節穴の心眼 第八話

「なあ。さっきからお主、そいつのことをずっと『元カレ』と言っておるが、そいつの名前は分からぬのか?」

 突然氏家が手を突き出して言ってきた。

「いや、一応音緒から聞き出したので知っているけど」

「それならば『元カレ』と言わず、そいつの名前で説明してくれ。言ってしまえばお主もあの女の元カレだから、お主の言う『元カレ』が誰のことを指しているのか紛らわしいのだ」

 言われてみれば確かにその通りである。既に僕も音緒と別れて元カレとなっているから、僕とその人とは同じ立場なのである。

「でも、あんまり名前のある登場人物を増やすと、そっちの方がこんがらがるんじゃないか?」

「そのようなことはあるまい。むしろ名前の方がそれがしは分かりやすい」

「そうか? じゃあそっちで説明するか。その元カレの名前は甘粕あまかすって言うらしい。僕は会ったことないからよく分からないけど」

 すると氏家が何かに気付いたのか、目を少し見開いた。

「甘粕? もしやそいつの下の名前、てつであったりしないか?」

「ああ、確かそんな名前だった気がする。お前、知っているのか?」

「知っておるも何も、それがしは甘粕と二年生で同じクラスだったのだ。あいつは結構ヘラヘラした奴であったが、まさかそのような過去を持っていたとはな……」

 ここに来て意外な情報である。とは言え氏家が甘粕のことを知っていることは、逆に話が通じやすく好都合である。

「へえ、やっぱり普段からヘラヘラしていたんだ。クラスではどんな立場だったんだ?」

 気になったので尋ねてみた。しかし、氏家はかぶりを振った。

「おっと、今はそれがしがお主の話を聞いておる番だ。とりあえずお主の話を終わらせろ。お主から聞き終わったらまたゆっくりと話してやるから」

 こう言われては仕方ない。僕の話も終わりに近づいていることだし、まずはそれを済ませよう。

「……妙に上から目線だな。まあ良い。じゃあ話を進めるぞ」


 ***


 音緒の元カレ……すなわち甘粕は、音緒と別れた後にたまたま音緒と同じ塾に入ったらしい。とは言えクラスが違うので、お互いに話し合う機会も基本的になかった。しかし、甘粕が音緒を塾の廊下で見かけた時に、横にいた武夫に目配せされているのを見かけ、この二人には何やら関係がありそうだと勘付いたらしい。そして、ある日音緒が塾から出て帰路に就こうとしたところを、甘粕がとっ捕まえた。

「お前、あの堂川とかいう男と付き合っているの?」

 開口一番に尋ねられた。

「はあ? あんたになんでそんなことを言わなきゃいけないの」

 音緒は甘粕を恨んでいたため、乱暴に返した。

「お。そう答えるということは、付き合っているということだな」

 そう甘粕が言うので、誤解を与えたくない音緒は本当のことを言った。

「付き合っていないし、そもそもあの人には正式な彼女がいるわよ。あんた、そんなことも知らないの?」

「え、じゃあお前はどういう関係だって言うの? 俺、この前見たよ、あいつにウインクされているところ。絶対何かあるでしょ。俺に教えてよ」

「あんたには関係ないでしょ」

「あっそう。じゃあ皆にバラしちゃおうっかなー、お前らが付き合っていること」

「だから付き合っていないってば」

「いや、だとしたら何なんだって話よ。教えないと返さないからね」

 そう言うと、甘粕は音緒の持っていたスマホを強引に奪い取った。

「あ! 何するのよ!」

「返してほしい? じゃああの男とお前がどんな関係なのか、教えてよ」

 音緒が何か隠しごとをしようとすると、甘粕が音緒の持ち物をひったくって「言うまで返さない」という行動は、二人がまだ付き合っていた時からしょっちゅうやられていたらしい。そのため音緒は、こうなってしまっては、白状するまで本当に持ち物を返してくれなくなってしまうことを知っていた。音緒は諦めて、仕方なくこれまでの経緯を甘粕に吐いた。塾で武夫に会い、春休みに三回電話し、その後猛アピールをされているということを全て話したのである。話を聞き終わった甘粕は満足したのか、音緒にスマホを投げ渡した。

「で、お前はどうしたいの?」

「正直言って、この関係から脱却したい」

 音緒が素直に打ち明けると、甘粕はからからと笑った。

「脱却、ね。それは、堂川と別れるか、いっそのこと堂川の今カノを追い落として堂川と正式に付き合うか、どっちのことさ?」

 答えは自明だろうという雰囲気で甘粕が尋ねてきた。しかし、音緒はしばらくの沈黙の後、こう答えた。

「……分からない。ただ、どっちにしても今の中途半端な関係を続けるのだけはやめたい」

 この音緒の発言が僕にはよく分からない。これだとあれだけ逃げようとしている武夫と付き合っても良いということになる。当然甘粕もそこが引っかかったようで、

「ん? そうか? お前の話を聞く限りだと、お前は堂川のことをひどく気味悪く思っているようだけど」

 と突っ込んだ。

「それは、あいつが彼女いるって自慢するくせに私を恋人扱いしてきたり、『二番目に好きでいてくれ』とか変なことを言ってきたりするのが嫌なだけであって、ちゃんと正式にお付き合いするのであれば、私も受け入れる用意はあるよ」

 音緒はあくまでも毅然きぜんとした態度で説明した。

「ふーん。相変わらずお前も中途半端だね。俺たちが別れた時から変わらないな」

「放っといてよ」

「放っておくわけにはいかないよ。何せ、仮にもお前は俺の元カノだろ? だから、あまりそういう真似まねをしてほしくないってことだ。お前の中で結論が出ないのなら、とりあえず、お前ら別れようぜ」

 甘粕からの突然の提案に、音緒は眉間みけんにしわを寄せた。

「何故あんたに指図されなければいけないの」

「別に良いよ? お前たちのスキャンダル拡散してやっても」

「ちょっと、それは違うじゃない」

「何が違うのさ? 別に俺、このことを誰にも話さないなんて言っていないよね? 俺は話しちゃうよ」

 音緒曰いわく、甘粕はやると言ったら本当に何でもやってしまうタイプの人間らしい。今回も、ここで引き止めないと本気で拡散するだろうと察し、音緒は慌てた。

「それだけは勘弁して」

「じゃあ黙って俺の言う通りにしようか。もしあいつに『何故別れなければならないのか』と聞かれたら、俺のせいにして良いからさ。『別れなければお前らの関係を皆にバラすぞ』って俺が脅してきたということにしておけば良いじゃん」

 こうして音緒は、武夫に「あなたにも彼女がいるし、この関係をやめよう」と通告した。予想通り一度は抵抗されたが、甘粕の助言に従って「元カレにこの関係を知られて、別れないと皆にバラすって言っている」と言うと、渋々承諾してくれた。こうして音緒は武夫と別れ、音緒の日常にまたしばらくの平穏が訪れた。

 しかし、秋が過ぎ冬になると、再び武夫からメッセージが来た。「今ちょっと落ち込んでいるから話したい」とのことである。塾でうわさを聞くと、この頃少しだけ武夫は岸崎さんと喧嘩けんかをしたらしいので、多分それのことだろうと思った。別にそんなところに頭を突っ込まなければ良いのに、何故か音緒はこの状況に興味を持ってしまった。そしてLINEで武夫に事情を尋ねてみた。すると、武夫は「彼女と別れようか迷っている」とか「俺じゃ彼女のことを幸せにはできない」などと、武夫にしてはマイナスな発言をした。そこで音緒は、とりあえず適当に慰めてみた。これで武夫が前を向き直して岸崎さんと仲直りし、再び音緒に頼ってこないようにしようと思ったのである。しかし逆効果だった。音緒に共感してもらった武夫は「こんなに優しく慰めてくれるのは音緒だけだ」などと言って、「やっぱり音緒とはつながっていたい」という流れになってしまった。こうして、別れてから三か月も経たずにまた武夫との関係が元に戻ってしまったのである。

 しかも、今度は前のように「二人で会おう」という遠回しな表現ではなく、直接的な表現で「音緒にとっての最初の男になりたい」という旨をアピールされるようになった。聞けば、岸崎さんとすらそのような話にはなっていないのにも関わらず、音緒にその話を持ち掛けているということらしい。彼女がいるのにさすがにそんなことをするのは駄目でしょと反対するも、武夫は聞く耳を持たない。それどころか「俺の初めての経験をお前に捧げる、だからお前も俺に初めてをささげろ」などと言ってくる。音緒にとっては、それ以前に元カレとやったことがあるから初めてでもないんだけど、と思いながらもそんなことは一切口に出さず、ただ二度と軽々しく行為に及ぶのはごめんだと思っていたので、ひたすら断り続けたのである。

 冬休みに僕と付き合い始め、それが武夫に知られてからは、より一層武夫からのアピールが激しくなった。武夫は僕に「最初の男」の座をとられまいと、以前よりかしてくるようになったのである。その頃になると、夏休みに読んだ断り方のコツの本の知識も段々通用しなくなってきていた。それほどまでに武夫の音緒への執着が激しかったのである。音緒は武夫の魔の手からどのようにして逃げるか、ということばかり考えることになった。今思えば僕との初デート以来、音緒は僕を過剰な頻度でデートに誘ってきたが、これらは武夫と会わないための口実作りに過ぎなかったのだろう。そう思うと、あの幸せな時間は何だったのかと空しくなる。

 しかし、三年生になると状況が一転する。今まで武夫は休日に音緒と二人で会おうとしていた。しかし、休日に誘っても、音緒は僕とのデートの予定を入れてしまうので、それを口実にされて会うことができなかった。そこで武夫は、いっそのこと平日の授業後に会うことを考え始め、音緒が一人で帰る時を見計らって誘い始めたのである。本当は僕と一緒に帰ることができれば、武夫の魔の手から守ることができたかもしれない。しかし、音緒は電車通学であり、自転車通学の僕と一緒に帰れないため、ここで僕を頼ることはできなかったのである。とは言え、電車通学の女友達なら、僕が商店街で会ったアイちゃんがいるから、しばらくは彼女と一緒に帰ることで、武夫が簡単に近づけないようにしていた。こうして武夫が平日に音緒を誘おうとし始めたことにより、音緒は休日に僕とのデートをする必要がなくなった。これが、三年生になってからデートのお誘いが急に途切れた理由である。

 しかし、ある日の午前中、問題が起きた。アイちゃんが授業中に体調を崩し、そのまま早退してしまったのである。これは音緒にとっては一大事だ。一緒に帰る相手がいなくなってしまったのだから。

 さあどうしようとおろおろする音緒。一緒に帰る人がいなければ、その日は一人で帰らなければならない。しかし、一人で帰ることは武夫に捕まるリスクが高まることにつながる。そのため、アイちゃんの代わりに一緒に帰る人を見つける必要があった。もしここで僕を頼ってくれれば何とかなっただろう。事情さえ話してくれれば、僕は自分の自転車を学校に置きっぱなしにしてでも、音緒と一緒に電車に乗っていたと思う。だが、音緒は僕を頼らなかった。こういう時に最も頼るべき恋人を無視したのである。

 しかし、だからと言って一人で帰るわけにもいかず、結局誰かに頼らざるを得ない。そこで音緒が話を持ち掛けたのが、何を血迷ったのか、音緒の元カレの甘粕だったのである。

 昼休みになり、音緒は甘粕にLINEで武夫が本気で自分の体を求めていることを伝え、そしてそこから逃げるために一緒に帰ってほしい旨を伝えた。すると、甘粕はすぐに返事をくれた。

「お前さ、彼氏できたんでしょ? 彼氏がいるくせに、そんな関係を続けているのは違うんじゃない?」

 クズだと思っていた甘粕から正論を言われ、音緒はぐうの音も出なかった。甘粕と以前話した時にはまだ僕と付き合っていなかったため、「浮気をしている」と言えるのはあくまでも武夫だけだった。だが今回は違う。自分にも彼氏ができた今、もはや武夫との関係は浮気以外の何物でもなかった。音緒は自分の今までしてきたことを後悔した。すると、甘粕から立て続けにこんなことを言われた。

「お前と堂川がどんな関係なのか詳しく知りたいから、堂川とのトーク履歴を見せてよ」

 もはやこの状況を打開するには、甘粕の助けを借りる外ない。そう思っていた音緒は、冬休み明けの武夫とのトーク履歴をスクリーンショットに写し、これを甘粕に送った。重要な点に絞って送ったつもりだったが、いざ送ってみるとなかなか膨大な量になり、写真の数は六枚に及んだ。送ってからすぐに既読がついたが、なかなか返信は来ない。きっと読むのに時間がかかっているのだろう。

 そしてかれこれ十五分が経過した頃、待ちに待った着信音が鳴った。果たして甘粕は一緒に帰ってくれることを了承してくれただろうか。ドキドキしながらスマホを手に取った。しかし、スマホのロック画面に表示された通知には、とんでもないことが書かれていた。

「今のやつ、堂川の彼女に送っちゃったもんね」

 甘粕はあろうことか、音緒と武夫のトーク履歴を岸崎さんに送ったというのである。最初、音緒は自分の目を疑った。浮気をしている身分としては、浮気をされている側に浮気を知られるということは、一番あってはならないことだった。それが甘粕の手によって実現されてしまったのである。

 当然音緒は激怒した。怒りのメッセージを甘粕に送り続けた。ねえうそでしょ、どうしてこんなことをしたの、あんた私をだましたわね、と甘粕を責めたが、それらが既読になることはなかった。音緒は、甘粕を責めても意味がないことを悟り、それと同時に自分にこれから降りかかる苦難を想像し、青ざめた。こうなってしまった以上、武夫の彼女である岸崎さんに会ったら何をされるか分からない。音緒は岸崎さんと直接会ったことがないにしても、もし甘粕がトーク履歴とともに音緒の顔写真を岸崎さんに送り付けていたら、既に音緒は相手に顔を知られていることになる。同じ学校にいる者同士だから、岸崎さんが血眼ちまなこになって探さなくても、学校にいるところをとっ捕まえてしまえば済む話である。こうなってしまったら見つかるわけにはいかない、明日から学校を休もうと思った。

 その矢先、突如着信音が鳴った。さては甘粕が何か言ってきたか、と思ったら、見たこともない名前とアイコンの人からだった。羊のイラストのアイコンに、名前は「ようこ」……今最も恐れていた岸崎さんであった。音緒はこれまで岸崎さんとは何のつながりもなかったから、当然LINEの友だちではなかった。しかし、どういうつながりなのか分からないが、甘粕はどうやら岸崎さんと友だちだったらしい。そうなれば、音緒と岸崎さんとの間には、甘粕という共通の友だちがいることになる。そうなれば、甘粕が仲介することによって、岸崎さんは容易に音緒のアカウントを手に入れることができるのだ。こうして音緒の連絡先を突き止めた岸崎さんは、早速音緒に長文メッセージを送ったのである。僕に送ってきたもののように無駄に長い挨拶があった後、このように続いていた。

「先程、ある方からご連絡をいただきました。甘粕鉄夜さんという方です。あなたはこの方と付き合っていたそうですね。かく言う私も、先程まで付き合っていた人がいました。それが、堂川武夫という男です。甘粕さんによれば、あなたは私の彼氏である武夫と浮気していたとのこと。最初は信じられませんでしたが、証拠まで送られてきたので、信じざるを得ませんでした。そして私は武夫に問い詰めてみました。すると、武夫はあろうことか、『あ、バレちゃったか』『それならしょうがない、俺たち別れよう』『俺は今日から音緒と付き合う』などと言い出したのです。こんなにひどい言葉をかけられたことは今まで一度もありませんでした。何しろ私はあなたと違って、武夫とは中学校の頃から付き合っていたのですから、その年月の分だけショックは大きかったのです。

 あなたにこの悲しみが分かりますか? 分からないでしょうね。どうせあなたも、武夫と同じで、私が武夫と別れてくれるおかげで、武夫と正式に付き合うことができる、なんて考えているのでしょうね。でも、そんなことは絶対にさせませんから。私がそんなことを許すわけがありません。何と言っても、こっちにはあなたたちが浮気をしていたことが分かるトーク履歴という決定的な証拠がありますからね。これを私が全世界に拡散してしまえば、あなたたちはもう生きていけないでしょう。そうなりたくなければ、今後二度と武夫と連絡をとらないようにしなさい。あなたたち二人が付き合っていると私が知ったその瞬間、私はインスタグラムにトーク履歴をり付けて、これを全世界にさらすことをここに警告しておきます。

 ちなみに私から隠れてこそこそと武夫と付き合おうとしても無駄ですからね。私の友達にあなたたちと同じ塾に通っている子がいるから、その子に事情を説明してあなたたちを監視するよう頼むつもりです。そのため、塾の中でイチャイチャしていても私にはバレバレだということを把握しておいてください。もちろん学校においても、あなたのクラスにいる私の友達にあなたの動きを確認しておくようお願いするので、あなたたちが何か怪しい動きをしようとしても、私には全て筒抜けになっているということを忘れないでください。

 さて、今後についてですが、まず私に謝っても無駄だということを理解してください。今回の件は謝れば済むという話ではないため、私の前での謝罪は何の意味も伴いません。あなたに謝罪されると、むしろこの件を思い出すことによって、私が封印していた怒りまでもが思い出されることにつながり、怒りが止まらなくなることが予想されます。つまり謝れば謝るほど、私にとってもあなたにとっても損しかないということです。ですから、私のこのメッセージにも何も返信しないでください。もちろん、言い訳など論外です。私はあなたと話したくないのです。だから、もう何も言わないでください。

 最後になりますが、私はあなたのことを生涯許すつもりはありません。あなたさえいなければ、武夫が浮気することもなく、今日という日も平穏のうちに終わったのです。それを全て壊したのはあなたです。あなたの行動が、他人を不幸にしたということ、これをあなたは忘れてはいけません」

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