2-2 見えない過去(2)

「まさか、あんな反応をするなんて……」


 掠れた声が厭に響く。

 大きく息を吸う音でさえ、耳障りに思えてならない。

 一呼吸おいて発せられた言葉、その意味でさえも不安定にこだました。


「自分でも、よく分からないんです」


 辺りを見る視線が、忙しなく動く。

 肩をすくませる斉藤は、居心地悪そうに言った。


(これなら、まだ。調べ室の方がマシかも)


 黄色いパステルカラーに、花柄があしらわれた明るい壁紙。

 それに合わせた、淡いピンクの丸っこい椅子と、文字だらけの書類が置かれた角が丸い白い机は。

 日頃、無機質で殺風景な取調室で被疑者と駆け引きをする斉藤からすれば、違和感この上なかった。

 恐らく、犯罪被害者やその家族に対して、緊張を解すための色調や調度品のはずなのだ。

 しかし、斉藤はその環境に妙に馴染めず、落ち着けなかった。

 この空間にいると、警察官特有の感覚が押しつぶされてしまいそうになる。


 ソワソワと落ち着かない斉藤に、臨床心理士の花井は柔らかな視線を向けた。


「過去に心的外傷PTSDを受けて、記憶に蓋をしてしまった方はよくいらっしゃるんですよ」


 先日の形相とは打って変わって、にこやかな笑顔で臨床心理士の花井は言った。


(腹ん中の事が見えない。この手の笑顔って、すげぇ苦手だ)


 不安を助長させる花井の笑顔。

 斉藤は花井を直視できずに目を逸らした。


「心的外傷って……。俺、全く心当たりがないんです」

「小学校の頃、好きなスポーツって何でした?」


 斉藤の訴えを華麗にスルーし、花井は相変わらずの表情で言葉を転がす。

 若干の圧を感じながらも。

 斉藤は頭を掻いて、少しづつ言葉を選び慎重に答える。


「……好きかどうかは、分からないですけど。ずっと剣道をしてました」

「サッカーとかは? どうですか? 好きですか?」

「サッカーは、よく友達としてました」

「昼休みとかに? それとも放課後に?」

「あー、どうだっけ? 剣道に行きたくなくて、たまにサボってサッカーとか、ゲームをしていたから。放課後にしていたと思います」

「ご両親にバレちゃったりしませんでしたか?」

「その頃はもう、両親がいなくて……」

「いらっしゃらない?」


 一瞬の、花井の視線の変化。刹那に花井の意図が見えた気がした。

 斉藤は大袈裟にかぶりを振る。


「いや! そうじゃなくて!!」

「え?」

「二人とも存命なんですよ!」

「存命? どういうことですか?」


 花井が斉藤から目を離さずに聞き返す。

 居心地の悪さに、余計拍車がかかりながらも。

 斉藤は、花井の視線をかち合うように。真っ直ぐ視線を返した。


「俺が小学校の時、父親の海外赴任が決まっちまって」

「あぁ、そういうこと」

「弟は俺と九つ年が離れていて、まだ小さかったから。両親と一緒に、海外にいったんですけど。俺は中学受験とか控えていて、転校もしたくなかったし。祖父母と一緒にこっちに暮らしていました」

「そうなんですね〜。なるほど」


 若干、会話のスピードが弱まり。

 花井の視線が、また柔らかな光を帯びる。

 斉藤は思わず、長く息を吐いた。


「じゃあ、ご両親とは電話でやりとりを?」

「あまり電話はなかったです」

「どうして?」

「国際電話も安くないですから。それにかかってきた時は、マシンガンみたいに喋るからあまり好きではなかったように記憶しています」

「そうかぁ。国際電話、高いものねぇ」

「もっぱらメールとか……。ほぼほぼ事務連絡みたいなメールでした」


 ふぅん、と。

 ため息混じりに言う花井の声。

 その声に斉藤は半ばうんざりして、パステルカラーのカーテンを見上げた。


(やっぱり。質問の目的がふわふわしてる。これなら、まだ。取り調べの方が楽だな)


 斉藤の心の声と、全く同じことを。

 カーテンの向こう側で、聞き耳を立てていた池井も思っていた。

 取り調べなら、単刀直入に罪状を突きつけてしまえるのに。


 一つ一つ。

 ゆっくりと、心の蓋に刺さった矢を取り除く。


 矢という原因を探って、斉藤の心の底に埋まった記憶を探り出さなくては。

 池井は小さく息を吸った。


 焦ってはいけない。


 またのようになっては、斉藤の閉ざされた記憶は二度と手に入らない。

 池井の直感が、そう警鐘を鳴らしていた。


 カーテンの向こう側では、相変わらず発展性のないのらりくらりとした会話が続いている。

 池井は額に手を当てて、天を仰いだ。


「おい、池井」


 瞬間、池井を呼ぶ声にハッとした。

 空気を震わす、微かな声。

 池井は慌てて振り返った。


 執務室のドアの隙間から、苦笑いした中年の男が池井に手招きしている。

 場違い極まりない男は、怒られるか。

 摘み出されるか。

 鬼気迫るなんとも言えないその表情をしていた。池井は噴き出すの堪えてドアに近づく。


「遠野先輩」

「よぅ、久しぶりだな。池井」


 遠野と呼ばれた男は、ニヤける池井を廊下に引っ張り出して言った。


「どうしたんですか? 先輩。こんなところで」

「あぁ、抱えてる案件の定時報告だよ」


 遠野は頭を掻きながら「未だになれないんだよなぁ、被害者支援室ってのはさぁ」と。

 わざとしているのか? と疑いたくなるほど、似つかわしくないか弱い声で続ける。

 池井はピンときた。


「〝ブラッド・ダイアモンド〟ですか?」

「まぁな」

「大変っすね。担当でもないのに」


 苦笑いから真顔になって、遠野は池井を真っ直ぐに見据える。

「ま、わかんねぇからな。俺みたいな、何の柵(しがらみ)がない奴が適任なんだよ」


 事件は解決した--表向きは。


 しかし、それはあくまでも表向きであって、その深部は全く解決していない。


〝この人は、俺と同じモノを抱えている〟


 以前から、池井は遠野と近しいものを感じていた。

 遠野の発した一言で、それが確信にかわる。

 未だ見えぬ犯人に対して、互いにどうにもならない、どうにもできない思いを押し殺しているのだ。

 激しい感情など何も抱かず、なんでもない顔をして日常に溶け込む。


 遠野も、池井自身も。

 自らが手にしている制裁の刃を鈍く光らせ--。

 まるで〝死神リーパー〟のように、犯人の首を狙っているのだ。


「池井は、アレか?」


 遠野が、パステルカラーのカーテンに視線を送って言った。


「はい。なかなか真芯を掴めなくて」

「相手は機械じゃねぇ、血の通った人間だ。答えはすぐにはでねぇが、焦んじゃねぇぞ」

「はい」


 全て、見透かされている。バツが悪そうに、池井は視線を下げた。

 卒配(※ 卒業配置。初任科を卒業した警察官は、人事異動により各警察署に配置されることをいう)したての頃の池井の姿がダブる。

 遠野は目尻を下げると、手にしていた缶コーヒーを差し出した。


「無理するなよ、池井。お前は一人じゃないからな」

「ありがとうございます。遠野先輩」


 少し緩く感じる缶コーヒーと、遠野の言葉が厭に胸に刺さる。心が折れた、とは微塵も思っていなかった。

 

 ただ、やり方が悪かっただけ。

 斉藤を追い詰めてしまっただけ。


 でもそれ以上に。

 遠野の言葉に気持ちが揺さぶられてしまうほど、池井が気づかないダメージがあったのだ。

 池井はたまらず苦笑した。


「敵わないなぁ、遠野先輩には」

「俺はもう、若いモンには敵わねぇよ」

「またまたぁ」


 池井の声に笑いながら。

 遠野は手にしたクリアファイルを高々と上げ、笑いながら被害者支援室の奥へとつま先を向ける。 


 池井は、缶コーヒーを握りしめた。

 そして、黄色い花柄のパステルカラーのカーテンを凝視する。

 カーテンの向こう側の斉藤の様子を探るように。

 澱みなく、真っ直ぐに。


(焦ったら、ダメだ。焦ったら、また見えなくなっちまう……全部)






「お前、あの先生にんだって?」


 昨日の〝置き去り事件〟

 など、まるでなかったかのように。疲弊して表情が乏しい斉藤に、栗山は厭に爽やかな笑顔で言った。


 よっぽど、臨床心理士のが気になるらしい。

 それなら代わってあげたのに、と。内心で愚痴を言いながら、斉藤は浅く息を吸った。


 メルヘンチックな部屋で不毛な質問を繰り返される。

 逃げ出す事も反抗することもできない時間に、精神も体力も削られた。

 柔和な視線や表情が。斉藤の深部をじわじわと抉り出していく感覚は、足元に着けられた火種が全身に広がっていくのに似ている。

 斉藤はそんなふうに思っていた。

 罪人ではないのに、罪人に落ちているいくような、変な感覚に苛まれる。


「まぁ、はい。そんなところです」


 斉藤は栗山に向かって曖昧に笑うと、抑揚なく答える。


 異様に疲れた。

 頭が痛い、そして重い。


 執務机に肘をつくと、どうしようもなく負荷のかかった自らの頭を乗せた。

 いくら似たような質問をされても、同じだった。

 胸につかえる得体の知れない物と、真っ黒に塗りつぶされたみたいに再生できない記憶。

 斉藤自身も臨床心理士の花井も、それをこじ開けるきっかけ--〝鍵〟すら見つけられなかった。


「はぁ……疲れたなぁ」


 仕事に集中しようとしても。キャパシティが追いつかない。斉藤は大きく息を吐いた。

 イカれた頭では、いくら体力があってもどうにもならない。

 やらなければならないことは、一目瞭然に山積みだというのに。


(とりあえず、サイバー犯罪対策課サ対課からの解析結果をまとめなきゃ)


 積み重なったデスクトレイに視線を移し、中の書類に手をかけた。その時。


 ブブブ、ブブブ--!!


 斉藤はハッとして顔を上げる。

 緊急通報を知らせる無線音。騒然とした室内が、一瞬で静かになるほど大きく響いた。

 何年経っても慣れない、と。

 けたたましく響く音が知らせる情報に、捜査員達が一斉に耳を傾ける。


『警察本部から緊急通報。H署管内で児童掠取りゃくしゆ事件発生。繰り返す、H署管内で児童略取事件発生--』


「人安一係! 至急H署へ向かえ! 二係は特捜本部を設置の準備だ!」


 無線が速報を伝える刹那、池井のげきが飛んだ。


 それまでの静けさが嘘のように、あらゆる衝撃音でひっくり返る。


 椅子の車輪が、不快な音を立てて床をすべる。

 机に投げ出された鞄が発する音に、勢いよく開くキャビネットの扉の金属音。

 バタバタと床を踏み鳴らす短靴たんかの音が、大きく執務室にこだました。


 勢いよく立ち上がった斉藤だったが。一斉に鼓膜を震わせる音と頭を覆う倦怠感に、次の一歩が出なかった。

 ほんの僅かな時間。

 一瞬の戸惑いが斉藤の体にブレーキをかけた。

「斉藤!」

「は……はい!」

「お前は俺とH暑だ!」

「了解! 車、表に回します!」


 いつも以上に、池井の声に強さを感じる。

 斉藤は、反射的に体を震わせた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る