登録に来ただけなのに

「……ん」

 すっきりとした目覚めは唐突に訪れた。

 窓から差し込む光の帯がリナディエーサの顔を刺激したのだった。

 ゆっくり瞼を開けると、そこにあるのは未だ眠るエイグリッドのあどけない寝顔だった。

 昨日のことを思い出す。

 魔王討伐命令を受けたこと、ドライと戦ったこと、エイグリッドと再会したこと。

 そうして逃避行してこの街を訪れ、昔を思い出し語り合いながら眠りについたこと。

 夢も見ずぐっすり眠ったのは何年ぶりだろうか。その安らかさな眠りをもたらしたのは、きっと今も繋がれている手のお陰だろう、とリナディエーサは思う。

 健やかな寝息の幼なじみを、リナディエーサは見つめる。空色の瞳は瞼で閉ざされて今は見えない。だが、そこに宿される優しい光を覚えている。短かった茶色の髪は今は長く、彼の輪郭を包んでいる。寝息が溢れる唇は形よく整っていて……。

 そこに至って、リナディエーサは昨日、そこに自ら口付けたことを思い出した。

 頬が熱をもってくる。愛おしさが込み上げてきて、胸がつっかえる。

 手を繋いだまま身体を起こすと、エイグリッドの手の甲に口付ける。彼の指は細く、堅かった。それが今までの苦労を想像させた。それらを癒すように、何度も口付けを落としていく。

 リナディエーサは祈る。

 この再会に感謝を、彼に癒しを、と。

「…………ん」

 彼女の何かが届いたのか、エイグリッドの唇から声が漏れ、瞼の奥の空が広がる。

 そこに映るのは、幼なじみのリナディエーサの微笑みだった。

「……リン?」

 寝ぼけ眼のエイグリッドに顔を近づけるリナディエーサ。

「おはよう、エイク。今日もいい天気みたいだよ」

 今日も幼なじみとお出かけ日和。そう心が浮き立っていたリナディエーサは、次の瞬間、抱きしめられた。

「ああっ、リン……!」

 彼は涙声だった。

「夢じゃなかったんだ……!」

「……うん。夢じゃないよ、エイク。会えたんだよ、わたし達」

 エイグリッドの視界に広がるのは、彼がかつて雪のようだと称した白い髪。後頭部に添えられるのは、昔と変わらぬ温かみを感じさせる手のひら。そして、穏やかな声。それらがゆっくりと、エイグリッドの心に現実として浸透していく。

 そうして落ち着いてくると、今度はエイグリッドの内心を羞恥が満たして行く。と同時に、包み込まれている暖かさと柔らかさが理性を激しく揺さぶる。

「ご、こめん! いきなり……!」

 と慌てて離れようとするエイグリッドを、リナディエーサは逃さない。

「んふふー。エイクは甘えん坊さんだね。よしよし」

「や、やめてよ、もう……!」

 頭を撫でてくるリナディエーサにたじたじのエイグリッド。彼女の強引さに、彼は言葉尻こそ強いもののなすがままにされるしかなかった。

「もう! 朝ごはん行くよ!」

「はーい」

 恥ずかしさでふにゃふにゃのエイグリッドがなけなしの理性を総動員するものの、こんな何気ないやり取りが嬉しくて仕方がないリナディエーサは呑気なものである。

 とは言っても確かに空腹ではあったので、おとなしく彼を解放したリナディエーサ。

 寝巻きからの着替えを共にするので恥ずかしい時間は続き、方や赤面、方やほんわかした雰囲気で階下に降りて行くのだった。

 その様子には触れず、宿の主人が朗らかに挨拶を投げかけてくる。

「おはよう、エイグリッド。と、そういやそちらの名前を聞いてなかったかな」

「おはようございます。リナディエーサです。エイク共々、よろしくお願い致します」

「おや、これはご丁寧に。店主のクラフトだ」

 ぺこりと頭を下げたリナディエーサに、歯を見せて笑うクラフト。

 彼は背の高さは普通だが鍛え上げられた筋肉を持つ、頬の古傷と顎髭が印象的な三十代の男性だった。

 その風貌から第一印象で怖がられることが多く、そんな様子を見せずに礼儀正しいリナディエーサに好感を持ったようである。もっとも、その態度の半分くらいは、相手が類い稀なる美貌の少女だからだろう。それを見咎めたのか、彼の後頭部をトレイの一撃が襲った。ぱかん、といい音が鳴る。

 あまり痛みもないようで、それでも顔を顰めたクラフトの後ろから現れたのは、不機嫌そうな大柄の女性であった。年はクラフトと同じく三十代であろうが、豊かな胸と尻に反して腰はくびれており、全身が引き締まっていた。

「惚けてないの、朝で忙しいんだから。夫が悪いね。あたしはザフィー。ここの料理当番だよ」

「あ、いえ、大丈夫です」

 唐突な夫婦のやり取りに、ぽかんとしてしまうリナディエーサ。それらの光景に苦笑するエイグリッド。彼はこの宿の常連だから二人のやりとりには慣れているが、幼なじみの気持ちもよくわかる。彼もここに初めて来たときは同じだったからだ。

「ザフィーさん、朝ご飯をお願いします」

「あいよ、任せな」

 エイグリッドの言葉に、ザフィーは豪快な笑みを浮かべると金髪のポニーテールを揺らし、夫を連れて厨房へと消えた。

 それを見送って、リナディエーサとエイグリッドは適当な席に相対する形で腰掛ける。まだ早い時間帯のせいか、宿屋備え付けの食堂には二人しかいない。

「二人は夫婦なんだね」

「うん。いつもあんな感じだけど、仲がいいからこそ、だろうね」

「わたしたちも夫婦に見えるかなあ?」

「ごふっ」

 疑問顔のリナディエーサに、エイグリッドはせき込んだ。

「ごほっ、ぐっ……けほっ……!」

「だ、大丈夫?」

 その苦しそうな様子に、慌てて椅子を立つとエイグリッドの傍に寄って背を擦るリナディエーサ。彼はせき込みながら手を挙げてそれに応えようとする。

「だ、だい……ぐふっ、ごほごほっ……!」

「無理にしゃべらなくていいよー」

 せき込みながら赤面するという器用な幼なじみに、つい笑顔がこぼれるリナディエーサ。咳の原因は自分にあるというのに、過剰に自分の言葉に反応してくれることが嬉しくてたまらない。ちゃんと自分の言葉を聞いてくれているということだからだ。

 ややあって、ようやく咳が収まってリナディエーサにお礼を言うと、エイグリッドは、つい、と視線を逸らしてぼそりと呟いた。

「……恋人同士には見えるんじゃないかな」

「うん、そうだね。まだしばらくは恋人を楽しもうね」

「……まあ」

 赤面しすぎて二の句が告げないエイグリッドを尻目に、リナディエーサは上機嫌で自分の席に着いた。

 一つ咳払いをして気を落ち着けたエイグリッド。

「とりあえず、ご飯食べたら武器屋によって冒険者登録、それからクエストを受けてみようか?」

「うん、そうだね。ばんばん稼ぐよ」

「頼りにしてるよ」

 力こぶを作って見せる幼なじみに、エイグリッドは苦笑を浮かべる。その細腕がどれだけの威力を発揮するか、改めて確認しておかなければならない。

 そうこうしているとザフィーが二人分の朝食を持って現れた。

「お待ちどおさま。しっかり食べなよ」

 それは二人に向けての物だった。エイグリッドもリナディエーサも細い部類に入る。たくましい身体を持つザフィーとしては、二人はちゃんと食べているのか心配になるほどだった。

「ありがとうございます、ザフィーさん」

 エイグリッドの声に重ねる様に頭を下げるリナディエーサ。

 ザフィーはそんな二人を見やってから、エイグリッドを見据えた。

「ちょっと聞こえたけど、エイグリッド。ここで冒険者を始める気かい?」

「ええ、まあ。とりあえずはここを拠点にしようかと」

「そうかい、そりゃエディスタも喜ぶよ」

 ザフィーは白い歯を見せて笑うと、「ごゆっくり」と厨房へ戻っていった。

 エイグリッドは、きょとんとしているリナディエーサに視線を転じた。

「エディスタさんはこの街の冒険者ギルドのマスターだよ」

 エイグリッドは追放されてからはしばらく森、と言うよりは塔へ籠っていた。

 だが生活する上での必需品はやはりどこかへ買いに行くしかなく、かといってテトランザ王国へは行けない。なのでこの街へ調達に来ていたのだ。

 その際、森で採取した素材や狩りの得物を冒険者ギルドに買い取ってもらうことが度々あった。

 それらの中には滅多に取れない貴重品も多く、それは腕利きの証明でもあった。

 だから再三、冒険者ギルドのマスターであるエディスタ直々に所属の誘いがあったが、その時のエイグリッドは追放の件もあってか、やや人間不信であったので断っていたのだった。

 そんな背景を、朝食に舌鼓を打ちながら語ったエイグリッドに、リナディエーサはきらきらした瞳を向けた。

「直々の誘いとか、すごいね、エイク」

 面映ゆくなって鼻の頭をかくエイグリッド。

「まあ、エディスタさんに挨拶はしないといけないかなって」

 ここで、エイグリッドは声を潜めた。

「テトランザ王国からの追手の可能性もあるからここに長居はできないかもしれない、っていう事も」

「……テトランザ」

 リナディエーサの表情が憂いを帯びる。それを晴らすように、エイグリッドはテーブルの上の幼なじみの手に、自分の手を重ねた。

「大丈夫。ここラナカンディア王国とテトランザ王国は森が隔てているし、テトランザの外交手腕はあんまりよくなくて、ラナカンディアとは没交渉なんだ。長居できないっていうのは……可能性はあるけど、念のため、が強いかな」

「……ごめんね」

「そもそも、逃避行を誘ったのは僕だよ。謝るべきは僕だ」

「そんな、エイクは悪くないよ」

「じゃあ、どちらも悪くないってことでいいんじゃないかな」

 笑みと共に細められた目の奥の空。とてつもなく優しいそれに、リナディエーサの瞳から、ぽろり、と一粒の涙が零れ落ちる。彼女は慌ててそれを拭った。

「わ、なんだろ、なんだか感激しちゃった。エイク、昔と一緒で優しいよう」

「それはリンのことでしょ。さ、食べるよ。せっかくのご飯が冷めちゃうからね」

「うん」

 満面の笑みとなったリナディエーサに、安心して笑みを返したエイグリッドだった。

 その様子を、こそこそと厨房から覗く二対の視線があった。

「おーおー、微笑ましいねえ。そう思わないかい、クラフト」

「あの堅物があんな風に笑うとは知らなかった。エイグリッドにとっちゃ、リナディエーサちゃんは特別なんだろうなあ」

「リナディエーサ、ねえ。おまけにエイグリッド、か。どちらもどこかで聞いたことある名前だけどね」

「おっとザフィー? どうする気だい?」

「決まってるさ。あの子たちはいい子だよ。大人に相応しい対応をするだけさね」

「同意見だね」

 クラフトとザフィーは顔を見合わせたのだった。

 そんな会話など知らず食事を楽しむエイグリッドとリナディエーサ。

 そんな二人のいる食堂に、扉を開けて新たな客が現れた。

 別作業に入ったクラフトの代わりに、厨房から身を乗り出してザフィーが挨拶しようとするものの、客が誰かを認識した途端、その表情が苦いものに変わる。

「いよう、来たぜ、ザフィー」

「あんたかい、コルゼバ」

「あんたとはご挨拶だな。客だぜ、俺はよ?」

 コルゼバと呼ばれたのは、クラフトたちと同年代の大柄な男だった。

 ザフィーも大柄ではあるがさらにそれを超え、背中に大剣を背負っていた。その前では例えば小柄なエイグリッドと比べると、大人と子供に見えてしまう。

 目はギラギラと輝き生命力と野心に溢れているが、同時に濁ってもいた。ザフィーを眺める様は、その身体を品定めするかのようであり、当のザフィーもそれに気づいていて不快に顔を歪める。

 コルゼバの視線が厨房に向くと、そこに嘲笑の色が混じる。

「クラフトの野郎は奥かい?」

「だからなにさ。それ以上悪態つこうってんなら、どうなるか分かってんだろうね?」

 コルゼバは昔からクラフトを気に入らず、ことあるごとに突っかかってくる。随分と昔の話だが、ザフィーに恋慕していた事も関係しているのだろう。このやりとりも毎度の事で、ザフィーが視線を鋭くすると、コルゼバが恐々として肩をすくめる流れだった。

 だが今日は、ザフィーの視線から逃れようと首を巡らせた先の、初見の客の存在がいつもの流れを中断させた。

「うお、すげえ美人」

 今までコルゼバがお目にかかったことが無いほどの美貌がそこにいた。リナディエーサである。彼女の表情は終始穏やかで、それもコルゼバの注目の一助となっていた。

「すげえなあんた、どこから来たよ?」

「コルゼバ!」

 ザフィーの制止を振り切り、二人の席に歩み寄るコルゼバ。大柄な男が迫る様は、まるで夢遊病者のようですらあった。

「……なんでしょうか」

 胡乱げな視線で応対したのはエイグリッドであった。リナディエーサも、不審な視線を向けている。実のところエイグリッドはザフィーとコルゼバのやり取りに気づいており、悪い予感に身構えていたのだった。その予感が当たってしまい、内心エイグリッドは舌打ちしそうだった。それを控えたのは側に申し訳なさそうなザフィーがいたからである。

「お前にゃ用はねえよ。こっちの娘に声かけたのさ。こんなのほっといて、俺と一杯どうだい?」

「こんなの?」

 コルゼバの物言いを止めようとザフィーが身を乗り出すより一瞬早く、極低温の声音が溢れ出した。

 声の主はリナディエーサだった。

 彼女は徐に立ち上がると、声と同じく冷え切った瞳でコルゼバを切り刻んだ。

「え、お」

 架空の剣に舌も刻まれたのか、もつれた音しか出せないコルゼバ。一転したリナディエーサの雰囲気に、ザフィーも背中に冷や汗を感じる。

「こんなのって誰のこと? ねえ、誰のこと?」

 声と共に吐き出された冷気に押されるように、コルゼバが後ずさった。彼は恐怖で歪んだ唇から声にならない叫びを押し出すと、それに押されたように身を翻して食堂の出口に駆け出した。

「ひいぃっ!」

 コルゼバはそんな叫びを残して、食堂から一目散に退場したのだった。

「……なにあれ」

 残ったのはリナディエーサの冷たい疑問で、それに苦笑出来たのはエイグリッドだけだった。

「なんだろうね」

「本当、なんなの。楽しく食べてたのに」

 ぷくり、と頬を膨らませるリナディエーサに、エイグリッドは目を細めて微笑んだ。自分を悪く言われたから怒ったのだ、と思い嬉しくなったのだった。

 怒るリナディエーサ、なだめるエイグリッドと、落ち着きを取り戻した食堂。

 意図せず止めていた息を再開したザフィーは、頭をかいて軽く二人に頭を下げた。

「ごめんよ。不愉快な思いをさせたね」

「そんな、ザフィーさんはなにも」

「うん。あの人が変なだけ」

 大剣を背負った大男をただ「変」と称したリナディエーサに思わず苦笑するザフィー。鈍感なのか歯牙にもかけていないのか……後者だろう、とザフィーはあたりをつけていた。

 リナディエーサが発した押しつぶすような雰囲気には、ザフィーも肝を冷やされた。かつて高ランク冒険者として力を振るい、今も力量は衰えていないはずの自分でも勝てないかもしれない。そう思わせる威圧感があったのだ。

 それらを意識の隅に追いやりながら、ザフィーは先ほど逃亡したコルゼバの行いに溜め息をもらす。

「あいつは常連だけど素行が悪くてね。出入り禁止にしたんだけどすっかり忘れてまた来たようだね……。きつく言っとくよ。これに懲りず、今後とも御贔屓に願うよ」

「はい、それはもちろん」

 代表してエイグリッドが頷く。エイグリッドはコルゼバに初めて接したが、出入り禁止期間があったから今まで出会わずに済んだのだな、と思い返していた。

 リナディエーサも彼の隣で意見に賛同するように、こくこく、と頷いている。

 取り繕いでもないその態度に内心で安堵の溜め息をつくと、ザフィーは目礼で返したのだった。



 美味しく朝食を頂き終えると、エイグリッドとリナディエーサは武器屋により、その足で冒険者ギルドへと向かった。

 リナディエーサが冒険者として活動するための登録のためである。

 その道すがら、エイグリッドとリナディエーサは会話を交わす。

「クラフトさんとザフィーさんは昔、冒険者をしていたらしくてね」

「そうなんだね。それでお二人とも、足運びとかがすごいんだね」

「僕はそういうのさっぱりだけど、リンはそういうの分るんだ。すごいね」

「うん、こう見えて剣は得意だから」

 エイグリッドと手をつないでいるのとは逆の手で、力こぶを作って見せるリナディエーサ。

「で、今は引退して宿を経営しているんだって。昔、自分たちも冒険者だったからか色々詮索してこないし、ご飯は美味しいし、あそこを見つけられたのは運が良かったね」

「うん、美味しかった」

 朝ご飯を思い出して、リナディエーサは口元を緩ませる。

 リナディエーサは食事を実に美味しそうに食べる。それを見るエイグリッドは複雑だ。聖女として教会、勇者として王国に所属していた頃はどんな食生活だったのか、聞くのは憚られていた。エイグリッドには想像するしかないが、あまりいい気分にはなれなかった。それを表情に出さず、見えてきた冒険者ギルドの建物を指さしてみせる。

「着いたよ。クラフトさんやザフィーさんみたいな人たちばかりじゃないから、気を付けてね」

「うん、変な人がいたらやっつけちゃうね?」

「いや、騒ぎを起こしたら僕らもお説教されちゃうから、なるべく穏便にね?」

「うーん、分かった」

 とは言っても、またエイグリッドを侮辱されたら自分でもどんな態度を取ってしまうか分からないリナディエーサだった。

 不服そうなリナディエーサに苦笑を返しつつ、エイグリッドは先導するように冒険者ギルドの扉を開いた。

 中は半分酒場、半分受付と言う特有のつくりをしていた。酒場はまだ朝早いというのに半分ほど席が埋まっており、受付も業務にせわしない。二階への階段もあることから、宿屋も併設されていそうだった。リナディエーサは、エイグリッドに手を引かれつつ視線を巡らせていた。多くの視線が自分たちへ向かうのが分かる。その割合は自分へ七割、エイグリッドへ三割と言ったところだろうか。

(大丈夫かな)

 リナディエーサが抱いた不安は、テトランザ王国で受けた仕打ちが思い起こされたからである。リナディエーサに自覚はないが、自分はよほど美形らしく、それが女性の嫉妬を呼び、男性の欲情の視線を集めていた。今は防波堤となるようにエイグリッドが前に居てくれるが、それが矢面とならないか、不安でたまらない。

 しかし、ふと見たエイグリッドの横顔はそんな心配を払拭するほど落ち着いていて、背中も大きく感じる。彼女の不安を察したようにつないだ手に僅かに力が籠められ、「大丈夫」と返事をしているようだった。それは彼女の胸に暖かな火を灯す。

 視線の正体はリナディエーサが思うものばかりでもなかった。

 単純に、リナディエーサの神秘的な外見に見惚れ、溜め息を洩らさんばかりのものも数多い。赤い瞳、長い一房の三つ編みは純白で、鎧に包まれた身体は黄金律ともいうべきバランスだ。傍らで手を引く男の子も造形は整っており、彼女を守るように凛々しさを増したエイグリッドに見惚れる者も多かった。

 しん、としてしまった酒場を回り込むように、エイグリッドはリナディエーサを連れて受付へと進む。酒場と受付の視線がそれを追う。

 エイグリッドは受付へ近づくと、半ば呆然とリナディエーサに見惚れている男性職員に声をかけた。

「アルンさん、こんにちは」

「おおうっ!? エ、エイグリッドか! びっくりした! どこのお貴族様のお嬢様だ!? どこから攫ってきた!?」

「人聞き悪いですよ」

 アルンと呼ばれた男性職員はまだ若く、戸惑いつつエイグリッドとリナディエーサに視線を行き来させた。

「幼なじみのリナディエーサです。冒険者登録に来ました」

 エイグリッドの紹介に、ぺこりと頭を下げるリナディエーサ。

 アルン、他の受付職員、酒場の面々の視線がリナディエーサに向かう。

 今度の視線は、彼女の実力を値踏みする類のものだった。

 彼女は軽鎧を身にまとい、先ほど武器屋で購入した、片手でも両手でも扱える剣を腰に佩いていた。少女には不釣り合いではあったが、それらを装備しつつも身体の運びに芯が通っていることに気づいたものも何名かいた。

 アルンもそのうちの一人であり、リナディエーサを下から上まで眺め、そうして快活に笑った。

「ようこそ、ブロスの冒険者ギルドへ。歓迎しますよ、リナディエーサさん」

「あ、はい。よろしくお願いします」

 笑顔で握手を求めたアルンだったが、その手首はそっと、同じく笑顔のエイグリッドに押しとどめられた。

「……目が笑ってねえぞ、エイグリッド」

「さすがの鑑識眼ですね、アルンさん」

 エイグリッドの視線に射すくめられたアルンは、握手を引っ込めると肩をすくめてやさぐれた。

「ったく。あーあー、そういうことかよ。お幸せにってな。で、お前は案内ついでに素材の買い取りか? いい加減、冒険者として所属してくれりゃいいのによ」

「あ、はい。僕も登録にきました」

「へーへー、分かってるよ、しばらくは組織に属したくないってんだろ。……なんだって?」

 ざわり、と受付職員たちと酒場の客たちが浮足立つ。

 アルンが身を乗り出した。

「エイグリッド。今、冒険者登録に来たって言ったか?」

「ええ、言いました。つきましては――」

「ギィィィルドマスタァァァァーーーー! エイグリッドが! エイグリッドがあああああ!」

 アルンが受付の奥に叫ぶ。その声のあまりの大きさに顔をしかめるエイグリッドと、びっくりするリナディエーサ。

「うるさいですよ! わたしは二日酔いって言ったでしょう! 殴り殺されたいんですかっ!?」

 即座に不機嫌な怒声と共に、小柄な影が扉を壊さんばかりに押し開けた。

 言った通り酒が残っているのか腹を立てているのか赤ら顔で、緑の瞳をとろんとさせている女性であった。流れる長い銀髪から突き出た耳は長く、エルフと言う森に住む種族であることを主張していた。纏う衣服は清楚で深窓の令嬢を思わせるのに、片手にある酒瓶がすべてを台無しにしている。迎え酒でもしていたのかそれは半分ほど減っており、今すぐにでもアルンに振るわれそうな凶悪さを滲ませていた。

「お断りっす! そんなことより、エイグリッドがうちに所属してくれるそうっすよ!」

「はあ? エイグリッドさんが? そんなわけ……」

「おはようございます、エディスタさん」

 傍らからエイグリッドに話しかけられ、今にも振るいそうだった酒瓶を下ろすギルドマスターこと、エディスタ。その表情はエイグリッドの落ち着いた態度につられた様に穏やかに変わる。

「あら、おはようございます、エイグリッドさん……というか、マジです?」

「はい。散々、断っておいて今更すいません。よろしくお願いしたいです」

「そんなそんな、ありがたいです! おかげで二日酔いもどこかへ行きました! こちらこそよろしくお願いしますね!」

 どしん! と細腕に似合わぬ勢いでエイグリッドの背中を叩くエディスタ。

「どあっ!?」

 前方に吹き飛ばされたエイグリッドを受け止めたのはリナディエーサだった。

「エイク、大丈夫?」

「な、なんとか」

 手荒い感謝にエイグリッドは軽くせき込むだけだったが、リナディエーサはそれを為したエディスタに鋭い視線を向けた。

 が、エディスタはすでに身をひるがえしてギルド職員や酒場の冒険者たちに演説めいたものを打っていた。

「皆さん、有望な新人君が加入してくれましたよ! 祝えや飲め、です! 奢ったりはしませんのであしからず!」

「ギルドマスター、ケチくせえー!」

「きゃー、エイグリッド君、ようやくね! お姉さんたちとパーティー組みましょー!」

「横入すんな! 俺はやつに助けられた時から勧誘するって決めてたんだからな!」

「エイグリッド、採取のコツ教えてくれー!」

 エディスタの声を皮切りに、そこかしこで歓喜や勧誘の声やらが上がる。その雰囲気に、リナディエーサは幼なじみの顔を覗き込んだ。

「エイク、人気者」

「……ありがたいことにね。とりあえず、登録を済ませちゃおうか。アルンさん、お願いできますか?」

「いいけど、お前この状況でよくそっちに気が回るね」

 酒場は勧誘合戦の小さないさかいが起きており、エディスタは祝賀とばかりに酒場の一卓を占拠して酒盛りを始めてしまった。酒場の状況、期待の新人加入で浮き立った受付職員たち、仕事を放り出してしまったギルドマスターに呆れつつ、受付カウンターに腰を落ち着けたアルンだった。

「んじゃ、気が変わらないうちに、エイグリッドを先に登録するか。他国のでもいいけど、ギルドカード持ってたりする?」

「……まあ、ないこともないです」

 微妙な言い回しをし、エイグリッドはこれまた苦い表情で懐から銀色のカードを取り出した。それを横合いから心配そうに覗き込むリナディエーサ。

「エイク、大丈夫?」

「ああ、うん、ごめん。テトランザが発行したものだから、ちょっと嫌な記憶が蘇って来ちゃって。大丈夫だよ」

 取り繕うようなエイグリッドの笑みに痛々しいものを感じ、リナディエーサは彼の腕に抱きついた。それを嬉しく思い、目を細めるエイグリッド。

 それを間近で見せられたアルンは、内心「けっ」とやっかみつつ手渡されたカードを受け取る。

 次の瞬間、アルンの表情が驚愕に引き攣った。カードが示すエイグリッドの実力が思いの他、高かったためだ。

「ランクが上とは思ってたが、裂海れっかいとはな……!」

「れっかい?」

 聞き慣れない言葉に、リナディエーサが首を傾げた。

 その声に、アルンは気を取り直して咳払いをした。

「冒険者のランクはいくつかに分かれてるんですよ。まずは初心しょしんランク。文字通り、最初はみんなここから始まります。で、次に金剛こんごう水鏡みかがみ疾風しっぷう業火ごうかと上がって行って、ここまでが中堅どころっすね」

 アルンはランクが示された板を片手に説明していく。ふむふむ、と素直に聞き入るリナディエーサ。

「次に中堅最高位の閃光せんこう。そこから上、砕地さいち裂海れっかい断空だんくうが上位ランク。んで、最高ランクとして破神はしん、と」

「すごい、上から三番目」

 リナディエーサからの賞賛の瞳に照れるエイグリッド。

 そんな二人のやり取りに、面白くなさそうな表情のアルン。彼としては、美貌の新人の感心を説明業務で引きたかったのに、当てが外れて癪に障るばかりである。

 そんな彼の内心をさらに逆撫でたのは、階段上から響いた唸るような声であった。

「ああ、なんだ? この騒ぎは?」

 その声は、エイグリッドの顔を顰めさせ、リナディエーサの瞳に冬をもたらした。

 重量級の足音と共に現れたのは、今朝も遭遇したコルゼバという大剣使いの冒険者であった。

 彼はいつもと違う酒場の雰囲気に戸惑い、あたりを見渡していた。

「……アルンさん、続きをお願いします」

「あいよ」

 アルンとコルゼバの関係はギルドの受付と冒険者だったが、アルンの心象はよくない。冒険者として腕は立つが、対人関係に横柄さが目立つのだ。故に、ソロとしての活動が長いのだが、本人はその理由に気が及ばない。

 よって、アルンは受付中ということもあり、特にコルゼバの登場を気にしないことにした。それよりは、こぶつきでも美人と相対している方が余程よい。

 アルンはエイグリッドのギルドカードを手に説明を続ける。

「というわけで、エイグリッドはもはやベテランっすね。ただ残念ながら、こいつはテトランザ王国の冒険者免許。このランクをそのまま引き継ぎは出来ないんだよなあ……」

「えっ」

「構いませんよ、登録手順を省略できるだけでもありがたいので」

 申し訳なさそうなアルンに、思わず抗議の声を上げてしまいそうになったリナディエーサ。それを優しく押し留めるように、エイグリッドは了承していた。

「国も制度も違うしね。逆に、あの国の物をずっと引きずるよりいいよ」

「……エイクがそう言うなら」

 せっかくの努力の証を無に帰されたようで、リナディエーサは納得が行かなかった。それでも、幼なじみの表情に渋々引き下がるしかない。アルンは彼の態度に何があったのかを推し量ろうとするものの、すぐにそれをやめて頭をがしがしと掻いた。

「……ま、それでもある程度は評価の対象になるんだが。悪いが、最大でも疾風しっぷう認定だな……」

「はい、それで十分で――」

疾風しっぷうだとっ!?」

 その怒号は横から飛んできた。

 エイグリッドが溜め息を吐きながら視線を巡らせたその先には、大剣を背負った大男の姿があった。コルゼバである。彼は歯を剥き出しにして怒りで顔を赤く染めていた。彼は、エイグリッドやリナディエーサだけでなく、酒場の全員の視線を集めたことに気づいていないようだった。

 冷淡に応じたのはアルンである。

「なんすか、コルゼバさん。今、手続きの途中なのでご用件がおありでしたら別の窓口へ――」

「ふざけてんのか、てめえ! こんなひょろひょろの奴が俺の一つ下のランクだと!?」

「ぐっ!?」

 丸太のようなコルゼバの太い腕がカウンターを乗り越え、アルンの胸ぐらを掴んだ。そうして、軽々と彼を吊るし上げようとする――ところで、その動きは止められた。

「やめなさい」

「う、ぐ? ぐおお……!?」

 リナディエーサの右手が、コルゼバの手首を押さえていたのだ。リナディエーサの手はコルゼバに比べれば小さく、押し留めるというよりは添えられているようにしか見えない。だが、見た目よりも凄まじい握力でコルゼバの手首を捻り上げていき、アルンを解放させ、コルゼバの口から驚き混じりの苦痛を生じさせていた。

 全てを凍りつかせそうなリナディエーサに、アルンを始め周りの人間は呆然とするばかりであった。

 リナディエーサは手首を翻した。その動きに釣られるようにコルゼバの全身が回転し、酒場の床に叩きつけられる。

「ぐはあっ!?」

 受け身も取れずに、コルゼバは強制的に肺の中の空気を吐き出さされた。

 だが、さすがは冒険者と言うべきか、似合わない素早さで身を起こすと、リナディエーサを睨みつけ、怒鳴りつけようとする。

「なんなの? どうして邪魔するの?」

 凍てつくような視線に、コルゼバの舌は縫い止められた。

 コルゼバは中堅どころの冒険者で、年も三十と脂が乗っている。性格に難があるが、確かな実力者だ。その彼が、睨まれただけで立ちすくみ、二の句を告げない。

 彼はその現実を認められず、今度は標的を別人へと切り替えた。

「ギルドマスター! こんな若造が、入ったばかりで疾風しっぷうランクなんてありえるかよ!」

 それはエイグリッドを守るように立つリナディエーサから逃げるような物言いであった。ギルドマスターエディスタはそんな彼を、まるで酒の肴のように面白がっていた。彼女は足を組むと、テーブルに頬杖を突く。

「アルンさんの対応は規則通りですー。それにケチをつけるばかりか、うちの職員におててを出すなんて、わたしに喧嘩を売ってるってことでよろし? ん?」

「暴れたいだけでしょ」

 と言う、ぼそりとしたアルンの呟きはすぐそばにいたエイグリッドにしか聞こえなかった。

「い、いや、そんなつもりじゃ……」

 一転、挙動不審になるコルゼバ。エディスタは小柄な女性だが、過去に狂戦士の異名を誇っていた猛者だ。そんな彼女を相手取れるほど、コルゼバは自分の力量を過信していなかった。

「……あの、ギルドマスター」

 エディスタとコルゼバの会話を静かに打ち切ったのは、手を上げたエイグリッドであった。今度は、その場の全員の視線が彼に集まる。

「まあまあエイグリッドさん、ギルドマスターなんて他人行儀な。わたしとあなたの仲ですよね? エディでいいっていつも言ってますでしょうにー?」

「お酒くさいですよ……」

 千鳥足でエイグリッドに近づいてきたエディスタは、彼の首根っこを抱え込むと上機嫌に親愛をアピールする。それにつれなく返すエイグリッドは、鼻に手を当ててエディスタの呼気から顔を背ける。まったく、この状況でギルドマスターを名前で呼んだら、余計にコルゼバを逆撫でするからあえて役職で声をかけたというのに、気遣いが無駄になってしまった。酔っ払いと言うのは度し難い、とエイグリッドは思ってしまう。

「エイクが嫌がってる」

 そんな酔っ払いはリナディエーサに引き剥がされ、べいっとばかりに遠ざけられた。易々と自分をそうしたリナディエーサに、エディスタは軽く目を見張り酔いをわずかに醒まされる。

(わたしを膂力で上回るとは、只者じゃありませんね)

 過去に狂戦士と呼ばれたのはその戦いぶりもそうだが、エルフという印象を覆す怪力も合わさってのことである。それを上回る存在が現れたことに、エディスタは唇を舐めることで興味を露わにした。

 そんな事を思われているとは露知らず、リナディエーサは接触を上書きするかのように、後ろからエイグリッドの首元に腕を回して抱き着いて、頬をぷくりと膨らませてエディスタを睨んでいた。エイグリッドは衆目環境下での急な幼なじみの接触に、視線をさまよわせて顔を赤くすることしか出来ない。

 そんな光景を見せつけられても、コルゼバは動けない。ギルドマスターの庇護下にあるような言動を見せつけられて、行動を決めあぐねていたからだ。

「で、なんでしょう、エイグリッドさん?」

 にまにまと楽しそうに問いかけてくるギルドマスターに、とにかくエイグリッドは用件をさっさと告げてしまうことにした。

「……確認なんですが、疾風しっぷうランクに上がるには、実戦試験が必要でしたよね」

「はい? ええ、まあ、そうですね。しかし、他での実績がある場合はその限りでなく免除……ああ、なるほど? はいはい、なるほどです。うんうん。エイグリッドさん、案外いい性格なさってますね?」

 視線を逸らすエイグリッドに、合点がいった、とばかりにやたら頷くギルドマスターエディスタ。楽しくて仕方がない、と表情が物語っている。

「アルンさん。エイグリッドさんの疾風しっぷうランク昇格試験です。手が空いている業火ごうかランク以上の方はいますか?」

「あー、どうですかねえ。みーんな出払ってるんじゃねえですかねえ?」

「俺が相手をしてやる!」

 わざとらしいギルドマスターとアルンの会話に割り込んできた怒声がある。業火ごうかランク所持者、コルゼバであった。その表情は怒りと笑みが半々で、嗜虐性に満ちていた。

「よくもここまでコケにしてくれたな。分かってんだろうな、どんな結果になっても、どんだけ泣き喚いても文句言わせねえぞ……!?」

 コルゼバも馬鹿ではない。

 この流れがエイグリッドを始点としたお膳立てだと察するのは難しくない。ましてや、儚げな少女相手に二度も醜態を晒したこともあり、彼の自尊心はかつてないほどに傷つけられていたのだった。

「でしたら、修練場に移動をお願いします。見物、賭け、野次、なんでもありの舞台にご案内ですよー」

「いや、そこはやめさせましょうよ……」

 心底楽しそうなエディスタと、呆れ顔のアルンのやり取りを皮切りに、舞台は別の場所へと移るのだった。

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