られてしまって位置情報がわからなくなってしまったそうです」

「あぁ、そうか。機種によっては、検索で着信音が鳴るからな」

「今、情報解析課とサイバー犯罪対策課に最終電波発信検索を依頼しています」

「分かった」


 池井は短く返事をすると、くるりと体の向きを変える。

 そして、無言のまま被害少年宅を後にした。

 状況整理に頭をフル回転していた斉藤は、池井の行動に一歩遅れ、慌てて後を追いかける。


「池井補佐」

「斉藤、現場に行くぞ」

「現場……ですか?」

「あぁ」

「でも、鑑識が」

「もう、引き上げてんだろ。だから行くんだよ」

「はい」


 〝現場百回--〟

 そう、昔の警察官は、靴底をすり減らし、自らの足で事件を解決に導いていた。


 しかし、今は時代がだいぶ違う。

 監視カメラ、SNS、ダークウェブにいたるまで。

 デスク上のキーボードを押下するだけで、多角的四次元は沢山の状況や情報をもたらす。

 言ってしまえば、一次元の現場に何回も足を運んで、一体何が分かるのか。

 そして、一体何が見えるのか。

 無駄にしか見えないと思いつつ、斉藤は足早に歩く池井の後を黙って従った。


「さっきの新聞記者聞屋、知り合いか? 斉藤」

「え? あぁ、あれは」


 徐に口を開く池井に、斉藤は意表を突かれて間の抜けた声を出してしまった。


「あれは?」

「それが、ちょっと言いにくいんですけど」


 斉藤は居心地悪そうに、下唇を噛む。


(別に、自分が悪いわけじゃないし)


「病院で栗山係長と、ちょっと揉めてしまって」

「あぁ、あの時のか?」

「はい」

「揉めたのは、栗山と花井先生とだろ? なんでお前らまで揉めてんだよ」

「まぁ、色々ありまして」

「色々ってよー」

「それをちょうど、さっきの聞屋に見られてたんです」

「お前らなぁ」

「……すみません」

「聞屋との距離感、忘れんじゃねぇぞ。斉藤」

「はい」


 小言を言われながら、歩く道のりは意外と早く。

 気乗りのしない心境のまま、〝現場〟が視界に急に現れた。


 なんの、特徴もない。

 普通すぎる公園。


 塗装が色褪せたブランコに滑り台が、斉藤の目の裏をチクチクと刺激する。


(公園なんて、いつぶりだろうか……?)


 目を細めて公園を見渡す斉藤に、池井の声が静かに響いた。


「本日午後二時三十分頃。H市K町南公園〝通称・三角公園〟同時刻、公園には三人の児童が遊具等で遊んでいるのを、近所に住む民生員が確認。その中に、行方不明になっている小学三年生児童・浦井綾人がいた」


 事件の一報を、一字一句違えることなく誦じるほど記憶しているのか。

 池井もまた斉藤同様に、公園を見渡したまま言った。


「閑静な住宅街だ。もうすぐ帰宅時間だというのに、人通りも車も疎らだ。この公園は、所謂〝記憶にも掠らない死角〟なんだろうな。犯人にとっては、条件が揃ってる場所なんだろ」

「池井補佐、どういう意味ですか?」


 池井が何を言いたいのか分からぬまま。

 斉藤は眉間に力を入れて、池井に質問を投げる。


「対象者が行方不明になったのは、他の二人の友達がトイレにいった僅かの間。友達は、対象者が家に帰ったと思ったんだ、と」

「そりゃ、いなくなれば。子どもならそう思いますよ」

「じゃあ、どうやって。児童掠取の一報が入ったんだ?」

「え? それは……郵便受けに入っていたあの手紙が」

「あれだけじゃ、単なるイタズラにしか思わんだろ、普通」

「で、でも! 最近、類似事件が多発してるし! 親御さんだって警戒を」

「〝自分は関係ない〟」

「……」

「振り込め詐欺だって、フィッシング詐欺だってよ。〝自分は関係ない〟と思っているだぞ? 自分の生活の足元が、薄氷だらけだなんてさ。そんなこと誰も思わねぇよ」


 池井の言葉に、斉藤は黙るしかなかった。


「あの手紙を信じ込ませる、何かきっかけがあったはずなんだよ」

「きっかけ?」

「浦井綾人の母親は、手紙を見て。浦井綾人の忘れ物を届けた友達を見て。そして、通報した」

「……」

「こんな公園みたいに。〝記憶にも掠らない死角〟を見てしまったんだ」

「まさか……!」


 池井の方を振り返った斉藤は、声を振り絞って呟く。

 カラカラに渇いた喉と急激に冷えた思考回路が、額から冷たい汗を滲ませた。


「犯人がいたんだよ。おそらく」


 池井の言葉が、ズシンと斉藤の胸に響く。


「対象者を誘拐して、手紙を投函して。忘れ物をとどける友達のあとつけて。母親にインパクトを与える」


 緊張と恐怖が、次第に斉藤の呼吸を浅くさせた。


 犯人がいたなら……ば。

 もし、友達が振り返っていたならば。

 もし、母親は犯人と目を合わせていたならば。


 無限に拡大する犯罪へと繋がる糸が、波紋をなすように広がっていく。


「斉藤なら、どうする?」

「どうする……って」

「どうやって、犯人を追い詰める?」


 斉藤から答えを導き出すように。

 池井の声は、先程より柔らかく穏やかだった。

 斉藤は、大きく息を吸って真っ直ぐに池井を見つめ返した。


「付近を走行していた、車のドライブレコーダーを……いや、違う」


 斉藤は、慌しく周りを見渡す。

 冴えた思考をフル回転させて、幾分興奮気味に叫んだ。


「H市は、確か。市の防犯計画がしっかりしていて。市内全ての公園付近に〝見守りカメラ〟が設置されているはずです!」

「正解」


 池井は力の入った斉藤の肩に、軽く手をのせる。

 その手が、スーツの上からでも妙に暖かく感じて。

 斉藤は、ハッと息を強く吐いた。


「よし、斉藤。市役所に行くぞ」

「はい! 車、回します!」

「いや、俺も車まで行く」


 ここ最近、元気がなかった斉藤に、明るい笑顔が戻る。

 警察官としての自信も失いかけていた。

 自分自身に宿る、見えない不安定さも全て。

 その笑顔が溶かしているように、池井の目に映る。


「なぁ、斉藤」


 公園から足早に離れていく斉藤に、池井はゆっくりと声をかける。


「なんですか?」

「何でH市に見守りカメラがついたか、知ってるか?」

「え?」

「永井君だよ」

「永井……君? あ!」


 斉藤は、〝特別専従捜査室〟で見たコールドケースになりきらない事案を刹那に思い出した。


『六月七日午後六時頃。K警察署Y交番においてY小学校三年の児童・永井浩史による来所通報。児童は、『お手伝いをしてくれたら〝遊撃者〟レアカードをあげる』という男性に、空き家に連れて行かれ、そこに怪我をした児童が二名倒れていると主張。交番に待機中だったK署Y交番勤務警部補・田島晃平、同勤務巡査・池井貴文が児童の言うY小学校から徒歩十分の空き家に臨場した』


 あの調書に出てきた永井という、当時小学三年生の児童だ。


「彼がね、H市役所に勤めてるんだそうだ」

「そうなんですか!?」

「〝何もできなかったままで、決して終わらせたくない〟って。若いのに県の財政課に掛け合って、行政の力で見守りカメラを設置させたんだ」


 池井は斉藤の肩に再び手を乗せた。

 普段はあまり見せない意外な距離の近さに、斉藤は少し驚いて。

 反射的に池井を見た。


 穏やかに、視線を遠くに投げて。

 池井は静かに口を開いた。


「俺も、永井君も。過去と戦ってる。お前だけじゃないんだよ、斉藤。皆、一緒なんだ。見えない過去と戦ってるんだ」

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