「ありがとう」とひたむきな恋

橘谷椎春

ただ幸せになってほしくて

「ありがとう」


  彼はにこやかに笑って私に背を向けた。私がどんな顔をしていたかは覚えていない。ただ、私が気づいたときには、彼は既に駆け出していた。

 ──都会の空へ。




 私の母校は、東京都文京区に位置している。やはり東京というのは日本有数の大都市なので、日々多くの人が街を行き交っている。パンデミックの頃は見かけなかった観光客らしい外国人たちも最近は増えてきて、一度は衰えたかと思えたこの街もまた賑わいを取り戻してきている。

 ところで、街の賑わいには何が必要か考えたことはあるだろうか。巨大なショッピングモールだろうか。他の地域には無い名産品だろうか。可愛いご当地ゆるキャラだろうか。否。

 考えてみれば至極単純。

 人だ。街が賑わうには、そこに暮らす人が必要なのだ。では、その人が増えるためには何が必要だろうか。別に移住させる努力なんてする必要はない。こっちで勝手に増やせばよいのだ。要するに何が言いたいかというと、街の賑わいは人の恋愛の後からやってくるものなのだ。普段、将暉くんは愛美ちゃんが好きだのと言って茶化しているときの人の気持ちなど知ったことではないが、あれは街の発展を邪魔する愚かなことこの上ない行為と言ってもいい。

 私の友人、杉本大輔もそんな愚かな行為に悩まされていた。初めは


「茶化すなよー」


 なんて笑っていた彼だが、隣のクラスの人間の会話を盗み聞きした日以来その笑顔は消え去った。


「ぶっちゃけ香織さんからすれば害でしかないよね」

「それ、言えてる」


 羽村香織は言うなれば私の学校の高嶺の花だった。彼女に思いを伝え、無様に散っていった者の涙が染み込んだラブレターらしき物体Xを後者裏や中庭で発見したのは一度や二度ではない。廊下に三人分転がっていたときは流石に驚いたが。彼女は勉強も学校活動も完璧な人間だった。成績は常にトップであり、学校では生徒会長を務めている。それだけでなく人格も完成されており、まさに聖人君子であった。

 そんな彼女が、一度だけ怒ったことがあった。

 その怒りこそ、杉本大輔に向けられたものだった。

 彼は人の気持ちや忙しさを察してあげるのが、少しばかり得意ではなかった。


「ね、ね。今度遊びに行くって話してたじゃん──」

「ごめん、今忙しいんだ。後にしてくれるかな?」


 いつもは丁寧に閉じる学校支給のノートパソコンを少し乱暴に閉じた彼女の強い語気に心から反省した、と彼から聞いている。

 それを見ていたその他大勢からしても、その光景は以外なものだった。中学校生活三年間、ただの一度も不快そうな顔すら見せてこなかった彼女が、初めて怒こったのだ。

 その日以後、学校ではある噂が立った。


「香織さんって大輔のこと嫌いなんだって」

「まあぶっちゃけ、あいつは香織さんからすりゃ害でしかないもんな」


 私は噂が立ってすぐの頃からそんな話を耳にしていた。しかし私は彼には黙っていたのだ。なぜなら、私からすれば彼女が怒っていたようには見えなかったから。彼に否がないとは言わない。しかし私にはそこまで大きな悪行を働いたようには見えなかったのだ。

 とはいえ、それは私個人の偏見に過ぎなかった。

 彼はその話を聞いて以来、ずっと自分を責めてきたそうだ。というか、そもそもあの日に羽村香織を怒らせてしまった事自体ただの一度も忘れたことがないらしい。


「害でしかないって、言ってくれるよな。まあ思い当たる節があるのは事実だし、正直俺もそう思うけど」


 自分は有害。自分はいないほうがいい。いつしか彼の口癖はそんなものになっていた。

 そして、今日の放課後。今日は何もない普通の一日だったし、特段なにか事件があったわけでもない。しかし彼の中の何かは今日遂に壊れてしまったらしい。

 ──帰り際、屋上に杉本大輔の姿が見えた。

 私は走って学校に戻った。止まることなく、下足のまま屋上に向かった。もともと開いていたのか彼が開けたのかは知らないが、屋上の鍵は開いていた。


「大輔、考え直せよ!」


 私は彼を諭すつもりだった。

 彼の不安を和らげて自殺を考え直してもらうための言葉もこの短時間で考えていた。


「大輔は有害なんかじゃない!」


 その言葉を耳にしたとき彼はハッとした顔を見せた。何かに気づいた、そんな顔だ。

 瞬間私はほっとしていた。よかった、彼は自殺を思いとどまってくれるんだ、と思ったのだ。

 しかし、その考えは甘かった。





「ありがとう」


 彼はにこやかに笑って私に背を向けた。私がどんな顔をしていたかは覚えていない。ただ、私が気づいたときには、彼は既に駆け出していた。

 ──都会の空へ。


 実際に、どれくらいの時間をかけて彼が生徒玄関の前に落ちたのかは今でもわからない。今でもわからないし、知りたくない。ただ、当時のその瞬間の私からすると、その時間は永遠に感じるような長い時間だった。彼は小学校で出会って以来ずっと仲の良かった親友だったので、下からドサッという音がするまでずっと彼との思い出がフラッシュバックしていた。

 翌日の学校は休みになり、その次は土曜、その次は日曜と三連休になった。

 私はあのときより気分の悪い三連休を経験したことがない。

 月曜日は臨時の全校集会があった。ステージの上に置かれた小汚い演台の後ろに立ち、禿頭をいつも以上に汚らしく輝かせながら校長は何やら話をしていたようだったが、私の頭には欠片も入ってこなかった。


「ありがとう」


 まだ、その言葉が脳内を反復していた。

 あのとき、実を言うと、私はギリギリ彼を助けることができたかもしれなかったのだ。彼は屋上に立っていたとはいえ端の方ではなく割と中心の方にいたし、私は彼より幾分か足が速い。ふわりと駆け出した彼に追いついて腕を掴み、「早まるな」と怒鳴るくらいのことはできたと思う。

 ──何故、しなかったのか。


「ありがとう」


 私はあのときの彼の笑いを見て、止めてやるのは酷だと思ったのだ。あのときの彼の笑顔は鮮やかだった。彼のあんな顔を見たのは、久しぶりだった。

 もう彼が心から笑えるのは、この空の先にある場所だけなのかもしれない。そう思ったのだ。

 彼を生かすことができたかもしれないと後悔しているのは事実だ。しかし、私にはその後悔すら間違っているような気がした。

 そういえば、土足で校内を駆け回ったことについて怒られることはなかった。




 杉本大輔の机に花瓶が置かれるようになってから程なく、学校には新しい噂が生まれた。


「羽村香織は人殺しだ」

「大輔は羽村香織のせいで死んだ」


 最初に彼女のノートに落書きをしたのは、死んだ彼のことを「香織さんからすりゃ害でしかない」と言っていた田辺と大里だった。実に軽薄なものだ。今では彼女のことを香織さんと呼ぶことすらせず、人殺しなどと言って蔑んでいる。彼女のノートは表紙から中の一ページ一ページに至るまで、丁寧に「人殺し人殺し人殺し人殺し人殺し……」と、延々と綴られていた。よくもまあこんなに丁寧にやるものだと思った。とてもじゃないが羽村香織に対する怒りが含まれたようなものではなかった。大輔の死は羽村香織のせいだと本気で思って、本気で怒っているのならもっと感情的に書くべきだった。殴り書きにするべきだった。

 大輔の死に怒っているのなら、あんなに落ち着いた丁寧な字は書けるはずもなかった。

 とはいえ、これに触発された馬鹿は多かった。以降は彼女のノート、教科書、ノートにカバン、果ては筆箱につけられたキーホルダーに至るまで彼女の所持品全てに「人殺し人殺し人殺し……」と永遠に書かれていた。筆跡も様々だったため、田辺と大里以外の人間も加担していたのだと思う。彼女も彼女で先生にでも言えばいいものを、ただ黙認していた。先生の対応が不完全だったときのことを恐れたのかもしれない。もしくは、彼女も彼のことで何か思うことがあったのかもしれない。ともあれ完璧だった彼女の経歴はこの頃から崩れ始めた。




 二ヶ月もすれば、羽村香織の所持品に人殺しという単語を永遠に書き続けることは一種の行事として皆の脳に刷り込まれた。ある日は新しい教科書、ある日は体操着。教科書や体操着を家に忘れることが恒常化した彼女はよく先生に叱られるようになった。

 私はいまだに思う。叱られるべきなのは先生の方だったのではないかと。担任の癖に机の落書きも椅子の落書きも見てみぬふりをしていじめの片棒を担いだかの悪徳教師こそが、羽村香織に代わって制裁を受けるべき人間だったのではないかと。




 冬休みを挟んで一月となると数人が冷静になってきて、香織さんは別に悪いことしてないよななんてことを言い出すようになった。

 田辺と大里はそういう奴らに決まってこう言った。


「お前は羽村香織の側につくのか?」

「お前は人殺しの味方なのか?」


 そう言うと皆首を横に振った。

 あの二人はよくわかっていた。この頃には、もう後には引けなくなっていたのだ。人の死をダシにしたいじめなんてものに、ブレーキはついていなかったのだ。そのころ寒くなったのもありずっと長袖を着ていた羽村香織が珍しく半袖姿になったところを、偶然私は見た。

 リストカット痕というのだろうか。手首やその付近が酷く傷ついていた。

 私はこのとき、ふと大輔は彼女のことが好きだったことを思い出した。

 自分は有害などと彼はよく呟いていたが、これは彼女への当てつけなんかではなかったはずだ。私はその日の夜、随分昔の彼との会話履歴をスマートフォンで確認した。


「俺なりに香織さんのためになることを考えてみたんだけど、やっぱり俺が消えることが最優先かな?」

「病みすぎ。お前が消えてどうする」

「それが一番香織さんのためになると思うんだよ」


 これは被害妄想などではなく、「絶対に怒らない彼女を怒らせてしまうのは世界で私だけで、つまり私は存在そのものが彼女の害になるんだ」という少し行き過ぎた思想から生まれた発言なんだと思う。

 だが、実際に彼が消えたらどうだっただろうか。

 彼を害だなんだと影で嘲っていた人間の批判の矛先が、そのまま羽村香織へと向いた。

 彼が死んだことが、彼女にとって一番の害となってしまっている。

 これでは彼の思いに反するではないか。

 彼を彼女を救うことができるのは私しかいない。

 そう思った。




 翌日、私は田辺と大里を後者裏に呼び出した。


「なんだよ」

「香織さんのことで話がある」

「ほー、お前も人殺しの側につくのか?」


 予想通りの反応だった。だから私も、あらかじめ考えていた台詞をそのまま口にする。


「別に香織さんは人殺しじゃないだろ。まあ、お前らは人殺しになりそうだけど」

「え、は」


 私は訳がわからないといった様子で少し狼狽えた二人にスマートフォンの画面を見せた。

 暴言塗れのノート。

 破かれた体操着。

 黒塗りの机。

 座ると呪われそうな椅子。

 一つ一つ、芸術品でも見せるように、ゆっくりと、二人の目に焼き付くように、見せた。

 もちろん、最後の一枚もそうした。


「なんだよ、その腕」

「香織さんの腕だよ。リスカ跡?って言うのかな。明らかに自傷行為の跡だよね。最近、香織さんの顔色悪いよね。近々死んじゃうかも」


 そうなったら人殺しはどっちだろうねと嫌味っぽく言ってスマートフォンをポケットにしまい、私は二人の顔を見た。

 泣いていた。




 どんなことをしていてもやはり所詮は中学生。ブレーキの効かない乗り物に乗ってしまってさぞ怖かったのだろう。私の用意したブレーキで減速を始めた途端に全員が降りた。今となっては羽村香織を人殺しなどと言う輩は世界のどこにもいない。

 それと、私はこのとき羽村香織の中で英雄になった。誰から漏れたのかはわからないが、羽村香織に私がいじめを止めたことが伝わったのだ。

 翌日から、なぜか私は彼女の意中の人になってしまった。思わぬ副産物、ラッキー……なんて気持ちにはとてもじゃないがなれなかった。彼女の腕の跡が見るに耐えなかったからではなかった。彼女を見ると、私はいつも大輔を思い出すからだった。

 大輔は彼女のことが好きだった。

 彼女のためという思想が強まり一種の信仰と化した果てに、自らの命すら投げ出すほどに。

 その行く末に愛されるのは、私ではない。

 私であってはいけない。いけなかった。




 私の思いとは裏腹に、それからも彼女の思いは私に傾いていった。放課後、中庭に呼び出されたときには鳥肌が立った。周囲の私を見る目から告白されるのかもしれないと感じたことも鳥肌の理由の一つかもしれないが、最大の理由は大輔が中庭に落ちて以来そこに行くことを避けてきたからだった。

 羽村香織は大輔の血の染みたコンクリートを踏みしめて、大輔以外の人間に告白しようとしている。

 怖かった。理由は無いが、とにかく怖かった。

 行くのはやめよう。責められたら、明日謝ればいい。そう思って下駄箱の靴を取り出したとき、大輔とのトーク履歴を思い出した。先日、羽村香織を助けようと思い立ったときに思い出したものと同じものだ。

 そうだ。彼の死が原因で生まれたことが彼女を不幸にしてはいけないのだった。

 告白しようと中庭で待ち構えているかもしれない彼女を置き去りに、私が一人で帰ったらどうだろう。

 不幸だろうな。

 それだと二人とも報われないじゃないか。

 彼を彼女を救うことができるのは私しかいない。

 またしても、そう思った。

 私の学校は中庭を囲うように校舎が建てられているため、中庭は文字通り中の庭だ。とはいっても真ん中に若い木と十数輪の花のある場所を除けば十数メートル四方の中庭は全てコンクリートの地面なので、さして美しいわけではない。ベンチ位は置けばいいのにと思ったことも数度ある。

 そんな中庭の木の下に、彼女は立っていた。

 ほっとしたように笑っていた。

 その後のことはよく覚えていない。

 ただ、その日から私は彼女の「彼氏」になった。




 それから、しょっちゅう周りにからかわれた。とはいってもこういう事を真っ先にやる田辺と大里は私や羽村香織にちょっかいを出すのは流石に気が引けたのか何もしてこなかったので、他のカップルのように酷く迷惑を被った訳ではなかった。

 それに、今思えばそもそも私はカップルという意識さえ碌になかったと思う。

 私はただ大輔の遺志とも呼べない細やかな願いを叶えるために、羽村香織を幸せにする為に付き合っているに過ぎなかった。

 そこに私の想いは無かった。




 年度が変わった頃には羽村香織もすっかり落ち着きを取り戻し元の完璧な彼女に戻ってきていた。とはいってもまだ心のどこかに傷は残っているようで、生徒会長は辞したらしいのだが。

 この頃私は頼りにされている感覚をひしひしと感じていた。

 そろそろ進路を明確に定めないといけない時期に彼女だけ進路に迷っていて書類関係の提出が期限に間に合わず、羽村が間に合わないとは珍しいと言われていた。

 彼女の「高校どこ受ける?」という発言に私がふわふわとした答えしか返さなかったのがその理由だったと知ったのはしばらく後のことだった。

 その証拠に、私が書類に書いた具体的な高校名を教えたらすぐに提出していた。




 彼女は私が第一志望に掲げた公立高校で見事に主席入学を果たした。不合格直前の点数でギリギリの入学だった私とは大違いである。

 ところで、入学式では普通入学者の親も揃って写真を撮影する機会があるものだ。両親共に来る家庭、片方だけ来る家庭。そういうところは家庭によって別れるため、入学式だけでも他所の家庭を少し覗き見ることができる。

 その点に置いて彼女は異質だった。

 どちらも来ていなかったのだ。

 家庭によるだろうと言われてしまえばそこまでであろうが、ある程度彼女の家庭を知っている私からするとかなり違和感を感じるものだった。

 彼女はひとりっ子で両親の夫婦仲も良好という具合で、中学生のころは参観日の度に両親が休みを取るほど彼女のことを気にかけていた。

 そんな二人が、入学式に来ないだろうか。もしかしたら二人揃って風邪を引いているのかもしれない。あるいは、高校生になったのだからと急に極度の放任主義にシフトチェンジしたのかもしれない。

 そう思っていた。

 実際には、そうではなかった。

 彼女がいじめられていた頃から家庭にヒビが入ったのだそうだ。もともといじめる側として学生時代を過ごした両親は娘がいじめられる側になるとは思っても見なかったらしい。それで互いに「お前の教育が悪かったんだ」などと言い出し、いじめの理由も学校に行くのが辛くないかも聞かれることなく夫婦喧嘩が勃発したのだそうだ。そして次第に家庭内の空気は悪くなり夫婦はどちらも仕事に没頭し始め、家では彼女一人になることが多くなったのだという。

 普通それ程仕事をすれば給料も増え娘のために使われる金の量も増えそうなものたが、彼女の小遣いは次第に減り、習い事も全て辞めさせられたらしい。

 そういえば、このころから彼女の弁当は随分と小さくなった。




 彼女は生徒会で何か職につくことはなかった。生徒会に特段トラウマなどがあるわけでも無いだろうに、心の傷というものは何に対するやる気も削いでくる厄介な代物だなと強く思った。まあ、私が知らないだけで彼女は生徒会にトラウマを持っているのかもしれないが。

 そういえば彼女は生徒会の会計だった内村と仲が良かったはずなのに、あの一件以来二人が話しているところを見たことが無い。

 そういうことなのだろうか。




 そんなことをぼんやりと考えているうちに高校生活は終わりを迎えた。私たちは三年間、恋人という関係を継続させた。彼女は、少なくとも私の見る限りは幸せそうであった。私は彼女の幸せを追求、維持し続ける義務がある。

 大輔は、きっといつも私を見ている。

 彼女が幸せそうに笑った日の夜にはいつも決まった夢を見る。大輔が彼女を見て笑っている夢だ。夢の中では、彼女の隣には大輔がいる。

 私と彼女は同じ大学の同じ学部へ進学した。




 就職先まで同じという訳にはいかなかったが、代わりに社会人三年目でプロポーズして結婚した。

 式には多くの人が参列した。

 彼女の友人だけは、想像より少なかったが。




 それからも私は彼女を幸せにすることに自分の全てを捧げた。彼女が愛しくなかっただとか、嫌いだったとは言わないが、このころも私からすれば大した恋愛感情はなかった。

 私を動かしているのは、たった一人の中学生が遺した小さな恋心だった。

 しかしそれを理解しても尚、私は呪縛から抜け出すことができなかった。

 そんな結婚生活ももう十年目に差し掛かろうとしてきたつい先日、私はあることを知った。

 羽村香織……改め、戸崎香織。彼女は浮気をしていた。別に浮気されたことをどうこう言っているのではない。私は彼女を責めているのではない。

 私では彼女が浮気したくなるような環境しか作ることができなかったことを実感し、自分を責めている。

 やはり、私では駄目だった。

 浮気を知った日から、彼女がいくら笑っていても夢の中の大輔が笑わなくなった。

 きっと、空の上の彼も笑っていない。

 私は今になって、生きる理由を失った。




 というところまでが、昨日の私だ。

 それと、こうして自分の人生を整理して初めて気がついたことがある。

 私は、私の全てを大輔に委ねてきていたということだ。私は、彼が浮かばれるためという大義名分を掲げ、それのためだけに私は私の人生を浪費してきた。

 別に悪いことだとは思っていない。後悔もしていない。これが正しい判断なのか、心が疲弊した末に出た鼻で笑われるようなちゃんちゃらおかしな考えなのかは、今の私にはわからないが。




 今日は特別な日だ。

 大輔の命日。

 そんな日に、私は特別なことをした。

 妻の浮気相手の家を訪問したのだ。

 相手は見たところ大学生で、妻では無い女とベットで寝ていた。

 妻から拝借した合鍵で中に入った私は二人を叩き起こし、とっとと女を帰らせた。ナンスカと楯突く男には私が戸崎香織の夫であると伝え、浮気が発覚したので自殺するつもりであると伝えた。

 動揺し始めた男に向かって、


「あの人を幸せにしようとするのは君が三人目だ。その命を捨ててでも幸せにしろ。私と、その前の彼が空の上からいつまでも君を見ている」


 とだけ言って外に出た。

 思い返すと、少し狂気的だったかもしれない。




 気づけば私は勤務先に来ていた。とても思い入れのある場所だ。

 私は職員室から鍵を取って屋上に向かった。屋上はそもそも鍵をかけられていないことを思い出したのは屋上の扉の前で大輔とのことを思い出した後だった。

 まったく、これでこの学校での自殺者は私の知る限りで二人目になってしまう。早いところ、屋上に鍵をかけるべきだ。

 そんなことを考えながら外に出て、何も考えずに中庭へ向かって歩き出した。一歩一歩、歩みを進めるたびに学校での思い出が蘇ってきた。学生としての私も、教師としても私も、ここで終わる。

 いや、そもそも私という自我を持った存在自体がかつてここで大輔の命と共に失われたのかもしれない。そう考えると、飛び降りるのも大して怖くはなくなった。




 飛び降りる直前、私は後ろから声をかけられた。

 振り返ると、あの大学生が立っていた。

 ああ、そういえば教育実習に来ていたっけ。さっきはこちらもそれなりに動揺していたので気が付かなかった。名前は確か……駄目だ、覚えていない。

 男はさっきから何かを語りかけてきているが、何も耳には入ってこなかった。ただきっと自殺は考え直せと語りかけているのだろう。

 なんとなく、それは嬉しかった。

 だから、私は一言だけお礼の言葉を言ってから飛び降りることにした。

 そして、その言葉には彼を今後戸崎香織に縛り付けるための呪いとしての意味も込めた。

 あのときの彼も、同じような気持ちで言ったのだろうか。


「ありがとう」


  私はにこやかに笑って彼に背を向けた。彼がどんな顔をしていたかは覚えていない。ただ、彼が気づいたときには、私は既に駆け出していた。

 ──都会の空へ。




 ふと、意識が現在に戻ってきた。

 なるほど、これが走馬灯か。

 まあせいぜい、死ぬ前に面白いものが見れてラッキーだったと思うことにしよう。

 向こうに言ったら彼に謝らなければならない。

 彼はどんな反応をするだろうか。怒るだろうか。悲しむだろうか。見ていたよと返すだろうか。

 大輔は優しい。きっと許すだろう。

 私はその優しさに甘えたいと思う。




 私は、いまだに赤い染みの消えないコンクリートの上に落ちた。

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「ありがとう」とひたむきな恋 橘谷椎春 @20080925

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