節穴の心眼 第六話
ここまで話して、現実に戻る。先程まで日があたっていた僕らのいる場所も、既に日陰になっていた。
「で、デートの日を楽しみに待っておったら、浮気の事実を叩きつけられて、現在に至るわけであるか」
「その通り。あんまりだ、こんな仕打ち」
「確かにな。もしそれがしがこんな目に遭ったら、発狂するかもしれぬ。よく正気を保てたものだ」
「いや、発狂していた方が良かったかもしれない。狂いまくって全部発散しておけば、こんなにモヤモヤせずに済んでいた」
「まあそれもそうか」
もう氏家はかさぶたをめくるのをやめている。めくれるだけのかさぶたがなくなったのである。
「……待て。モヤモヤと言えば、それがしもまだ聞いておらぬことがある」
氏家がかさぶたの剥がれた左手で僕を指した。
「ん? 何か気になることがあるのか?」
「うむ。ほら、お主が最初の方に浮気相手同士のトーク履歴を見た時『違和感が残った』とか言っておった奴だ」
そういえば言っていなかった。後で説明しようとして、すっかり忘れていた。
「ああ、あれか。まあ読んでいる当時は気付かなかったが、音緒からの返信を待っている間に、その正体が分かったんだ」
「ほう、それは一体?」
これに気付いた時、僕は意味が分からなくなってモヤモヤした。折角話を聞いてもらっているのだから、氏家にもモヤモヤしてもらおう。
「それは、どうして
「……ん? どういうことだ?」
氏家が首を傾げた。まあ予想通りの反応だ。僕だって時間をかけてようやく気付いたんだから。僕は説明を続ける。
「だって、このトーク履歴は岸崎さんが手に入れたものだろ?」
「うむ、そうであるな」
「でも、岸崎さんが音緒からトーク履歴を流出させるって、おかしくないか?」
まさに僕が気になったのはそこである。考えてみれば、岸崎さんが音緒のトーク履歴を持っていたことは不自然だったのである。だが、氏家はまだピンとこない様子で、「……すまん、もう少し詳しく説明してくれぬか」と尋ねてきた。
「そうだな……例えば、もし岸崎さんが僕に送ってきたのが
「まあ確かにそうだ」
「しかし、岸崎さんが実際に入手したのは音緒のトーク履歴だった。だがここで一つ思い出してほしい。岸崎さんは音緒と面識がないと僕に明かしているんだ。ということは、下手をすると岸崎さんは音緒の顔すら知らない可能性もある。そんな顔もよく分からない音緒から、岸崎さんはどうやってトーク履歴を入手できたんだと思う?」
「……あ」
どうやら氏家も気付いたようである。三度ほど瞬いて、僕の顔を見つめた。そしてまた首を傾げた。
「なるほど……理解した。確かに言われてみればおかしいな」
「そう、これが違和感の正体だったんだ」
うーん、と
「……駄目だ。考えても分からぬ。答えを教えてくれぬか。と言うかそもそも答えは分かっておるのか」
「ああ、分かっている。あの後音緒と電話して解決したんだ。それを教えてやろう」
***
返事が来ないまま週末を迎えた。その間音緒は登校していない。毎朝下駄箱で確認していたが、音緒を見かけることは一度もなかった。時々LINEのトークを見ても、一向に既読にはならなかった。そろそろLINE以外の方法で連絡をとらなければならないかもしれない、と思っていた矢先に、突然音緒からメッセージが送られてきた。
「返信遅れてごめんなさい! これまでの事情を説明したいから、電話しても良いですか?」
まず、音緒が無事であることを知り、とりあえず安堵した。浮気をしている、していないに関わらず、何日も連絡がとれない音緒のことを心配していたのである。
しかし、それと同時にこのメッセージはまた僕を悩ませることになった。音緒の意図が全く読めないのである。僕に浮気の事実を知られていると分かっていて開き直っているのか、それともそうとは知らずに本当にここ数日休んだことについての理由を語るつもりなのか、どちらもあり得たのである。音緒が何をしたいのか分からなかった。
でも答えは一つである。話をしないことには始まらないのだ。僕は何事もなかったかのように承諾した。
指定された時刻の五分前に「こっちは準備できているので、いつでも電話かけてきて良いよ」と送った。その二分後に既読がつき、「かけます」とメッセージがあった後、電話がかかってきた。すぐにチェックボタンを押して応答する。
「もしもし?」
なるべくいつもと変わらない口調を出そうとした。
「あ……順大。えっと、今までLINE読めなくてごめんね」
「いえいえ」早速本題に踏み込むことにした。「それで、今日はどんな話を?」
「えっと……何から話したら良いんだろう」
一応この電話の名目は、音緒がここ数日間登校できていなかった事情を説明することである。別にLINEで話しても良いだろうが、長くなりすぎて「岸崎メッセージ」のようになるのも良くないということで、わざわざ電話しているのである。つまり今からの話は長くなる可能性が高いのである。何から話そうか迷ってもおかしくはない。
「あの……突然こんなことを言うのはアレなんだけど」
しばしの沈黙の後、音緒が意を決したように口を開いた。
「順大には、私よりも良い人がいると思うから、その、つまり……」
……あれ? この流れってもしかして……と思っていたら、予想通りの展開になった。
「……私たち、別れましょう」
お前が言うセリフじゃねえよ、と思わず言いそうになった口を押しとどめる。浮気していた方から別れを告げるのは筋が違うだろう。とは思ったが、とりあえず黙っておくことにした。
どうも音緒は浮気の事実をまだ僕に知られていないと思い込んでいるらしい。それならば、こちらも知らないふりをしながら話を聞いた方が有利なのではないだろうか。そう考え、僕は何も知らないという
「ほう、これまたどうして?」
とりあえず、当たり障りのない質問をしてみた。しかし、思いもよらない返答をされた。
「……驚かないの?」
しまった。言われてみれば、確かにここは普通なら驚く場面である。仮にも今まで仲良くやってきたのに、突然別れを切り出されて驚かない方がおかしい。僕は反応が薄い人間だとは思っているが、だとしてもこの状況でその受け答えは不自然だった。まずい、これで簡単にバレては聞きたいことも聞けなくなる。
「いや、状況が呑み込めていないから驚くことすらできない」
我ながら何とも微妙な返事だ。だが、もう後戻りはできない。これで押し通すしかないのだ。
「まあ、それもそうよね」
何とかバレずに済んだようである。やはり芝居は難しい。しかし、さっきから妙に音緒の態度が上から目線に思えて段々腹が立ってきた。あんなことをしたくせに、よくそんな偉そうに話せるものだ。ふと気付いたら、いつの間にか貧乏揺すりをしていた。そうでもしなければこの怒りは発散できないのだ。電話なので当然相手に見られることはないが、このことは自分の感情を隠す上では好都合だった。なるべく怒りの感情を押し殺して、僕は尋ねる。
「とりあえず、こうなった経緯を詳しく教えて」
「もちろん。理由だけは言わなくちゃね」
僕が音緒と話したかったのは、どうして音緒が浮気をしたのか、そこまでの事情を知りたかったからである。さあ、いよいよその謎が解けるぞ、と思って僕はワクワクしてきた。
「実は私、県外の大学を志望することにしたの」
予想外の話の切り出し方に驚く。ん? 何の話だ? と思っていると、さらに続く。
「その大学の研究室がすごいから、私、そこを受けたいの。でも、ここから結構離れているし、下宿することになるから、私たちは離ればなれになると思うの」
音緒の言いたいことが分かった。こいつは嘘を
「まあ離れても遠距離恋愛という形もあるのかもしれないけど、やっぱりたまにしか会えなくなるし、お互いにとって良くないと思うの。だから……別れましょう」
とりあえず音緒の話が終わったみたいなので、僕は口を開いた。
「……本当は?」
「え?」
「え、じゃねえよ。誰がそんな嘘を信じると思ったんだよ。本当の理由を言ってほしい」
若干言葉が汚くなったな、と思った。自分としてはなるべく穏やかに言ったつもりなのだが、どうしても本心が言葉尻に表れてくるようである。あまり怒りを前面に出すと、聞きたかったことを聞けずに終わってしまうかもしれない。
「……うん、さすが順大だね。今のは嘘です。これから本当のことを言います」
これを聞いて少しほっとした。もしここで音緒が頑なにこの嘘を貫き続けてしまっていたら、話が一生続かないところであった。さて、今度こそ話を聞かせてもらおうではないか。
「実は、親に順大と付き合っていることを話したの」
……嫌な予感がした。
「そうしたら、うちのお父さんに『お前に恋愛はまだ早い!』って怒られちゃったの。どんなに順大が良い人かを教えてあげても一向に聞く耳を持ってくれなくて。それで……」
何が「恋愛はまだ早い!」だ。高校生にもなってそんなことを言う親がいるとは思えない。もうこれも嘘である。
「良い加減にしてくれ」
さすがの僕も、これ以上はくだらない嘘を聞けなかった。
「いつまで白を切るつもりだ。それで僕を騙せるとでも思ったのか。早く真実を言え」
さっきよりも言葉が荒っぽくなったことに気付く。もっと穏やかに言うべきなのだろうが、自分でも制御できなくなってきていた。それほどまでに、この時の僕はイライラしていた。貧乏揺すりもさっきよりも激しくなっていた。
「ごめんなさい、もう嘘は言いません」
謝れば良いってものでもないだろう。本当に反省する気持ちがあるのなら態度で示せ。ちゃんと本当のことを話すのだ。
「実は、私の家に泥棒が入って……」
机をぶっ叩いた。この女、二度のみならず、三度も嘘を吐こうとしている。
「おい」
僕のどこからそんな音が出たのかというくらいのドスの効いた声が出た。僕は完全にブチ切れていた。
「な、何よ急に、びっくりするじゃない」
スマホ越しの声が震えていた。どうやら
「僕はな、知っているんだよ。お前が武夫と浮気していたことくらい」
「え?」
何がえ? じゃボケ。知らないとでも思っていたのか。
「もしかして……全部気付いていた?」
音緒が、さっきの
「お前が休み始める前の日の夜に知った」
もう隠す必要もないので、情報の出どころも教えてやることにした。
「岸崎さんが……武夫の彼女さんが教えてくれた」
「そう、だったの……」
今まで浮気をしていたくせに、こういうところは考えが甘い。それだけ音緒は僕のことを、浮気に気付かない程度の馬鹿だと思っていたのだろう。そう考えると余計に腹が立ってくる。そこに追い打ちをかけるように、音緒のため息が聞こえた。
「まあそういうことです。もう私には、あなたと付き合う資格はありません」
うるせえ、馬鹿。何を開き直っているのだ。良いようにまとめるんじゃない。
怒りが沸々と湧き上がるのを感じるが、ここは我慢だ。こうなった経緯を聞き出さなければならない。ぐっと奥歯をかみしめて怒りを抑え、なるべく冷静になってから尋ねる。
「別れる前に教えてほしい……どうしてこんなことになったのか」
「……バレてしまったら隠す必要もありません。あなたには全てお教えします」
そして音緒は自分の過去を語り始めた。
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