2-1 見えない過去(1)
夜になっても、昼間の暑さは中々引かない。
池井の手は汗ばんでいるのに、何故か冷たく悴んでいた。
固く目を閉じ眠る斉藤を目の前にし、池井は深くため息をつく。
長い間、池井の胸の中に深く沈殿していた疑念。
その疑念を払拭したい、解決に導く糸口を見つけたい。
その一心で、仄暗く沈む疑念を斉藤にぶつけた。
--きっと、間違いない。
警察官としての。長年培った刑事として、池井は己の勘を信じたのだ。
(ダメだな……あの時と、全く同じだ)
警察学校で総合科課程を終了し、再び交番勤務についた矢先のこと。
六ヶ月ぶりの実務は、若い池井の思考と体力を最も簡単に奪っていく。
加えて、じわじわと湿り気の多い暑さが池井に追い討ちをかけた。
防刃チョッキの下の制服に、汗が流れ落ちるのが分かる。
いつもはなんともない腰にぶら下げた装備品ですら、池井にやたらと重く感じた。
西に大きく傾いた太陽が、街をオレンジ色に染め上げる。そんな
ぼんやりと空を眺めながら、池井は交番の前に
「……り、さん! お巡りさんッ!!」
幼く高い声が、じんわりと池井の耳に届く。
まるで目覚まし時計に叩き起こされたような。
瞬間、ぼんやりとしていた思考が急激に冷えて覚醒した。
池井はハッとして声の方に顔を向ける。
肩で息をした少年。
池井以上に汗をびっしょりかいた少年が、池井の膝に手をかけた。
「どうした? もう十八時のチャイムは鳴ったろ? 早く家に帰んな」
「違……!! 男……が、ナイフ持って!」
興奮する少年から発せられる狂気じみた言葉。
一瞬、愉快犯の真似事か? とも考えたが、少年の必死な様子は嘘を言っている感じではない。
汗の伝う池井の背中が、キンと冷えた気がした。
池井は咄嗟にしゃがみ込む。
そして、今にも倒伏しそうな少年の体を支えた。
「僕と、同じくらいの男の子が二人いて……。一人は男に押さえつけられてて。倒れてるもう一人の子に、『わっくん、逃げろ』って」
「!?」
「二人とも怪我してた……血の匂いがしたんだ」
池井は思わず息を呑んだ。
「ついてったの、僕。『お手伝いしたら〝遊撃者〟のレアカードをあげるから』って」
今にも泣き出しそうに喋る少年の言葉に、池井は狼狽した。
「場所、わかるか?」
「愛宕神社の前の……角っこにある、空き家」
「あのオンボロい洋館か?」
「うん」
か細い少年の声が、池井の耳の奥にズシンと落ちる。
池井は少年を抱き上げると、交番の中に駆け込んだ。
「ハコ長!! 至急、一一九に連絡を!!」
「どうした!? 池井!!」
驚く交番長の声に応えることなく、池井はすぐさま無線機を握った。
(まさか……まさか……嘘であってほしい!!)
心中で葛藤する池井は、大きく息を吸って無線機のボタンをさらに強く握る。
「至急! 至急! K署Y交番から警察本部!!」
汗ばむ手。
内側の緊張が震えとなって伝わる声。
過去、これほどまでに。厭な予感に苛まれただろうか?
池井は無線機を握る手に力を込めた。
『ーー警察本部です、どうぞ』
「Y市愛宕神社前空き家にて、不審者と思われる男性と児童二名が負傷したとの情報あり! 繰り返す! Y市愛宕神社前空き家にて、不審者と思われる男性と児童二名が負傷したとの情報あり! ただ今より直ちに、現場に急行する!! 児童の生命に危険がある可能性あり!! 至急、応援を要請する!!」
「おい、所轄」
鑑識用の靴カバーを慎重に脱いでいる池井の頭上に、不機嫌そうな声が投下される。
池井は思わず頭を上げた。
緊張、逼迫。
胸に閊える不安。
足が地につかない不安定さ。
周りの雑音が全く聞こえなかった池井は、その声で一気に現実に引き戻された気がした。
パトカーから異常を含み発せられる警報音が、未だ遠くから近くから。
静かな町に幾重にもこだましている。
辺りはすっかり暗くなり、鑑識用の投光機が厭に明るく空き家を照らしていた。
目を刺激するほど明るい光が逆光となり、池井は思わず目を細めて言葉を発した主を凝視する。
白いヘアキャップの鍔が後頭部を覆う。
暗がりでも分かるライトブルーの鑑識服が、池井の視界眩しく入った。
(あぁ、なんだ。本部の鑑識か)
表情は読めないものの。
この鑑識の声が、あからさまに不機嫌な理由は大体想像がつく。
「現場、荒らしてないよな?」
「大丈夫です」
「ったくよー、ガキのガセ(※嘘の情報)なんじゃねぇのか?」
おそらく帰宅直後に呼び出されたであろう鑑識の男は、より不機嫌そうに言った。
「奥の部屋にカードゲーム用のカードと血痕、それに体液らしきものが確認できました。ガセではないと思われます」
「だから、緊配(※緊急配備)まで要請か?」
「一刻も速い、人命安全の確保が優先だと判断しましたので」
鑑識の男は、池井の言葉を遮るように鼻で笑う。
「じゃあ、ガイシャ(※被害者)はどこいったんだろうなぁ」
「……それは、わかりません」
「わかりません、じゃねぇだろ」
「すみません」
「わからんのによぉ。憶測で緊配なんかかけんなよ」
「けど……!」
池井は、表情が見えぬ鑑識を見上げたまま答えた。意識せずに、眉間に力が入る。
(それを探すのが、あんたらの仕事だろ!)
そう言いかけた瞬間、池井の肩にポンと柔らかな手が乗るのを感じた。
柔らかなくせに。
有無を言わさない制止の圧が、池井の全身に伝わる。池井は手の先に視線をうつした。
「まぁまぁ」と言わんばかりに。同伴臨場したハコ長の田島が和かに笑っている。
池井はその媚を売るような笑顔に、若干ムッとした。
「いやぁ、大原センセ! ご足労をかけてすみませんねぇ」
「ったく! 田島がいなきゃ来てねぇぞ!」
「ありがとうございます! しかし、大原センセがいなくちゃ、機動鑑識も始まんないでしょ?」
「まぁな」
仕方がない、と。
大きくため息をついた鑑識の大原は、投光機に反射するライトブルーの鑑識帽を被り直すと、重たそうなジュラルミンケースを手に空き家の奥へと消えていく。
「〝鑑識の大先生〟って持ち上げときゃいいんだよ、池井」
柔和な笑顔のまま、田島は池井の肩を掴んで静かに言い放った。
「あんな鼻持ちならない奴ばかりじゃないんだ。でもな、池井。鑑定書を書いて裁判で信憑性や信頼性が評価されるのは、アイツみたいな〝先生〟の鑑定書なんだよ」
「……つまり、何が言いたいんですか? ハコ長」
「なんとかと鋏は使いようってことだよ、池井」
その時、池井の目の端に今にも泣きそうな少年の姿が映り込んだ。
交番に駆け込んできたよりも、苦しげで悲しげで。
拳を握りしめて涙を堪える。
暗がりの中に静かに佇む少年に、池井は手を差し伸べることができなかった。
(きっと、同類って思われてる。あの鑑識と)
不可抗力で引かれた見えない境界線。
この少年は、二度と自分に心を開くことはないだろう。
池井はグッと拳を握りしめた。
正しい、こと。
そればかりが、必ずしも正義になりうるとは限らない。
いろんな
そんなことが積み重なり、当然のことになっていくのだ。
希望や夢を抱き、それなりに人生経験を重ねてきた。
しかし、年齢を重ね度に。
自分の信念が薄らいでいくような感覚に、池井自身どうしようもできない不可抗力を覚えていたし。
うんざりもしていた。
どんな厳しい事件現場に臨場しようとも、かつて感じていた鮮やかな正義感は、蘇ることはない、と。
それが、どうだ。
あの時手放した、諦めた事件の糸口を目の当たりにした途端に。
自分の中に渦巻いていた、かつての正義が噴出した。
「あの頃と、全然変わってねぇんだな。俺は……」
意識を失い横たわる斉藤の手を握りしめ、池井は小さく声を発する。
辿り着きそうで、手が届かないあの日の真実。バラバラに散らばったパズルのピースの
今まで掛かった時間に比べれば、耐えうることができるはずだ。
池井は深くため息を吐いた。
まるで犯人を睨むように。
そしてあの時、色んなものを諦めた自分を戒めるように。
虚無の空間を鋭く睨んだ。
「絶対に……捕まえてやる!」
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