節穴の心眼 第七話
「あの女、今までの言動からは考えられない態度であったな。今までのお主の話では、もっと良い奴に聞こえたのだが」
氏家が鳥居にもたれかかりながら言う。相変わらず僕の体を目に焼き付けるように僕を凝視しているのが不快だったが、音緒から受けた仕打ちによる不愉快さに比べれば大したものではなかった。話が長くなっているものの、ちゃんとついていけているのだから、そんな細かいところに対して文句を言うべきではないだろう。
「お前もそう思うか。全く、分からないよ。何があいつをそうさせてしまったのか」
デートしていた頃の音緒からは考えられない
「電話したのに分からなかったのか」
「分からない……というより、理解できない、と言った方が正しいかもな」
「まあ、人の考えを理解しようとする方が愚かだ。理解する必要もなかろう」
「そんなものなのかな」
氏家の言う通りなのかもしれない。テレパシーでもない限り人の考えなんて分かるわけがないんだから、理解しようとすること自体が間違いだったりするのかもしれない。こいつも時々核心を突いたことを言うものである。
「で、ここからあの女の過去編が始まるわけであるか」
「ああ。僕の知りたかった経緯が分かったんだ」
***
音緒は中学校の頃から数学が苦手だった。当然高校に入ってからも苦手意識が消えるわけがなく、むしろどんどん授業についていけなくなって、高校最初の定期テストでいきなり赤点をとった。これはまずいということで、音緒は高校の近くにある塾に通うことになった。そして、ここで音緒は武夫と出会ったのである。
とは言え、当然最初から仲が良かったわけではない。音緒が入った頃には既に武夫もいたらしいが、最初はせいぜい廊下ですれ違う時にお互いの存在を認識していた程度だったそうだ。そもそもその塾には数学の先生が三人いたが、武夫を教えていた先生と音緒を教えていた先生は別々だった。そのため、二人が特別に話す機会もなく、仲良くなるきっかけもなかったのであった。それでも音緒は、教室の前で武夫が友達とペラペラ話しているところを聞いていたことがあり、その時によく友達に「彼女がいる」という自慢をしていたらしい。その彼女とは間違いなく岸崎さんのことだろう。実際、これは「中学校時代から付き合っていた」という岸崎さんの証言とも合うので、さすがに嘘ではなさそうである。
さて、音緒にとって転機となったのはこの年の十月のことである。四月から始まる年度の折り返し地点にして、上半期と下半期の境目ということで、この時期は何かと会社での人事が変わったりする。そしてこの塾でもそのような配置変換が起こり、それまで音緒を担当していた先生が別の校舎に異動になった。だからと言って音緒まで校舎が変わるということはなく、音緒は同じ校舎の別の先生が担当することになった。そしてそのクラスにいたのが武夫だったのである。
同じクラスになったその日に、音緒は早速武夫に、
「もしかして、緑村高校の人ですか?」
と尋ねられた。
「はい。一年一組の筋田音緒と言います」
音緒は武夫を高校で見かけたことがあったので、特に怪しいとも思わず普通に答えた。
「俺は一年四組の堂川武夫です。まあよろしく」
ここまでは当たり障りのない会話である。男女という性別の違いこそあるが、塾で同じクラスになった者同士、なおかつ高校までもが一緒なのだから、これくらいの
「早速ですがLINEを交換しませんか?」
「え?」
この一言に、さすがの音緒も警戒心を抱いた。初めて話してから三十秒も経っていないのに、連絡先を交換しようとされれば、裏があるのではと疑ってしまうのも当然である。
「ちょっと誤解を招くような言い方でしたね、ごめんなさい」
音緒の
「実は、この塾にはうちの高校の人が結構いまして、皆で集まってLINEグループを作っているんです。まあ、塾の課題の解き方を教え合ったり、高校のテストの過去問を共有したりと、何かと便利なんですよ。もしよろしければ、俺を友だち追加してくれれば、そのグループに招待します、という意味でお誘いさせていただきました。言葉足らずですみませんでした。いかがでしょう、グループに入りませんか?」
なるほど、そういうことなら良いだろう。テストの過去問が手に入るところは貴重である。僕でもそのグループに入るだろう。数学のできなかった音緒も、当然のように加入した。ここにおいて、二人はLINEを交換したのである。
とは言え、その時の二人は出会いたてであり、特に話すことはない。しばらくLINEでのトークのない日々が続いた。塾で直接会ったとしても、本当に用事がある時にしか話すことがなく、話した時もお互い敬語だったため、この頃はまだ事務的な付き合いに過ぎなかった。その背景に、当時武夫が岸崎さんと付き合っていたのはもちろん、音緒も嫌々ながら例の元カレと付き合っていたわけだから、それぞれが相手を持っていたということで、お互い軽々しく異性に話しかけづらいということもあったのだろう。
しかし、初めて話した時から半年経った一年生の春休みに、二人は急接近することになる。わずか二週間程度の春休みの間に、音緒は武夫と三度も電話をしたのである。
最初に電話したのは、春休み初日のことである。まず、武夫の方から、「二年生になってからの塾についてちょっと話したいことがあるから、今日明日あたり電話できない?」とメッセージが送られてきた。これを受けた音緒は、何を話すことがあるのだろうと疑問に思ったが、塾のことなら重要なことだろうと思い、その日のうちに電話に応じることにした。すると、どうやら今度の四月からまた先生の人事異動があるらしくて、現在音緒たちを担当している先生がいなくなり、二年生から別の先生に変わるということらしいので、今までお世話になった先生へ、お礼に何か渡したいとの旨だった。この話を聞く前の音緒は、武夫が他意あって自分に電話してきたのかもしれないと疑っていたため、電話の目的が至極まっとうだったことに安堵した。そして音緒は先生へのプレゼントに賛同し、何をあげるかを考えることになった。武夫によれば、一応他の人からは花束とか色紙などをあげることが候補として挙がっていたが、その他にもアイデアがあったら教えてほしいと言われた。しかし、プレゼントの案など急に思い浮かぶわけがなく、いつまで経ってもお互いに「何が良いんだろうね」と言い合うことしかできなかった。結局いつの間にか話が脱線し、最終的にはただの雑談になっていた。これでは
するとその三日後、再び武夫から「結局何も思いついていないけど、話したら何か良いアイデアが思い浮かぶかもしれないし、とりあえず電話しよう」とお誘いがあった。この時音緒も部活で忙しく、プレゼントのことをろくに考えていなかったので、何のアイデアも持っていなかった。何も案がない者同士が話しても意味ないだろうと思いながらも音緒は電話に出た。すると、音緒が思った通り、この日も大した案は出てこず、結局前回と同じように雑談が始まった。雑談と言っても、基本的には武夫が一方的に話すのを音緒が聞き続けるというもので、とりとめのない話題に終始したが、冗談好きの武夫の冗談をずっと聞かされる羽目になった。武夫の冗談も、半分は素直に面白かったものの、もう半分は何が面白いのか分からず、あまり笑えなかった。それでも武夫は自分の冗談は誰よりも面白いと本気で思い込んでいるらしいので、音緒もその場の雰囲気に流されて、電話越しに笑っているふりだけしておいた。しかし、音緒が愛想笑いをしているだけということが電話越しに武夫にバレたのか、武夫に「あれ?俺の話、もう飽きた?」と尋ねられた。さすがにここで「はい、そうです」などとは言えず、音緒は
しかし、その一週間後にまた武夫から電話しようと言われた。音緒としては、前回の電話で下心に気付いたし、一人の男子、しかもつい一か月前まで大して話したことのなかった人と春休み中に三回も電話するのはいくら何でも多すぎやしないかと思い、一度は断ろうかと思った。だが、ここが音緒のよく分からないところで、その日はどうせ予定もなかったし、ちょうど誰かと話してみたかったタイミングだったという理由で、暇つぶしに話してみることにしたのである。武夫に
電話に出ると、「別に今日は塾のこととは関係ないんだけどね」と切り出され、「やっぱり音緒と話すの楽しいから、何となく呼びだしてみた」と言われた。やはり僕が思った通りであった。音緒はこの武夫の言葉に対し「何それ」と笑っておいたが、武夫が何だか面倒くさい奴だと気付き、通話開始一分も経たずに電話に出たことを後悔し始めた。こんなことは電話をする前から想像つかないものなのだろうか。
さて、今度の電話もこれまで通り武夫のワンマンショーである。武夫が音緒の気を引こうと思ってか、ひたすら自分の武勇伝を語り続ける。そして合間合間にはセンスのない冗談が挟まり、その度に適当に笑わなければならず、音緒にとってはまさに地獄のような時間が流れていった。
自分の武勇伝が一段落すると、武夫は音緒の話題を始めた。どれも音緒を褒める内容で、「俺の話をこんなに聞いてくれるなんて、音緒は優しいね」だとか「お前が塾で同じクラスになってから、お前の勉強へのひた向きさに心打たれて、俺も勉強する意欲が
こうなってしまうと、音緒も警戒心を強めざるを得なかった。音緒を褒めるという話の流れで、これまで
「音緒、よく聞いてほしい。知っているかもしれないけど、俺には彼女がいる」
その声がどこか震えているように聞こえた。だが、音緒はまだこの続きを予想できなかった。ひとまず相槌だけしておくと、武夫は意を決したかのように音緒への気持ちを述べ始めた。
「だけど、こうして音緒と話してみて気付いたんだ。音緒がすごく良い人だってことを。だから、音緒のことがどうしても捨てがたくなってしまった。もちろん、俺にとっては今の彼女のことが一番大切だ。でも、音緒のことも、彼女に劣らないほど大事だと思っている。そういうわけなので、俺はこれから音緒のことを、世界で二番目に好きでいることにする。だから、音緒も俺のことを、世界で二番目に好きでいてくれ。なんか変なことを言っているって自分でも分かっているけど、俺たちの気持ちが平等に通じ合うには、これしかないと思うんだ。だから、音緒には俺より上に好きな人を二人以上作らないでほしい。これが俺からの、一生のお願いだ」
これまでの人生で、僕はこれほどまでに突っ込みどころの多いセリフを聞いたことがなかった。この文章から、武夫の狂気が
その日から二人のLINEでのやり取りが増えた。最初は朝と夜の挨拶だけだったが、そのうち学校に着いただとか、家に帰っただとかと、まるでイチャイチャカップルかのようなやり取りもしてくるようになった。面倒くさかったり、ただ単に通知に気付かなかったりして反応しなければ、その度に武夫から「返事くれよー」などとうるさく催促してくる。仕方なく反応してあげて、黙らせようとすると、逆に調子に乗って「こんなことしてくれるのは音緒だけだ」などと言う始末。音緒が電話で語ったところによれば、武夫が返事をしろと言ったから返信しただけであって、音緒は武夫のためを思っているわけでは全くない、などと腹の中で思っていたようだが、遠慮がちな音緒はそれを直接武夫に伝えることはできず、強く言い返せない状況が続いた。
そしてそんな音緒の性格に乗じて、武夫の思い込みはどんどんエスカレートしていき、ついには変なルールまで作られた。それが「絶対にお互い『好き』と言ってはいけない」という意味の分からないもので、それを聞いた音緒は心の中では
もちろん音緒もこの矛盾には気付いていた。しかし、これも武夫に直接言うことはできなかった。こうした音緒の消極的な態度が、ますます武夫の自分勝手な態度を助長する結果につながった。
夏休みになると、武夫からの攻勢も激しくなってきた。LINEでの会話に満足できなくなったのか、「二人で会おう」と言われたのである。この時はまだ武夫は直接的な表現をしなかったが、音緒はその意図を読んだ。二人で会うとはつまり、例の元カレとやったことと同じようなことを要求される可能性が高いのである。それを証明するかのように、武夫からは会えるか、会えないか、どっちなんだ、などとしつこく聞いてくる。
とりあえず部活が忙しいので会えないという言い訳をずっと使い続けたが、この理由がずっと通用するとは限らない。心配になった音緒は、断り方のバリエーションを増やそうとした。そこで読んだのが、僕が図書委員の時に図書室で借りた『頼みごとを断れない人に贈る 断り方のコツ』であった。これはかなり有効だった。音緒は、まさに頼みごとを断れない性格の人間で、「断る」ということが苦手であった。それが災いして、元カレの時は押しに負けて行為に及んでしまったのである。だが、この本を読んだことで、音緒は様々な断り方を身につけた。そのおかげで、何とか武夫にはやられずに夏休みを終えることができたのである。
それでも塾に行けば武夫と顔を合わせることになる。武夫に岸崎さんという彼女がいることは、塾仲間では周知の事実となっていたため、武夫が表立って音緒にLINE内のような話を持ち掛けることはなかったが、それでも周りの人にはバレない程度にアイコンタクトをしてきたりした。毎度のように、飢えた獣のような顔でアピールしてくるものだから、気持ち悪いったらありゃしない。そのうち音緒は塾に行くのが嫌になっていた。幸い音緒は学校では武夫と遠く離れた教室にいたので、塾さえやめれば武夫と会う機会はなくなっただろう。そう思い、音緒は何度か親に塾を変えてほしいと頼んだ。
しかし、親は聞く耳を持たない。音緒は塾のおかげで数学で何とか赤点を回避していたのに、ここでやめたら数学の成績がどうなるか分からないではないか、という正論を言われてはどうにも反論できなかった。一度だけ「塾の友達が気持ち悪い」と、本当のことを打ち明けてみたが、結果は同じだった。友達など知ったことではない、お前の成績の方が大事だ、などと言われて一向に話が進まなかった。
こうして親を説得できなかった音緒には、塾をやめるという選択肢すら与えられていなかったのである。音緒は、まさに逃げ場のないところまで追い詰められていた。
しかし、この様子を鋭敏に
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