節穴の心眼 第二話

「……とまあ、ここまでが最初の日にあった出来事だ」

 実際のトーク履歴を見せながら、僕は氏家にここまでのあらすじを説明した。その間、氏家はずっと僕を見続けていた。その目が僕をなめまわすような感じだったのが若干不快だったが、それだけ熱心に聞いていたということだろう。と思っていたら、氏家ははたと手を打ち、にやけ顔になった。

「なるほど。その岸崎という人のLINEのアイコンが羊で、通知が立て続けに三つ来ていたから、羊が一匹、羊が二匹、羊が三匹の要領で、順大は眠くなったと」

 前言撤回である。こいつは僕の話など聞いちゃいない。

「……なあ。そうやってふざけて聞いているのなら、もう話さないぞ?」

「あいすまぬ。なんか空気が重苦しくなっておったから、ちょっと場を和ませようとだな……」

「僕、言ったよな? まだ心の傷が癒えていないって」

「いや、悪かった。もうふざけるまい」

 こんなことを言われては意識せずともため息が出る。本当にこいつは僕に共感しているのだろうか。

「しかし、前から思っておったが、音緒という女もろくでもない奴であるな」

 先程までにやけていたのとは打って変わって、今度は至って真面目な表情に変わった。この男、やはりよく分からない。だが、よく分からないのは氏家だけではないことを思い出す。

「僕は、別に音緒ってそんな悪い人じゃないと思っていたんだけどな……人の心は分からないな」

「難しいものであるな。それで、結局次の日に元カノとは会えたのか?」

 氏家は、どうやら僕の話に興味がないわけではないらしい。一時は本気で話すのをやめようかとも思ったが、まだ話す価値はあるようだ。

「まあ待て。順番に説明していく」


 ***


 次の朝スマホを見ると、岸崎さんから返信があったようで、ロック画面上に「それが良いと思います」というメッセージが残っていた。

 岸崎さんは何に対して「良いと思います」と返したのだろうか。僕が寝ることに対してなのか、それとも音緒と話すことに対してなのか。しばらく考えて、そのどちらでもないような気がしてきた。あの長文を見ての通り、岸崎さんは基本的に自分のことしか考えておらず、そしてそのことを自覚している。僕に「共感を求めるのが理由で」浮気のことを知らせたような人である。当然僕のことを真剣に考えているとは思えなかった。だから、この後僕がどうなろうとも、彼女にとっては知ったことではないだろう。つまり、この「良いと思います」は、「好きにしろ」みたいな意味と捉えて差しつかえなさそうである。じゃあこちらも好きにさせていただこうではないか。

 さて、あれだけいやらしいやり取りを見せられたのに、不思議と怒りは湧いてこなかった。ただ、だからと言って音緒を見逃すわけではない。あのような行動を許す気は一切なかった。何故なら、これまでの音緒を見る限り、あのような大胆な浮気をするとは到底思えなかったからである。音緒はそんなことをするような人ではないはずだったのだ。……などと言うと、よくテレビで見る「逮捕された犯人の近所に住む住人」の言っていることと同じような響きに聞こえて胡散うさん臭いかもしれないが、事実そうなのである。本当に音緒は、「そんなことをするような人ではない」と言われるような人間だった。そのような人だと信じていたからこそ、僕は彼女に告白したのである。悪いことをするような女だと知っていたら、最初から付き合おうなんて思わなかったはずだ。そのような厚い信頼があったのに、彼女はそれを裏切った。そんな女に、僕が執着するなどということはあり得なかった。

 しかし、音緒への興味が全くなくなったかと問われれば、そうではない。むしろ彼女からもっと話を聞きたかった。音緒に何があったのか、どうして音緒はこんなことをしたのか、僕の知っている音緒はどこに行ったのか。ただそれを知りたかったのである。

 音緒と直接会って話したい。

 これがこの時の僕の一番強い思いだった。

 となると、何をするにしてもまず僕は学校に行かなければならない。このままベッドに横たわっていたい自分の怠け心にむち打ち、学校へ行く支度をする。

 僕の高校は自宅から徒歩三十分ほどで行ける場所にある。自転車で行ったら十分しかかからない。そういう高校を選んだのである。本当は中三だった頃の僕の偏差値では、もう一つレベルの高い高校に行くこともできたはずである。しかし、その高校は自宅から遠く、電車だけでなくバスも乗り継がないと行けないような僻地へきちにあった。朝早く起きて満員電車に揺られるのを嫌がった僕は、レベルの高さを捨ててでも通学の利便性を求めた。その結果、今の高校を選んだというわけである。この選択を後悔したことは一度もない。同じ中学の同級生で今は遠い高校に通う友達から、毎日満員電車に乗らなければいけないという話を聞く度に、そんな経験などまっぴらごめんだと思い、やっぱり僕の選んだ進路は正解だったとつくづく感じる。

 ところで、自転車通学の何が良いかと言うと、登校する時間を自分で決められるところである。確かに自転車は体力的に疲れることもあるし、安全運転を心掛けないと事故に遭うリスクが高いが、それを差し引いてもこのメリットは大きい。電車通学の人は、電車の発車する時刻に合わせて家を出なければならない。朝寝坊でもしようものなら、電車に乗り遅れてあっという間に遅刻である。しかし、自転車通学なら朝寝坊をしても被害を最小限に食い止めることができる。うちの高校では始業が八時三十分なので、それまでに登校できれば遅刻にはならない。ということは、通学時間が十分の僕の場合、八時十五分ぐらいに目が覚めたとしても、爆速で着替えて普段より急いで自転車をこげば、ギリギリセーフで遅刻にならないのである。こんなこと、電車通学ならあり得ないだろう。今まで僕が高校生活を無遅刻で過ごせているのは、自転車通学によるところが大きいのである。

 そして今日、僕は早く学校に行って音緒を入り待ちしようとしていた。三年生になって僕と音緒は別々のクラスになり、自分のクラスにいただけでは音緒に会うことができないから、どこかで待機する必要があるのである。もちろん音緒を待つためには、音緒よりも早く学校に行かなければならない。とは言え、自転車登校の僕にとっては容易たやすいことだ。何故なら音緒は電車通学である。つまり僕は、音緒が電車で登校する前に学校に到着しておき、音緒が通るであろう場所に待機していれば良いのである。この時も、僕はこの高校に進学して良かったと痛感した。

 電車の時間の都合で、彼女はいつも八時十五分頃に学校に来ている。だから、僕は余裕を持って八時五分あたりに学校に着いた。この時間に来る人はそう多くはない。部活の朝練習に参加している人がいるぐらいだろう。

 自分の教室に荷物を置いてから、一応音緒の教室をのぞいて、音緒がいないかどうか確認してみた。音緒の教室は僕の教室の隣なので、覗くのは簡単だった。この時間の教室は人がまばらで、せいぜい二、三人いる程度だった。想定通り、その中に音緒はいなかった。

 まだ音緒が登校していないことを確かめると、僕は下駄箱に行き、そこで待機することにした。生徒は、教室に行くまでの間にどうあがいても下駄箱を通らなければならない。ここで待っていれば必ず音緒を見つけられるのである。

 僕は待ちながら腕を組んだ。さて、音緒がここを通った時、僕は何と声をかければ良いだろうか。もちろん第一声は「音緒!」と名前を呼ばなければならないだろう。だが、ピーク時にはこの下駄箱に何十もの人が集まる。その状況の中で、声をかけるだけで充分と言えるだろうか。もしかしたら、大声を上げたとしても、音緒の耳には届かないかもしれない。そうなると、声だけでは無視される可能性がある。やはりここは、音緒を見つけたら、すぐに音緒の方に近づいて、僕に気付いてもらえるようにしなければならないだろう。もし音緒がボーっとしていて僕が見えていないようであれば、肩を叩くなどして僕に気付いてもらえるようにするか。どちらにしても、聴覚、視覚、触覚を動員すれば、僕に気付かないなんてことはないはずだ。

 問題は次である。この後僕はどのように話を切り出せば良いだろうか。さすがに出会って二秒で「お前、浮気した?」なんて聞くのは酷だろう。ここはまず、遠回しに色々聞くのが得策だろう。本題に入る前に、「ちょっと話があるんだけど」などと切り出し、昨日の岸崎さんからのLINEの話題について触れた上で、例のトーク履歴を証拠として差し出し、これを以て別れ話に持ち込むべきだろう。

 ……いや、その前にこの場から離れた方が良い。一度に何十人も集まるような下駄箱で別れ話をしても落ち着かないだろうし、そもそも通行人の邪魔にもなる。ここは一旦、人通りの少ない別の場所に行った方が良いだろう。でも、その別の場所とはどこであるべきか? この時間、生徒も先生もせわしなく動き回っているから、人が来ない場所などないのではなかろうか。誰も来ないところとしてパッと思いついたのは便所の個室だが、これは性別の差という高い壁があり明らかに不可能である。他には体育館の裏とか校舎の裏とかなら人通りが少ないはずだが、そもそも外へ出るためには、人の流れに逆らってこの下駄箱近くを強行突破しなければならない。音緒にとっては、一度外から中に入ったのに、また外へ出るという非常に面倒な行動をしなければならない。音緒がそんなことをしてまで僕の話に付き合ってくれる保証はなかったので、できれば外よりも校舎内のどこかで話す方が良いと感じた。しかし、校舎内だと場所も限られてくる。廊下や階段は明らかに人が多いし、どちらかの教室に行くとしても、八時十五分を過ぎたらもう教室には人がたくさん集まっているに決まっている。それならば一体どこで話すのが適しているのだろうか?

 そう迷っているうちに、八時十五分になっていた。その頃になると下駄箱近くの人通りが相当増え始め、ちゃんと観察しないと誰が通っているのか分からなくなってきた。僕は音緒の下駄箱がどこにあるのか、正確な位置を把握していなかったので、通る人全てを観察しなければならない。そのため、音緒と合流した後にどこに行けば良いかなど、考える暇すらなくなっていた。必死に目を動かしながら、自分の考えの甘さを後悔した。

 だが、そろそろ来ても良いはずの時間だと思ってから、一向に音緒は来ない。一応通る生徒全員を確認しているため、見逃したなどということはないはずだ。それにも関わらず、僕の目は未だに音緒の姿を捉えられずにいた。

 そのまましばらく観察し続けた。人通りのピークは八時十五分から二十五分ぐらいの間で、それを過ぎるとほとんど人が通らなくなる。二十五分を過ぎた頃にやってくるような人は、大抵いつも遅刻しかけているような奴ばかりである。

 少し人の流れが弱まってきたのでスマホを出して時刻を確認する。八時二十七分。さすがにこれ以上待ち続けると、今度は僕が遅刻扱いにされてしまう。折角二十分も前に登校したというのに、これで遅刻だと言われてはたまったものではない。音緒のことは諦め、僕は教室に戻ることにした。

 自分の席に座って、始業のチャイムが鳴ったり、担任の先生が連絡事項を言ったりするのを聞き流しながら、何故音緒が来なかったのかを考えた。もちろん普通に遅刻をしただけかもしれないし、ただ体調が悪いから休んでいるだけなのかもしれない。しかし、このタイミングで休むということは、何か察したのではなかろうか。つまり音緒は、僕が既に浮気の事実を知ったということを分かった上で、僕を避けるために休んだのかもしれないのだ。

 それでも僕が下駄箱で音緒を見逃しただけという可能性がまだ残っていたので、昼休みになってから隣のクラスを覗いてみた。隣のクラスはつい最近席替えをしたらしく、どこに音緒の席があるのか分からない。そのため、片っ端から順番に見ていかないといけなかった。こうして一人ずつ見ていくと、窓側の席で弁当を食べている男子と目が合った。どこかで会ったような顔だと思い凝視してみると、一年の時にクラスメートだった男子だと分かった。彼とは出席番号が近く、掃除を一緒にやる機会が多かったので、それなりに親交はあった。その男子は僕を見て何かを察したようで、持っていたおにぎりを弁当箱にしまって立ち上がり、僕の方に近づいてきてくれた。

「どうした順大、誰をお探しだい?」

 音緒は、と言おうとした口を、すんでのところで止めた。彼は一年の時のクラスメートだから、二年の時に付き合い始めた僕と音緒の関係を知らないはずである。そんな彼に、下の名前で言っても、すぐに反応できない可能性があった。ここは丁寧に、フルネームで言うことにした。

「筋田音緒さんっている?」

「ん? 筋田さん?」

 予想通り怪訝けげんな表情をされた。明らかに音緒と僕がどういう関係なのかを窺っている顔である。咄嗟とつさに僕は「ちょっとうちのクラスの女子に、筋田さんがいるかどうかを確かめて来いって頼まれたから……」と返した。すると彼は、未だに合点がいかないような表情ながらも、「今日は来ていなさそうだよ。朝のホームルームで、休みの連絡が入っていないって、うちの先生が不機嫌そうに言っていた」と教えてくれた。そうと分かればもうこの教室に用はない。彼にお礼の言葉だけ言って、自分の教室に戻った。

 何故僕は音緒と付き合っていることを彼に打ち明けなかったのだろう。自分でも咄嗟に言ったのでよく分からない。やはりもうすぐ音緒と別れようとしている身のくせに、胸を張って「僕の彼女です」とは言えなかったのだろうか。

 だがそんなことはどうでも良い。僕は音緒が来ていないことよりも、休みの連絡が学校に届いていないことの方に引っかかった。

 学校を休む時は、必ず始業時間までに学校に連絡をしなければいけない。この時、学校に連絡するのは生徒ではなく、必ず親がやらなければいけないのである。これは生徒のずる休みを防ぐために設けられたルールであると言われているが、このルールがあるため、欠席は親の同意を得ないとできなくなっているのである。

 しかし、今日の音緒からはその連絡が入っていない。いや、音緒から、と言うよりも、音緒の親から、と言った方が正しいか。ただ音緒の親が連絡を忘れただけなら良い。だがそうでない可能性もある。つまり、音緒が親にすら無許可で欠席しているかもしれないのである。例えば、音緒が朝に家を出たものの、学校には行かず、別の場所に行っていれば、親も欠席を把握することができない。もしそうならば、音緒は一人で街の中をうろついているかもしれない。高校生の女子が長い時間一人でぶらぶらするなど、危険と隣合わせである。それはそれで心配である。

 しかし、無断欠席の時、学校は普通ならその家庭に「今日、○○さんがまだ登校していないんですけど、どうされましたか?」みたいな連絡をするはずである。学校は音緒の家族と連絡をとれたのだろうか。そしてどんな返答を得たのだろうか。これも知りたかった。だが、恐らくこれを知っているのは隣の教室の担任だろう。僕はその人とは一度も話したことがない。当然僕と音緒の関係性も知らないはずである。そんな人に「筋田家と連絡はとれましたか?」などと聞けるわけがなかった。さっきの男子の時みたいに、怪訝けげんな表情をされるに決まっている。じゃあ正直に「僕の彼女です」と言えば良いじゃないかと思うかもしれないが、相手は大人である。そんなことを言ったところで、素性もよく分からぬ隣のクラスの男子に、自分のクラスの女子のプライベートな情報を軽々しく漏らすとは思えなかった。特に最近は個人情報について厳しく言われている時代である。彼氏彼女の関係だとしても、教えてくれないということが充分あり得た。

 だが、僕は音緒の安否を知りたかった。迷った末に、音緒に直接確認するのが手っ取り早いと結論付け、LINEを開いた。

「今日は学校に来ていないらしいね。何かあったの?」

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