節穴の心眼 第四話

「なるほどな。夏休みの図書室の運営に問題があったおかげで二人は巡り合ったと」

 氏家は自分の左手にできたかさぶたをペリペリとめくりながら僕の話を聞いている。気味が悪いので、氏家の方を見ないようにしていた。

「そうだな。結局このシステムのおかげで音緒と会えたわけだから、あの先生には感謝しているよ」

「だが、今となっては奴に裏切られたわけだから、わざわざ二人を結びつけたその先生は、やはり無能であったな」

「そう言うなよ。少なくとも、こういう経験ができたのも、あの先生のおかげなんだから……」

 僕は神社の前の坂道を颯爽さつそうと下っていく自転車を見ながらつぶやいた。図書室で出会った時の僕らの関係は、この自転車のように前途洋々だったんだろうな、と思いながら。

「おい順大。さっきからどこを見ておる?」

 氏家が僕の顔をのぞき込んできた。どうやら僕が意図的に氏家を見ないようにしていたことがバレたようである。

「ああ、すまんな。あの頃のことを思い出すと、何とも言えない気持ちになってな……」

 とりあえず、変に食いつかれないよう適当に言い訳することにした。

「ふうん……まあ無理もあるまい。それがしも分かるぞ、昔の方が良かったとな」

 何とか怒らせずに済んだようである。しかし、依然として氏家は右手の爪で左手の甲を引っかいている。あまり意識しないよう、話の続きをした方が良さそうだ。

「……まあ良い。続きを説明するぞ」

「うむ、よろしく頼む」


 ***


 図書室で会った当時は、音緒とはそれっきりの関係になるんだろうなと思っていた。だが、次に話す機会はすぐにやってきた。

 夏休みが終わり、二学期になってから三週間経った頃、クラスで席替えをすることになった。このクラスの席替えでは、目が悪くて前の方の席じゃないと見えない人に優先的に席を選ばせた後に、それ以外の人の席をくじ引きで決めていた。僕は別に特別目が悪いわけでもないので、くじ引きによって席を決められた。そしてここで隣の席になったのが、音緒だったのである。

 僕は少しうれしかった。というのも、一学期の席替えでは、それまで一度も話したことのない人ばかり隣の席になっていて、打ち解けるのに毎回時間がかかった。もちろん僕も打ち解ける気がなかったわけではない。むしろ僕の方から仲良くなろうと話題を振っていたくらいである。ずっと一緒にくっついているような友達がこのクラスにいない中で、少なくとも隣の人だけとは仲良くしておこうという魂胆からの行動であった。

 しかし、僕が隣の人と仲良くなるために積極的に話しかけると、いつも失敗してばかりだった。これは僕の話題の選択が悪いことや、話が長持ちしないことが問題であったと思う。それ故、話し始めてから少し経つとお互いが沈黙状態となり、気まずい雰囲気になってしまうことがしばしばあったのである。とは言え、なんだかんだ言っても、何度も話しているうちに何とか親しくなることはできた。しかし時すでに遅し、打ち解けた頃には席替えの時期となり、折角仲良くなった隣の人と別れる、ということの繰り返しだった。

 その点、音緒は既に夏休みの図書室で話したという経験がある。まだ打ち解けた、という段階まで行ったとは思わないが、それでもスタート位置が今までの隣の席の人たちと比べてはるかに進んでいるのである。これなら仲良くなるのもそう難しくはないだろう、ということを僕は期待したのである。別に、この時から音緒のことが好きだったわけではない。音緒のことが気になっていた、と言った方が適切だろう。そんな音緒は、早速僕の期待にこたえてきた。

「四賀君ってさ、数学が得意だったりする?」

 隣の席になった次の日、音緒が尋ねてきたのである。

「まあ得意ではないですが、授業には何とかついていけるレベルです」

 こう答えた通り、僕は数学が決して得意ではなかった。それでもどうにかして苦手にならずに済ませていた。高校で初めて数学の授業を受けた時、そのテンポの速さについていけず、相当焦った経験があった。そこから、勉強する時はまず何よりも数学を優先させる、という方針を立てた。これにより、数学の復習に時間を多く割いて、授業についていけるように努力したのである。その結果、テストでは基本問題を確実に解き、応用問題で部分点をもらうことでうまく点数を稼いでいき、何とかして平均点に届く、というスタイルを確立させることに成功したのである。ただその代わり、数学に勉強時間を奪われた古典や英語の成績が低迷するというデメリットもあったが、それでも数学の方が赤点をとる人も多く、ついていけなくなったら危ない教科だと思っていたので、このような数学優先の勉強は今でも正しいと思っている。

「良かった! じゃあ、もし数学で分からないところがあった時、教えてくれませんか?」

 突然の音緒からの頼みに困惑する。僕はさっき「得意ではない」と言ったはずなのに、どうしてそんな僕に頼むのだろう。

「いや、別に僕、数学そんなにできないですし、難しいことは教えられないかと……」

 このように丁重に断ろうとした。それでも音緒は諦めない。

「でも、授業にはついていけるんでしょ? だったら大丈夫だよ! 私、応用問題よりも、基本問題の方を教えてほしいから」

「しかし……」

 なおも渋る僕を見て、音緒が少し顔を赤らめ、僕に近寄ってささやいてきた。

「実は私、赤点の常連なので……」

 そう言ってうつむいて舌を出す音緒。こんな可愛い動作を見せられて、誰が断れようか。ここにおいて、僕は折れた。

「僕の教えられる範囲なら」

 それから僕は、数学の授業がある度に、音緒に授業内容を教えることになった。特に当時の数学の先生は毎日のように宿題を出していたので、その宿題の答え合わせに毎回付き合わされたのである。しかし、僕はそれを面倒くさいとは思わなかった。むしろ嬉しかった。自分が人に必要とされている感覚が心地良かった。音緒に頼られることが僕の生きがいにすらなっていた。

 それを繰り返しているうちに、僕は音緒に段々と恋心を抱いていた。最初は隣の席の人として音緒と仲良くなろうとしていたのに、いつの間にかその域を超えてしまった。そして、自分の人生には音緒が必要だと思い込み始めたのである。

 ある時から音緒に数学を教えている僕の顔が熱くなっていることに気付いた。初めて音緒に数学を教えた頃にはそんなことはなかったのだが、音緒のことが好きだと自覚した途端、急に熱くなったのである。まずい、バレてはいけない、もし僕の恋心が音緒に知られてしまえば、音緒は僕がいやらしいことを考えているのだと勘違いして、もう二度と僕に数学を教えてくれと頼まなくなってしまうかもしれない。今や僕の生きがいであるこの時間を奪われるのだけは絶対に嫌だ。だから音緒には悟られないようにしなければならない、隠さなければならない。そう思って顔の熱を冷まそうと思って焦ると、余計に顔が熱く感じる。幸い音緒はいつも手元にある宿題の練習問題をひたすら眺めていたので、僕の顔を見て内心を悟るようなことはなかったが、毎回教え終わった後に手を洗いに行くと、そこにあった鏡に深紅に染まった僕の耳が映っていた。その度に音緒に悟られなかったか、と心配になるのであった。しかし、何度数学を教えていても、音緒は僕の気持ちに気付いていないのか、一向に態度を変えてこなかった。いつも通りに接してくれる音緒を見て、僕は安心した。

 だが、僕の幸せな時間は一か月で終わる。また席替えが行われ、音緒と離れることになったからである。それと同時に僕が音緒に数学を教えることもなくなった。そして音緒は、新たに隣の席になった他の男子に数学を教えてもらうようになったのである。

 この時の僕の嫉妬しっとの激しさは筆舌に尽くしがたい。音緒に数学を教える立場とは、僕にとっては特別な立場であった。そして今まで僕がいたその特別な立場を、突如現れた他の男子にとられたのである。悔しくないわけがなかった。音緒が「数学を教えて」と頼む時に舌を出したあの動作を、僕以外の男子にもしたと思うと、夜も寝られなかった。数学を教える人など僕じゃなくても良かったのかと思うと、今までやってきたことがむなしく感じた。だからと言って数学の話題に限らず音緒に声をかけようにも、数学を教えるという仕事がなくなってしまった以上、僕が音緒に話しかけるきっかけもないのである。用事もないのに話しかけられるほど僕は図々しくはない。こうしてこの席の間、僕は一度も音緒と話すことができなかった。それでも僕の恋心は薄まることなく、むしろ思いは募っていった。僕はしばらく悶々もんもんとした日々を過ごした。

 だが、また一か月後に席替えが行われた。僕は音緒の近くになりたいと祈った。すると願いが通じたのか、今度は音緒の後ろの席になることができたのである。

 僕は喜んだ。音緒の後ろなら、何かと話す機会もあるだろう。数学に限らず、授業中にグループワークで協力する可能性だってある。その時にまた音緒と話せるのだ。ここから失われた一か月を取り戻していこう、と。

 しかし、喜んだのもつかの間、僕は音緒の隣の席の人がこれまた別の男子であることに気付いた。どうせ音緒はいつものように、隣の人に数学を教えてほしいと頼むはずである。そして音緒は僕のすぐ目の前にいるのだから、音緒が隣の男子にお願いをする姿を、後ろの席の僕が目にする可能性が高い。つまり、あの舌を出す動作を、僕の眼前で他の男子にやるかもしれないのである。こんな屈辱的なことがあるだろうか。音緒に貢献したくてたまらない僕という人間が近くにいながら、それを無視して僕に拷問のような目に遭わせるなんて、あまりにもひどすぎる。僕は前よりもひどい状況に置かれることを察し、一気に喜びが吹っ飛んでいった。

 しかし、結局僕がそのような屈辱を味わうことはなかった。音緒は隣の席の男子ではなく、後ろの席にいる僕に、また数学を教えてほしいと頼んできたのである。

 意外な展開に驚きつつも、当然僕は了承した。しかし、音緒が隣の男子に頼むとばかり思っていた僕は、何故僕が数学を教えることを頼まれたのか分からなった。

「あの、どうしてまた僕に?」

 僕は聞いてみた。すると、音緒は少し考えた素振りをし、そして答えた。

「私、色んな人に数学を教えてもらってきたんだけど、やっぱり四賀君が一番分かりやすいな、と思って」

 これを聞いた時に僕が安堵あんどしたことは言うまでもないだろう。この瞬間、やっぱり音緒には僕が必要であるということがはっきりと分かった。ここにおいて、先程失せていた僕の喜びが再び舞い戻ってきた。人の心とは単純なものである。音緒にとって僕は意義のある人間なんだと思うと、無意識に鼻の穴が広がった。

 こうして、また音緒に数学を教える日々が戻ってきた。最後に教えた時から時間は経っていたが、相変わらず音緒に頼られることが嬉しくて仕方がない。やはり僕にはこの日常が不可欠なのだ。僕の人生で、音緒に数学を教える時以上に僕が輝ける場面など他にあるだろうか。それほどまでに、僕にとって音緒の存在は大きなものとなっていた。

 この頃から、音緒に告白することを真剣に考え始めた。やはり、このまま一クラスメートとして終わるにはあまりに勿体もつたいない。数学を教えて、たまにちょっとだけ話すという間柄では満足できなかった。できれば恋人に、それが無理でもせめて友達になりたかった。とにかくもっと音緒と関わりたかったのである。

 しかし、僕は今まで一度も告白したことがない。恋をしたことなら何度かあるのだが、その度に告白できないまま終わっていた。今回もそうである。思いが募るだけ募っておきながら、肝心な行動に移せない。僕が動けなかったのは、二つのことを恐れていたからである。

 まず、告白をすることで、今の音緒との関係性すら消滅してしまうことを恐れた。僕が恋心を抱いていると急に知った音緒が、どんな反応を見せるのか分からなかった。最悪の場合、「そんな気持ちで私に近づいていたのね、いやらしい。もうあなたには数学は頼みません」などと言われてしまうことも考えられた。あの聖なる時間すら奪われるくらいなら、告白をせずに数学を教えるだけの日々に甘んじた方が良いという発想である。虎穴に入らずんば虎子を得ず、と言うが、僕はその虎に襲われるリスクを冒してまで音緒と付き合いたくはなかったのである。

 そしてもう一つ、僕が告白したことを、他のクラスメートに知られるのも嫌だった。特に失敗した時の反応を恐れていた。もし僕が告白に失敗したら、クラスの男子連中からは「お前、筋田に振られただろ」などとずっと馬鹿にされ、女子には「音緒を狙っていたとかキモすぎ」などとさげすまれることにもなりかねない。そういう周囲の反応を想像するだけで、告白する勇気がなくなってしまうのである。それならば他人の見ていないところで告白すれば良いじゃないかとも思われるかもしれないが、他人が見ていなくても音緒自身が友達などに「この前四賀君に告られたー」などと漏らす可能性だってある。そうなれば、他人が見ていようが見ていまいが一緒のことである。特に音緒は、自分が数学で赤点だったことを平気で暴露するなどの言動から、かなりおしゃべりな子だと思っていたので、ふとした拍子に僕を振ったことを言ってしまいそうな気がしていた。

 このようなリスクを恐れた故に、やはり告白するなら、相手が確実にオッケーをしてくれると確信してからじゃないとできなかった。少なくとも、音緒が付き合ってくれることになれば、今挙げた二つの恐れていることのうちの前者の心配はなくなるわけである。そして後者についても、他の人に見られないような場所で告白すれば、解決する話なのだ。だから、まずは音緒が僕を受け入れてくれそうか確認しなければなるまい。

 しかし、そのような消極的な態度でいるから、いつまで経っても解決の糸口が見つからない。こうして何もできずに待っていたら、告白できないまま二学期が終わった。そして僕は、告白するか否かを考えるのは来年でも遅くはないと、結局この件を先送りにしようとしたわけである。

 さて、そんな中迎えた冬休み最初の日はクリスマスイブだった。ここで僕の転機が訪れる。

 この日、僕は友達に誘われて、商店街に行った。クリスマスに一人ぼっちな者、いわゆる「クリぼっち」同士で集まって楽しく過ごそうよ、ということである。

 僕の行ったことのない場所だったので、迷子になっても良いように余裕を持って家を出発した。しかし、集合予定地が結構目立つところにあったので、僕はあっさりその場所を見つけ、予定よりも十五分も早く着いてしまった。そして友達に到着した旨を伝えると、その友達から「寝坊したので遅れる」と返信が来た。ということは、友達が来るまで恐らく後二十分とかそれ以上はかかるということである。さすがにその間ずっと待っているだけなのもつまらないので、少し歩いてみることにした。

 来たことのない商店街だが、男女が並んで歩いている割合が多いことを考えると、ここは恐らくカップルに人気なのだろう。きっと、今日がクリスマスイブということもあって、パートナーにクリスマスプレゼントを買ったりして楽しんでいるのだろう。

 その時、後ろから「四賀君?」という声が聞こえた。ん? こんなところに知り合いか? まさか、そんな偶然があるなんて、と思いながら振り向いた。目を疑った。そこにいたのは音緒だったのだ。

「やっぱりそうだ! あー良かった、知らない人に声かけたら恥ずかしかったからね」

 何か返そうと思ったが、あまりに唐突な出会いに心臓が高鳴り、頭が真っ白で言葉が出てこなかった。

「え、今何してるの?」

 音緒が尋ねてきた。普通なら、このくらいの問いなど容易く答えられるはずである。しかし、この時の僕の頭はパニックになっていた。音緒という人物一人を認識しただけで、それが引き金となって、僕の頭の中のありとあらゆる情報があふれ出し、脳内が混乱状態に陥ったのである。答えられずにひたすらえっと、あの、その、と言う僕を、音緒は不思議そうに見ている。そんな音緒の表情を見ると、余計に僕の頭が混乱する。駄目だ、音緒を見てはいけない。僕は目を閉じた。そのまま深く息を吸い込み、そして吐いた。少し心が落ち着いたので目を開けた。音緒はもはや不思議さを通り越して滑稽こつけいさを感じているようで、口元を手で押さえながらニヤニヤしていた。この瞬間に悟った。音緒に僕の恋心を気付かれたと。

 好きだと知られたらもう観念する外ない。もはや恋心を隠す必要はないのだ。そう思うと、急に楽になった。脳の思考回路が一瞬で元通りになった。

「友達を待っています」

 あっさりと答えることができた。

「クリぼっち同士会おうって約束をしていて……」

「本当? 私と一緒じゃん!」

 音緒が笑った。僕は二つの意味で驚いた。もちろん、音緒が僕と同じ目的で商店街に来ていたこともそうだが、それよりも僕は音緒が僕の恋心を悟った後でも、いつも通りの態度で僕に接してくることにびっくりしたのである。

「実は私も、アイちゃんとクリぼっちデートをするつもりなんだ」

「デート」という言葉に少しドキッとした。が、クリぼっちと言っているということは、音緒にはまだ彼氏がいないということだ。それが分かって、少し安心した。

「今ちょっと迷子になっちゃって」

 そう言って音緒は照れ臭そうに笑う。学校で話す時と変わらない様子である。ということは、もしかして音緒は。

「おーい、音緒ー!」

 突如僕の後ろから呼び声が聞こえた。音緒が体を傾けて僕の後ろを覗き、手を挙げた。

「あ、アイちゃんだ! やっほー」

 僕も振り向いてみる。見たことのある女子がこっちに向かって走ってきていた。確かこの人は、いつも音緒と一緒に登下校している人だ。僕とは同じクラスになったことがなかったので今まで知らなかったのだが、この人はアイちゃんというのか。覚えておこう。

「ん、この人は?」

 当然の質問をアイちゃんが投げかける。そりゃ、仲良しの女子の隣に知らない男がいたら、何者なのか気になるだろう。

「ああ、私のクラスメート」

 音緒が言った。

「前に言ったでしょ、いつも数学を教えてくれる人がいるって。それがこの人」

 当たり障りのない紹介。まあ今の関係性から言えば、音緒にとっての僕はそのくらいの人間だろう、と僕は納得する。

「あ、四賀です」

 一応自己紹介すると、アイちゃんと呼ばれた女子は、ふーんとうなずいて、「数学ができるってうらやましいな」と言った。

「いや、でもテストの成績はそんなに良くないですよ。平均点以上を保つのがギリギリですし」

 と僕が補足すると、アイちゃんはあきれたような顔をした。

「分かっていないねえ。そもそも平均点をとるというのが難しいのよ。そうでしょ、音緒?」

「でもね、四賀君に教えてもらってから、点数がこれまでの二倍になったの! 赤点からも脱出することができたし、平均点にも少し近づけたんだよ!」

 これは初耳だった。直近でテストがあったのは、音緒が近くにいない席の時、つまり僕が音緒に数学を教えていない時期だったので、こうした話題が音緒と話している時にタイムリーに出ることもなかった。しかも、再び音緒に数学を教えるようになってからも、僕はテストの成績の話にはあまり触れないようにしていたから、点数がどんなものか知らなかったのである。それにしても、点数が二倍になったという発言から、二倍になる前のテストの点数が如何いかに悪かったかということが想像できる。そこから僕が音緒を伸ばしてやったと考えると、自分が今までやっていたことがちゃんと結果につながっていたということが分かって誇らしくなった。

「音緒ってさ、確か一学期の頃にも誰かに数学を教えてもらったって言ってなかったっけ?」

 アイちゃんが尋ねる。

「うん。まあ何人かに教えてもらっていたよ。その人たちはそろって、クラスの中でトップクラスに頭が良いってうわさの人たちだったけど、みんなよく分からないことばかり説明していたから、全然話についていけなかったなあ」

 するとアイちゃんは僕の方を向いてきた。

「君さ、さっき平均点レベルって言っていたよね? どうして君よりも頭の良い人たちの方が教えるのが下手になるわけ?」

 いやいや、そんなこと僕に聞かれても分からない。それは僕より頭の良い連中に聞いてくれよ、と思っていると、横から音緒が口を出してきた。

「いや、あの人たちだって決して教え方が下手ってわけではないと思うんだよ。数学が分かる人にとっては分かりやすいんだろうけど、私のような馬鹿には理解が追い付かないだけで。その点、四賀君は決して数学ができる人ってわけじゃないんだろうけど、だからこそ数学が分からない人の気持ちが分かるんだと思うの。それで、他の頭が良い人たちよりも、理解しにくい部分を丁寧に解説してくれるから、こんな私でも理解できるんだろうなって」

 なるほどと思った。確かに、僕は自分が分からなかったという経験があるからこそ、それを音緒にも丁寧に解説しようと思うのだ。ふとアイちゃんの方を見てみると、どうやら彼女もこの説明に納得したようであった。

「だからね、私はそんな四賀君に親しみが持てるし、尊敬もしているんだ。最初の時点で数学が分からないっていうところでは私と同じなんだけど、それを四賀君は自力で理解しようと頑張っているんだから。いつも人に頼っちゃう私とは大違いだよね」

 親しみが持てて尊敬もしている。これ以上の褒め言葉があるだろうか。ここまで僕の心に刺さる言葉など、今まで聞いたことがなかった。自分に酔いそうになっていると、アイちゃんにひじで小突かれた。

「良かったじゃん、褒められちゃって。まあこれからも、音緒に数学を教えてあげてちょうだい」

「そう言うアイちゃんもさ、四賀君に教えてもらおうよ」

「別にあたしは誰かさんのように赤点はとったことないから良いのよ。さ、こんなところで油を売っていないで、デートに行くわよ! 今日は行きたいお店がたくさんあるから、とことん付き合ってもらうよ」

「うん、分かった! 行こう!」

 アイちゃんに促されて、音緒は歩き始めた。二、三歩進んだところで、振り返って僕に挨拶あいさつした。

「あ、じゃあ四賀君ありがとうね! また会おう!」

 そう言って音緒は笑顔で手を振った。その姿が、僕の脳裏から離れなくなった。この後僕も友達と一緒に商店街を巡ったが、その頭には常に音緒が映っていた。

 さあ、いよいよ僕も我慢ならなくなってきた。あの人ともっと一緒に時を過ごしたい。あの人にずっと寄り添っていたい。何と言っても、音緒には彼氏がいない。そして僕は音緒に頼られている。絶好のチャンスだ。これを逃したら、他の男に音緒をとられるかもしれない。告白するなら今だ。

 しかもこの邂逅かいこうで、音緒が僕のことを嫌いではないということが分かった。もし嫌いなら、こんなところで僕に声をかけたりしないはずである。僕に気付いて、なおかつ他人の空似であるというリスクをも冒して呼びかけてくれたということは、それだけ音緒は僕のことを良く思ってくれているということだ。それに、この時音緒は僕の恋心に気付いたはずである。しかし、それでも音緒は僕に対していつも通りに接してくれた。もし音緒が僕のことを嫌っていたら、僕の恋心に気付いた途端にドン引きし、態度が変わっていただろう。そうならなかったということは、僕に好かれることを良しとしている証拠、すなわち脈ありということだ。これならば、音緒は僕の気持ちを受け止めてくれると確信した。そして、ついに僕は音緒に告白する決意を固めた。

 商店街で会ってから三日後、僕は音緒とのトーク画面を開いた。さて、どのように自分の気持ちを伝えるべきか。とりあえず僕の思ったことをそのまま文字に起こしてみよう。

「もしよろしければ、僕と付き合っていただけませんか?」

 駄目だ駄目だ。いきなりこんな文章を送られたら、音緒だって困るだろう。もっとちゃんと書かねば。そう思い、今書いた文章を消し、新たな文章を打ち込む。

「実は、夏休みの図書室で初めて話した時以来気になっていたのですが、隣の席になって数学を教えているうちに、いつの間にかあなたのことが好きになっていました。そして、この前の商店街で出会って、やっぱりあなたしかいないと思いました。もしよろしければ、僕と付き合っていただけませんか?」

 これも良くない。今度は長すぎる。こんな無駄に長い告白など送られても、音緒の心証を悪くするだけだろう。もうちょっとコンパクトにしなければ。ということで、また書き直す。

「あなたのことが好きです。もしよろしければ、僕と付き合っていただけませんか?」

 うーん、確かにうまくまとまってはいるが、あまりにもベタすぎる。思ったことの十分の一も伝えられていない。駄目だ。と言うか、そもそもLINEで告白すること自体が間違っている。そんなやり方は王道から外れている。

 しかし、だからと言って直接告白しようにも、音緒に会えないからできない。少なくとも、冬休みが終わってまた学校に行くようになるまで待たなければいけないのだ。もちろん三日前の商店街の時のように偶然街中で会うことはあるかもしれないが、そんな偶然が何度も起こるわけがない。確実に今告白するのなら、やはりLINEしかないのである。

 何度も書き直した末に、結局このメッセージで落ち着いた。

「今日、ちょっと電話で話したいことがあるんだけど、時間ありますか?」

 もちろん面と向かって告白するのがベストである。しかし、それが叶わない今、ただLINEでメッセージを送って告白するよりも、電話をして自分の口から気持ちを伝えた方がまだマシだろうという判断である。

 送信ボタンを押した指が震える。これでもう後戻りはできない。今ならまだ送信取り消しができるが、ここで退いては一生音緒とは付き合えない。しばらく観察しようと思ったら、送ってからわずか十秒後に既読がついた。急に僕は焦り始めた。もし「どうして電話なの?」などと返されたら、どう答えれば良いだろう? 告白する決意は固めたはずなのに、ここに来て怖くなってきた。

 そうこう考えているうちに、音緒から返信が来た。そこにはこう書かれてあった。

「今日はこれからちょっと部活で忙しくなるので、帰った後の二十一時からで良いかな?」


 その日の夜のことは緊張しすぎて何も覚えていない。どういう話の流れで告白に至ったのか、そして告白の時にどのような雰囲気だったのか、一切記憶に残っていない。冗談抜きで、あの日のことを忘れてしまったのである。消えずに残っているのは、その日の二十一時ちょうどに僕が「電話しても良さそうですか?」と送り、そこから一分と経たず音緒から「大丈夫だよー」と返ってきた後に、「音声電話 十三分五十四秒」という記録だけが残ったトーク履歴と、その日を境に僕と音緒が付き合い始めたという事実だけだった。

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