節穴の心眼 第五話

「なんで忘れてしまうのだ。ここが一番面白いところなのに」

 氏家は腕を組んでしかめっ面をした。

「すまん、本当に思い出せないんだよ。あの時は人生で一番緊張したんだから」

「全く、つまらぬな。それがしは告白経験がないから、お主のを参考にしようと思ったのに」

 この発言は意外だった。日頃の行いを見る限り、氏家は女子に全く興味がなさそうだったから、そんなことを考えているとは思わなかったのである。それにしても、氏家のようなよく分からない男子に狙われている人がいると考えると、その狙われている人が若干可哀そうな気がした。

「へえ、お前も誰かのことが好きだったのか。ちなみに誰が好きなんだ?」

 そう言うと、氏家は少し顔を赤らめ、一瞬だけ片目を閉じた。

「ケケケ、教えてほしいか? まあお主になら言わないことはない。だが、まずはお主の話を終わらせてからだ」

「ちっ、相変わらずケチな奴だな」

「ケチではなかろう。お主の話、ようやく彼女ができたところで止まっておるのだぞ。そこからの展開が気になるのは当たり前であろう」

 こう言われてしまえば反論できない。氏家の恋愛事情も気になるが、まずは自分の話を処理することが先決である。

「それもそうか。じゃあ続きを教えよう」


 ***


 さて、音緒が恋人になったとは言え、今までそのような経験がなかったので、何をすれば良いのか分からなかった。とりあえず、告白した次の朝に、早速LINEで「おはよう!」と送ってみた。朝の挨拶くらいした方が良いのかなと思ってのことだった。しかし、五分経ち、十分経ったが、返信が来ない。そのまま三十分、一時間と待ってみても、一向に既読にならない。さらに時は過ぎ、気付けば午後になり、おやつの時間になり、そう思っているうちに日も暮れてきた。だが、その間僕のスマホは一度も鳴らなかった。さすがに僕も心配になってきた。昨日話したことは全部夢だったのか? とソワソワし始めた頃に、ようやく返信が来た。既に夜になっていて、「おはよー《時差ボケ》」「ごめん、今日何も予定がなかったからずっと寝てた笑笑」と言われた。最終的に会話は成り立ったとは言え、それまでに何時間も未読スルー状態になっていたのである。恋人同士のLINEって、こんな感じなのだろうかと思い、若干の物足りなさを覚えた。

 その後も何度か会話を試みた。一応恋人になったのだから、相応のやり取りをしたかった。しかし、どれだけ早くても三時間は経たないと返信が来ないという状況が続いた。告白の電話のお誘いをした時にはすぐに返信が来たので、決してスマホに反応できないわけではないはずだっただけに、この返信の遅さが何を意味しているのか分からなかった。そして大晦日の日も、特に何の話題が出ることもなく、お互いに「良いお年を」という形式的な挨拶を交わしただけでその年は終わった。

 年が明けた。当然僕は「明けましておめでとうございます」と新年の挨拶を送った。すると、珍しく二、三分後に「今年もよろしくね!」と返事が来た。この勢いで、何か別の話題を振ってみようと考えていたら、直後に向こうから「ヤバい、このままだと数学の宿題終わらない笑笑」と送られてきた。そして立て続けに「分からないところ教えてほしい!」と頼まれた。僕は複雑な気分になった。確かにこうして音緒に頼られることは僕の望んでいたことである。でも、数学について頼られるのは、もはや今までの学校生活と同じなのだ。数学を教えることは、これまでやってきた通り、恋人でなくてもできることである。そうではなくて、僕はデートのような、恋人ならではのことをやってみたかった。数学を教えるだけなら、わざわざ恋人になる必要もないはずなのである。

 その時、僕はある疑念が湧いてきた。もしかして、音緒は僕を数学で利用するためだけに僕と付き合っているのではなかろうか? 音緒にとっての僕は、まあまあ量の多い冬休みの数学の課題を終わらせるための道具に過ぎないのではなかろうか? そのような疑いが生じて、僕は数学を引き受けるのを断ろうかと迷った。もし音緒がそんな下心を持っていたら、もはや教えるのが馬鹿馬鹿しくなってくる。数学を教えてもらうためだけに僕と恋人になり、それが終わったらすぐにお払い箱、などという考えの者に、誰が数学を教えようと思うだろうか。

 しかし、それでも僕は引き受けることにした。音緒はそんな人の心がない人間ではない。そう信じたからこそ僕は告白したのである。その信頼に懸けたのである。そして、その日から早速、僕の書いた数学の解答を写真に収めて音緒に送る日々が始まった。音緒が僕の書いたことを理解できなければ、その点を重点的に解説したメッセージを送る。その度に「ありがとう!」と返されたので嬉しかった。しかし、どう頑張っても結局今まで学校でやってきたことと同じようなことの繰り返しで、僕の抱いていた心配は拭いきれなかった。

 そうこうしているうちに冬休みが終わった。僕がいつも通り登校すると、下駄箱で音緒を見つけた。最後に音緒に会ったのはクリスマスイブの日で、その時はまだ告白していなかったから、恋人になってからは初めて音緒と直接会うことになる。なおも音緒のことを少し疑っているとは言え、彼女を見つけたからには無視するわけにもいかないので、僕は「おはよう」と声をかけてみた。すると、音緒が振り返り、その途端笑顔になった。

「おはよう順大!」

 ここで僕はどこか違和感を覚えた。その要因が、今まで「四賀君」呼びだったのが、急に「順大」呼びに変わったからだと気付くまでに大して時間はかからなかった。

「やっぱり今まで苗字で呼んでいたけど、これからは下の名前で呼ばないとね! だから、順大も私のこと、音緒って呼んでね!」

 新年早々やたら音緒の声が大きかったので、周りの人々が僕たちの方を見てきた。

「ちょ、そんなに大きい声で言わないでよ、恥ずかしい……皆に見られてるってば」

「良いじゃん! だって、私たち付き合っているんだもん!」

 それを近くで聞いていたうちのクラスの男子連中が「え、マジで?」「順大って付き合っていたのか?」などと騒ぎだし、あっという間に僕の周りを取り囲んできた。「なあ、今の本当か?」「え、お前が筋田さんと?」などと、まるで報道陣の問いかけのように次々と聞いてくる。これは厄介なことになった。まあまあ、と言葉を濁しながら僕は教室に急ぐ。嫌な予感がしながら行ってみると、果たして教室に入った瞬間、僕を囲んでいた男子連中の一人が「速報! 順大が筋田さんを射止めたぞ!」と言ったのを皮切りに、既に教室にいた男子からは「ヒューヒュー」の嵐、女子同士では小さい声で「あいつ付き合ったらしいよ」みたいな会話をしながら好奇の目でこちらを見てくる。恥ずかしいったらありゃしない。後ろからついてきた音緒を見ると、どうやら僕と同じことを思っているようで、真っ赤に染まった顔を手で覆い隠していた。その日は一日中、教室の中での目線が絶えなかったように思えた。

 始業式が終わり、他のクラスメートが教室を出て行った後に、僕は音緒と二人きりで話した。

「あの……さっきはごめんね。私、初めて順大を下の名前で呼ぶことができたのが嬉しくて、それで興奮しちゃって……」

 僕は「もう過ぎたことだし、もう気にしていないよ」と返した。

「私、順大には本当に感謝しているの。順大のおかげで宿題を終わらせることができたからね。答えを丸写しせずに提出できるのはこれが初めてなんだ。ありがとう、順大」

 そう言われ、僕は今まで音緒に疑念を抱いていた自分を恥じた。何がお払い箱だ。今の音緒の言葉を聞いたか。こんな健気な子がそんなことを考えるわけがないだろう。やはり僕がしてきたことは正しかったのだ。

「なんか、一方的に私だけ頼みごとしちゃってごめんね。もし良かったら、私も順大の頼みごとを聞くよ」

 この言葉から確信した。音緒は決して僕を利用するために付き合ったのではない。純粋に僕に好意を持っているから付き合っているのだと。そうでなければ、自分から相手の頼みを引き受けようとする姿勢など見せるわけがない。そうと来れば、僕も音緒の気持ちに応えなければなるまい。お言葉に甘えて、僕はこの時唯一抱いていた希望を言った。

「あの……今度デートに行かない?」

 やっぱり恋人なんだからさ、と続けようとした僕を遮って、音緒は即答した。

「当たり前でしょ! 行こう行こう!」

 僕は嬉しい以上に安心した。正直言って、返事を聞くまでまだどこかに音緒を疑っている自分がいたのだ。これでようやく本格的に恋人同士の関係を味わえるだろう。

「どこへ行く? 一応僕は行きたい場所があるんだけど」

「あ、私も行きたいところがあるの! じゃあさ、今からお互いがどこに行きたいかを紙に書いて、見せ合おうよ!」

 僕はルーズリーフを取り出し、それを半分に破って片方を音緒に渡した。僕は、最初のデートの場所としてこれ以上に相応しいところはないだろうという場所を書いた。二人とも書き終わったら、「せーの」の掛け声に合わせて見せた。二人とも「商店街」と書いていた。顔を見合わせて笑った。


 デート当日、僕たちは商店街で待ち合わせた。とは言え、この商店街に何があるのかあまり把握していなかったため、行く店はほとんど音緒に任せることにした。そんな音緒に連れられて、様々な店を見て回った。正直自分の興味のあるものはほとんどなかったが、だからと言ってつまらないかと言われればそうではない。元々デートとはそんなものだろうと思っていたし、何よりも音緒が楽しむ姿を見ているだけで充分満足だった。だから音緒に「ごめんね、私の見たいものばかりに付き合わせちゃって」と何度か謝られたが、その度に「気にしないで良いよ。僕もこうやって見て回るの楽しいから」と返していた。

 一応僕も、美味しそうないちご大福が売っていたのでそれを買って食べてはいたが、折角の初めてのデートだし、何か形に残るようなものを買いたいと思っていた。そのことを音緒に話すと、「じゃあ、ここ行こうよ!」と指した。その先にあったのは、プリクラ専門店だった。

「順大と一緒に撮りたいと思っていたんだよ! それに、これなら形に残るでしょ?」

 まあ確かに写真なら二人でデートしたことが分かりやすく残る。しかし、どうしてわざわざ自分の顔をデコレーションしなければならないのかよく分からなかった。まあプリクラは女性向けのものがほとんどだし、女性のことを分かっていない僕には理解できないものなのだろう。とは言え、僕と音緒がデートに行ったという事実が分かる記録が手に入る貴重な機会だし、何よりも音緒が行きたいと言うのだから、これはもう行くしかない。

 もちろんプリクラの店に行くのは初めてである。その入り口に「男性のみで入店するのはご遠慮ください」と書いてあるぐらいだから、今まで女子と一緒に遊びに行ったことのない僕に縁がなかったことは容易に想像できるだろう。店内には何台ものプリクラがあったが、その中でも一番入り口に近いプリクラに入った。お金は全部音緒が払ってくれた。

 手筈が分からずグダグダしながら入ったプリクラの中で、僕たちは色んな写真を撮った。普通にピースをして撮ったり、指でハートを作って撮ったり、人差し指を顎につけて撮ったり……と、その他よく分からないポーズをいくつもさせられた。撮った後には機械でその写真を自由に加工することもできる。この時に目を大きくしたり、唇を赤くしたり、背景にスタンプや文字を入れてデコレーションしたりするのだ。僕の本来の目的は、この写真を残して二人のデートの記録とすることだったが、キャッキャッと楽しそうに写真を加工している音緒を見て、記録に残すだけでなく、こうして今を楽しむことも大切であるということに気付かされた。それと同時に、それこそがプリクラの真の価値であって、記録を残す以上に大事なことなんだと実感した。

 プリクラを後にした僕たちは、近くの公園で休憩することにした。ちょうど良い具合にベンチが置いてあり、二人並んで座った。公園のベンチと言えば、恋愛シチュエーションとしては最適の舞台である。僕はそのあたりをよく心得ていなかったため、ここで何かしらのアクションを起こすべきか迷った。さすがにデート一回目でキスとかハグとかに踏み込んで良いものか分からなかったので、とりあえず僕は音緒の手を握ってみた。

「あら、やけに積極的だね」

「まあ、恋人関係なんだから、これくらい普通だろう」

「それもそうだね」

 しばらくの沈黙が流れる。何か話題を振るべきだろうか。それともこの雰囲気を楽しむべきだろうか。僕が逡巡していると、ふと音緒が僕に尋ねてきた。

「順大ってさ、私より前に彼女いた?」

 急にどうしたんだろうと思いながら、僕は正直に答えた。

「いや。去年までの十七年間、僕に彼女がいたことはなかった。音緒が初めての彼女だね」

 そうなんだ、と返す音緒。何かを考えている様子である。声をかけようかどうか迷っていると、突然こちらを向いて、両手を合わせてこう言った。

「お願い! 今から言うことだけは誰にも言わないで!」

 唐突な頼みに僕は困惑した。音緒の意図が分からなかったので、僕は尋ね返した。

「僕は口が堅い方だと思っているけど、一体なんで?」

「順大と付き合うにあたって、言っておいた方が良いかなって思うことがあって……私の過去についてなんだけど」

 確かに音緒の過去には興味がある。さらに、それを知ることで、音緒のことをもっと知ることができる。これを聞かない手はない。

「ねえ、約束してくれる?」

 まあ言う相手もいないし、と思いながら、僕は承諾した。すると、音緒は語り始めた。

「実は私、高一の時に付き合っていた人がいるの」

 ほう、と声が漏れた。音緒に元カレがいることは初耳だったので、思わず声に出てしまったのである。それに構わず、音緒は続ける。

「まあ、多分名前を言っても順大には分からないと思うから言わないけど、とにかくそいつがクズでね……」

 音緒の口から「クズ」なんていう単語が出てきたことに驚いた。普段ほとんど暴言を吐かない音緒がそんなことを言うぐらいだから、余程クズなのだろう。

「そいつはとんでもなくエッチな奴で……まあ私とそういうことをやりたがっていたわけなのよ」

 なるほどな、と納得した。それは確かに貞操観念のしっかりしていそうな音緒から見ればクズなのだろう。

「ちなみにどっちから告白したの? やっぱり元カレ?」

「当然よ。そもそも告白された時、あいつが誰なのか知らなかったし。クラスも違ったから」

 これには少し引いた。音緒も音緒で、良くもまあ知らない人と付き合う気になったものである。普通なら知らない人に声をかけられただけでも疑うはずだと思うのだが……そう思っていると、音緒から補足が入った。

「そりゃもちろん、普段なら知らない人から告白されても断るよ。でも、その日は友達と喧嘩していて落ち込んでいて……あ、順大も会ったことがあるっけ、アイちゃんと」

「ああ、クリスマスイブの時に会った……」

「そうそう、その子。そのアイちゃんと喧嘩して落ち込んでいた時に近づいてきたのよ……あいつが」

 確かに落ち込んで心が傷ついている時は、慰めてほしいと思うものである。でも、だからと言って、知らない人にまで慰めてほしいと思うものなのだろうか、と思いながら続きを聞く。

「最初見た時は良い人だと思ったよ。私のことを真剣に考えてくれていそうだったし、顔もそこそこイケメンだったし。それで、そのまま付き合うことになったんだけど……」

 いやいや、その過程が僕には理解できないんだってば、と話を遮りたかったが、真剣な顔をしている音緒を見て、やっぱりそのことについては触れないでおこうと思った。

「でも、やっぱりこういうのにはだまされちゃいけないってことがよく分かったよ。あいつの狙いは初めから私の体だったのよ」

 まあ、登場の仕方からして胡散臭かったから、こうなるのも妥当だろう。いきなり近づいてくる奴が良い人だなんて、なかなかないことである。

「一応彼氏だからデートにはついていくんだけど、その度に、今日ならやれるか、いつならやれるかとしつこく問われたの。当然私は、今日は無理、今度も無理と断り続けたけどね」

 そんな過去があったのかと驚く。それなら確かに、今の彼氏である僕に話した方が良いと思っても不思議ではないし、他の人には聞かれたくないと思うのも当然である。僕は話の続きを促す。

「……で、その元カレとは結局どうなったの?」

「やった」

 やったんかい、と突っ込みそうになる口を押しとどめる。話の流れからして、逃げきれたのかと思ったのに。

「でも、一回だけだった。一回やっただけで、満足したのか飽きたのか分からないけど、もう別れようと向こうから言ってきた。結果的に別れて正解だったけど、こういうところもクズなのよね。結局私はあいつにとってはただの道具だったのよ」

 そう言って音緒はうつむいた。今まで僕が抱いていたイメージから大きくかけ離れた音緒が、そこにいた。それ以前は、茶目っ気たっぷりで、根は真面目なとても良い子だけど、少しおっちょこちょいで天然なのかなと思っていた。失礼ながら、人生経験もあまりないだろうと勝手に思い込んでいた。しかしそうではなかった。音緒はこんなにショッキングな出来事を経験して、その上で明るく振る舞っているのだ。何という強い人だろう。今まで思い描いていた音緒の像とはだいぶかけ離れている。それはすなわち、理想と違う現実と言えた。しかし、その現実の音緒は、理想の音緒よりも輝いていたのである。こんな素晴らしい人を手放したくない。

「……音緒」

 音緒は顔を上げた。目には涙がたまっていた。今度は、僕が思いを伝える番だ。

「よく、こんなに辛い過去を打ち明けてくれた。ありがとう」

 音緒だって、こんなことを僕に話すのは躊躇ためらったはずだ。場合によっては、「思っていたのと違う!」などと僕に言われて別れ話に発展するなどということも考えられたはずだ。そのようなリスクを冒してまで、こうして打ち明けてくれたのは、それだけ僕を信頼していたということの表れと言って良い。僕はそのことが純粋に嬉しかった。

「僕はお前のことを道具などとは全く思っていない。お前は僕の人生の一部だ。お前は僕にとって、なくてはならない人なんだ。だから……」

 ここで言葉に詰まる。言いたいことが溢れ出て、何から言えば良いか分からなくなってきた。

「……僕は、その元カレとは違う。僕は、音緒が近くにいてくれるだけで幸せだ。でも、僕だけが幸せなのは駄目だ。音緒も幸せにならないといけない。僕は、音緒を幸せにする。絶対に」

 何だかうまくまとまってしまったが、僕は内心不満だった。まだ言いたいことの半分も言えていない。もうちょっと今思っていることを伝えきりたかった。言葉で伝えることの難しさを痛感する。

「順大……」

 音緒は袖で涙を拭き、いくらか安堵したような表情で口を開いた。

「……私も、順大と一緒にいるだけで幸せです。だから、私を幸せにしたければ」

 そう言って、握っていた僕の手を、一層強く握りしめた。

「……これからも、私のそばにいてね」

 こんなことを言われて、否定できる馬鹿がいるだろうか。言われるまでもなく、僕は音緒のずっとそばにいたかった。その手を放したくなかった。僕はもう、完全に音緒を信頼しきっていた。この時から音緒は、僕の中では完全に不動の彼女になった。もはや「お払い箱か」などという疑念など、抱かなくなっていた。この時は、これぞ恋人の絆が深まった日だと思っていたのである。


 その後は何度もデートを重ねた。いや、行き過ぎというくらいデートに誘われた。初デートの時こそ僕から誘ったが、二回目以降はほとんど音緒からの発案だった。しかし、その頻度は過剰で、春休みなど二日連続でデートに行ったことが三回あったほどである。僕は一秒でも長く音緒と一緒にいたかったから、頻繁に音緒に会えてうれしかったのだが、デートのせいで勉強時間が削られ、この後三年生になってからいきなり授業についていけなくなったという負の側面もあった。それでも、僕たちはその間、徐々に絆を深め合った。喫茶店に行ったり、動物園に行ったり、映画館にも行った。途中からお互いお小遣いが尽き、ただ公園で話すだけという日もあった。それでも、初デートから二か月は、僕はまさに人生を謳歌おうかしていた。好きな人とずっと一緒にいることができて、僕はもう大満足だった。

 しかし、三年生になり、クラスが別々になった後は、何故かしらデートのお誘いがぷつりと途絶えた。同時に会話もやや停滞気味になっていった。お互い受験生ということもあり、連絡をとるのが遠慮がちになってしまったのだろうと思い、こればかりは仕方ないと割り切ることにした。

 それでも、僕が音緒の浮気を知る前の最後のトークでは、次の日曜日にデートをする約束をしていた。このデートは僕から誘ったものだが、音緒から返信が来る前は「もう受験生なんだから駄目」などと言われたりしないだろうかと思っていた。だが、僕の心配とは裏腹に、音緒はいつも通り快く賛成してくれた。若干音緒との間に疎外感を感じていた時のやり取りだっただけに、こうしていつも通りの返事をもらえたことに安堵あんどしていた。そして、この一週間が終わったら音緒とのデートが待っているんだと思うと、自然にやる気が出ていた。今僕が生きているのは、音緒とのデートのためだと言っても過言ではなかった。

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