節穴の心眼 / 栃池 矢熊 作

名古屋市立大学文藝部

節穴の心眼 第一話

 少し前まで校門を彩っていた桜はすっかり散り、葉の緑色が目立つようになってきた。周りの人々を見ると、新しいクラスになってから約三週間経ち、環境に慣れてきたのか、笑っている人が多いように思える。四月の終わり頃ともなれば、友達の一人や二人くらい新たにできていても不思議ではない。むしろそれが自然である。この時期は、親しい人が増えていくのが普通なのだ。これは、高校に入りたての一年生に限った話ではなく、僕たちみたいな、受験が待ち受けている三年生にも当てはまる話、のはずだった。

 それに比べて僕はどうか。増えるどころか、最も親しく、最も大切だと思っていた人を失ってしまった。別に死んだわけではない。肉体的には普通に生きているが、それは僕の知っているあいつではない。僕が尊敬していたあいつは、もはや死んだも同然である。今いるのは、見た目こそ同じだが、僕の知らない内面を持つあいつなのだ。今までのあいつとは既に「永遠の別れ」だと悟っていた。僕たちの仲は、もう二度と修復できないのだ。そう思うと、人間関係のはかなさをひしひしと感じて辛い。

 その上、そいつも同じ高校に通っている。それも隣の教室に行けば簡単に会えてしまうのである。あの一件があるまでは、あいつのことを身近に感じて嬉しかったが、会いたくなくなった今となっては、教室が隣り合っているという事実は僕にとって非常に良くない状況だった。会うつもりがなくても、廊下などで顔を合わせてしまう可能性が高くなるからである。会ったところで仲直りができるわけではない。嫌な気分になるだけである。それ故、あれ以来下校する時には、あいつと顔を合わせないために、常に下を向いて歩いていた。こうすることで、前が見えなくなるというリスクもあるが、あいつに会って気まずい思いをするよりはマシに思えた。そして今日も、誰の顔も見ることなく下駄箱で靴を履き終えた。ここまで行けば、後は門を出て帰るだけである。何とかあいつのつらを見ずに校舎を出られそうだった。

「おい」

 さっきから誰かに呼ばれていたことに気付いて振り向く。?せ気味の体格には似合わないぶかぶかの学ランを着ているのと、男子にしては長い髪に寝癖がついているのとで、非常にだらしなく見える。すぐに氏家うじいえ隼人はやとであることが分かった。

「なんだ、お前か」

「なんだ、とはなんだ。不満であったか? 悪かったな」

 氏家は一年生の時の同級生である。何かと気が合う奴で、クラスが変わってからも親交は続いていたが、三年生になってからは校舎が変わり、滅多に会わなくなっていた。少し前まではそのことを寂しく感じていたが、あの一件を経験したばかりの僕にとっては、氏家に会いにくいということは好都合だった。今の僕はあまり人と話したくないからである。だから、会いたいと思っていた時に会えず、こういうタイミングに限って現れた氏家は、彼自身にその気はないにしても、僕にとっては空気を読めない奴と言って差し支えなかった。

「別に不満じゃないけど」

「じゃあどうしてお主、さっきから眉間にしわを寄せておるのだ?」

 氏家にそう言われるまで、僕が眉間に力を入れていたことに気付かなかった。それほどまでに苦悩していたということだ。しかし、あまりその話をしたくはない。思い出すだけでも嫌な気分になる。

「考え事をしていただけだ」

 正直、こうして返答するのも苦痛だった。それを察してもらうために、さっきから敢えて素っ気ない態度をとり、誰とも話したくないというオーラを出そうとしていたのである。しかし、空気の読めない氏家は、そんなこととは露知らず、ぐいぐいと質問攻めしてくる。

「何を考えておったのだ? それがしにも教えろ」

 また言いやがった。「それがし」という一人称である。今時の高校生が使う言葉ではない。うつとうしいからその一人称をやめろといつも言っているのに、絶対にやめようとしない。元々氏家の話し方はどこか古風で、先程のように二人称には「お主」を用いているが、これはまだ百歩譲って許せる。しかし、「それがし」だけはどうも気に食わない。ただでさえ嫌なのに、こんな気分の時に聞かされれば余計に不愉快であることは言うまでもないだろう。さすがに僕も我慢の限界だった。ストレートに言うことにした。

「すまん、今は一人にしてくれないか」

 そろそろ僕の本心に気付いてくれるだろうと期待していた。しかし、あいつは僕の望んでいた方向とは真逆の言動を発した。

「さてはあれだな? これが原因であろう?」

 そう言って氏家は小指を立てた。こういうのを図星と言うのだろう。なんでいつも鈍感なくせに、こういう時だけ勘が鋭いのだ。

 今僕たちのいるところは人通りが多い。下駄箱とは登下校の際に避けては通れない場所だから、必然的に人の流れは活発なのである。こんなところで得意げに小指を立てられては、見ているこっちが恥ずかしくなってくる。

「とりあえずその指をやめてくれ」

 僕は氏家の手を下ろさせる。するとあいつは、僕が最も言ってほしくなかったセリフを口にした。

「こういう時は話した方が良かろう。全部吐き出した方がすっきりする」

 直接「話せ」とは言っていないが、意味は同じである。何故こうも僕が嫌に思っている方向に会話が進んでいくのだろう。氏家は人を不快にさせる天才か。当然話したくない僕は、言葉を選びながら断る。

「こんな人前で話せることじゃないんだ」

 言ってからすぐに後悔した。こんな遠回しに言ったところで、鈍感なこいつが諦めるわけがない。果たして、氏家は僕が思った通りの返答をしてきやがった。

「それならば良い場所を教えてやろう。ついて来い」

 

 手を引っ張られ、半ば強引に連れてこられたのは、高校の近所にある神社だった。

「ここなら誰も来ぬはずだ。さあ、話せ」

 とうとう「話せ」という命令口調になりやがった。全く、こいつは僕を何だと思っているのか。

「僕はな、まだ傷が癒えていないんだ」

 なおも抵抗を試みた。だが、あいつの前では無駄だった。

「だからこそ話した方が良いというものだ。こんなところで立ち止まっていても傷は深まるだけであろう。ここで全部洗い流して、また前を向くしかないのだ」

「カッコつけやがって」と僕は氏家をにらむ。僕のためだ、などと口では言うが、実際は他人の不幸という蜜を味わいたいだけだろう。そんな奴のために、誰が話したいと思うだろうか。

 だが、心の奥底では、確かに誰かにこの話を聞いてほしいという気持ちもあった。別に、話を聞いてもらって、何か具体的な解決策を教えてもらおうというのではない。ただ共感してほしかった。共感さえしてくれれば、それで良かった。僕は話すことにした。あの人のように、共感してもらいたいという気持ちから。



 全ての始まりは一通のLINEからだった。

 学校から帰って少し経った後、時刻で言えば十八時頃、英語の単語テストの勉強をするために翻訳アプリを使っていたら、突然僕のスマホに通知がきたのである。羊のイラストのアイコンに、名前は「ようこ」。僕の知らない人である。LINEの友だちはおろか、実際の知り合いにもそのような名前の人物は思い浮かばなかった。しかしそのメッセージの内容を見てみると、冒頭に僕の名前が書いてある。少なくとも誤送信されたメッセージではなさそうである。しかし、だからと言ってその人が安全である保証はない。もしかしたら何かやましい気持ちがあって僕に連絡したのかもしれない。そう思うと、読んで良いのかどうか迷った。

 だが、知らない人に伝えなければいけないほど重要な案件で送ってきたのなら、読まなければならない。迷った末に、とりあえずすぐには読まず、数時間置いてから既読をつけようと考えた。そうして夕食を済ませ風呂にも入り、いつでも寝られる状態になった二十二時過ぎに、そのメッセージを読んだ。

「初めまして。あなたは四賀しがじゅんさんでよろしいでしょうか《もし違っていたらごめんなさい。お手数ですが、その旨返信していただけると助かります》。私は同じ緑村みどりむら高校の岸崎きしざき洋子ようこと申します。突然の連絡申し訳ありません。本日はあなたに重要なことをお知らせするために、勝手ながら友だち追加させていただきました。

 重要なこととは、すじ田音たねさんに関することです。風のうわさで、あなたと音緒さんが付き合っているということを耳にしました。そこで、あなたにも情報を共有しなければと思って、こうしてメッセージを送ることを決意しました。

 さて、私事で恐縮ですが、私には彼氏がいました。どうかわ武夫たけおという男です。あなたも同じ一年三組でしたので、ご存じかと思います。《何故私が、あなたが一年三組にいたことを知っていたかと言うと、一年の時に武夫がよくあなたの話をしていて、それが印象に残っていたからです》武夫とは中学時代から付き合っていました。なんだかんだで高校も一緒のところに進学し、幸せな時間が今日までの約四年間続きました。

 でも、今日、全てが変わりました。今日というたった一日の間に、これまでの四年間で築き上げた全てが崩壊したのです。今日、私は知ってしまったのです。武夫が浮気していたことを。

 私は信じられませんでした。あの武夫に限って、そんなことをするとは思えなかったのです。『ああ洋子、君は世界で一番可愛い』『君に出会えて良かったよ』『いつまでも一緒さ』……今まで彼が発した言葉が全部嘘のようで悲しいです。

 では、どうして私がこんなプライベートな事情をあなたにお話ししたのか、もしかしたら既にお察しになっているかもしれませんね。まあ遠回しに言えば、それがあなたにも関係のある話だからです。ここまで言えばもうお分かりでしょう。つまり、武夫が浮気したその相手こそ、あなたの彼女である音緒さんだったのです。

 別に音緒さんのことを悪く言うつもりはないのですが《私は音緒さんとは面識がないので、面と向かって文句すら言えないのです》、彼女なんかよりも私の方が彼に対する貢献度は大きかったはずです。これは自信を持って言えます。それなのに武夫は私を裏切った。許しがたいことです。失礼を承知でお尋ねしたいのですが、私と同じ立場のあなたなら、私の気持ちをお分かりになっていただけるはずです。あなたにだけは共感してほしい。恥ずかしながら、こうしてあなたにメッセージを送ったのは、あなたに事実を伝えたかったからというよりも、同じ立場のあなたに共感してほしかったからというのが正直なところです。今の私に必要なのは共感なのです。それだけは分かっていただきたいと思います。まあ、共感を求めるのが理由であなたの彼女の浮気をお知らせするというひねくれた精神を持っているからこそ、私は武夫に愛想を尽かされたのかもしれませんが。

 さて、この事実を知った私は、武夫と話し合って、結局別れることになりました。こんなに辛いことは今までありませんでした。四年間の絆がこうもあっさり断たれるなんて、誰が予想できたでしょうか。恐らくあなたにも、近いうちにそのような悲しみを経験する時が来るでしょう。その時は、同じ境遇の人間がここにもいるということを思い出していただいて、少しでも悲しみを紛らわしていただければと思います。それが、あなたが私に共感していただいたことに対する、せめてものお礼になると信じています。

 いきなりすみませんでした」

 いや謝られても困る。むしろこんな重大なメッセージを、今まで何時間も《読めたのにも関わらず》放ったらかしにした自分の行動を後悔した。こんな重要なニュースが書かれてあると知っていたら、即刻読んでいただろうに。

 音緒が浮気をしている。にわかには信じられないことである。だが、もし本当だとしたら、非常に大変なことだ。

 岸崎さんという人が言った通り、音緒は僕と付き合っている。また武夫は、氏家と同じく一年生で同じクラスになり、よく僕と昼ご飯を一緒に食べ合った仲だ。そんな二人が裏で深くつながっていたということである。真剣に考えざるを得ない問題だと直感した。

 僕は次にとるべき行動を考えた。僕が思い浮かんだのは三つ。音緒に事実確認をするか、岸崎さんに詳細を尋ねるか、今読んだことを全て忘れるか、の三択である。だが最後の一つなど、もし浮気が事実だった場合、浮気を見逃すということになり、それは僕にとってはあり得ないことなので、実質二択である。

 となると、すぐさま音緒に直接確認すべきか。いや、それはやめておこう。まず何よりも、この時の僕はまだ岸崎さんのことを完全には信用していなかった。今まで一度も会ったことがないのに、急に友だち追加してくるような人を信じる方がおかしい。こんなに無駄が多くて長ったるいメッセージなど、そう簡単には信用できない。岸崎さんの言ったことが全部嘘だということもあり得た。だから、今の言葉が嘘だったというパターンと、本当だったというパターンの、両方について考慮しなければならないのである。

 では仮に、岸崎さんの言っていることが嘘で、音緒が浮気などしていなかったとしよう。その場合、僕が慌てて音緒に問い質したら、音緒は潔白なのだから、「冗談きついよ笑」「私がそんなことするわけないじゃん笑」などと返されて、無駄に焦った僕が恥をかいてしまう。それだけで終わるならまだ良い。もし音緒が疑われたことに腹を立てて「もう私たち別れましょう」などと言おうものなら、僕が見知らぬ人間の戯言ざれごとだまされてうろたえたばかりに、僕たち二人とも何も悪くないというのに、お互いがパートナーを失うことになるのである。こんなに馬鹿げた話があるだろうか。別れ話までには発展しないにしても、二人の間の信頼関係が揺らぐことは間違いない。その危険を冒してまで音緒に直接尋ねたくはなかった。

 逆に、もし音緒が本当に浮気をしていたとしても、音緒に直接確認するのはまずい。この場合において、仮に僕が、「岸崎さんという人に、音緒が浮気しているって聞いたんだけど、本当?」とメッセージを送ったとしよう。それを音緒が認めてくれれば話は早い。だが、音緒がしらを切る可能性も否定できないのだ。そして困ったことに、岸崎さんの文脈を見る限り、音緒が浮気をしていたという決定的な証拠も見当たらなかった。そうなると、「あなた、証拠もないのに私を疑うの?サイテーね」などと反論されれば、もう僕もこれ以上音緒を問い詰めることができなくなってしまう。

 つまり、音緒が浮気をしていようがしていまいが、どちらにしても音緒に確認するのは良くないのである。

 また、先程からずっと浮気浮気と言っているが、そもそもどの程度の浮気なのかが分からなかった。岸崎さんが浮気と言っているだけで、実は大したことないという可能性もあった。世の中には、自分のパートナーが他の異性とちょっと話しただけでも浮気だと騒ぐような人もいる。岸崎さんがそれに該当し、武夫が音緒と少し会話を交わしただけで浮気だと見なされているという線も否定できなかった。

 そうであった場合も、今ここで音緒を問い詰めるべきではない。世間一般的に言えば音緒は浮気していないのだから、もし僕が無駄に騒いだら、ここでも愛想を尽かされて別れ話になってしまう恐れがあった。「ずっと付き合ってきた私よりも、どこの馬の骨とも分からない、ぽっと出の女を信用するわけ?」などと音緒に返されたら、僕としてはぐうの音も出ない。

 よって、浮気の程度がどれくらいなのかを確認するためにも、僕は岸崎さんに詳細な事情を尋ねるのがベストだと判断した。早速メッセージ欄をタップして伝えたいことを入力していく。

「ご連絡ありがとうございます。四賀です。

 こうして読ませていただきましたが、僕はあなたをまだ信じることができずにいます。僕は音緒のことを信頼しているので、浮気なんて考えられません。また、浮気と言っても、どの程度の浮気なのかが分からないので、別れるか別れないかの判断も難しい状況です。証拠みたいなものはあったりしますか? もしあれば教えてください」

 送った後、僕はベッドに仰向けに倒れ込んだ。彼女に浮気されたかもしれないというのに、良くもまあこんなに冷静でいられるものである。

 さて、今度は岸崎さんの返信次第で、また僕の進むべき道は変わってくる。野球の審判ではないが、音緒の行動を「アウト」か「セーフ」かを判断する必要があるのである。

 まず、岸崎さんから証拠が送られてきた場合について考えてみた。だが、証拠は証拠でも、決定的な証拠とそうでない証拠がある。前者と後者とで、僕の行動も変わってくる。

 もし前者、すなわち送られてきた証拠が、誰が見ても音緒が浮気していると判断し得るものだった場合、これはもちろん「アウト」である。例えば、実際に浮気している現場を撮った写真とか、その時に記録された音声などは、決定的な証拠となり得る。もしそのような証拠が見つかったら、辛いが、その証拠を突き付けて音緒を問い詰め、彼女に浮気の事実を認めさせた上で別れることになるだろう。

 しかし、岸崎さんの持っている証拠が、音緒が浮気していることを客観的に証明するには至らないものだった場合、これはまだ「アウト」とは言えない。例えば、岸崎さんが音緒の浮気現場を見聞きした、という事実だけでは、決定的な証拠にはならない。仮にこれをもつて音緒を問いただしても、証拠の弱さ故に、音緒に知らぬ存ぜぬの一点張りをされる可能性があり、そうなると僕も対抗できないからである。疑わしきは罰せず、である。

 また、岸崎さんが証拠を持っていなかった場合も、当然「アウト」と言うことはできない。証拠もないのに相手を責めるなんて愚の骨頂である。そんなことをすれば、僕が損をするだけである。

 俄かに耳元で鳴った機械音に驚き、我に返る。スマホの着信音であった。案の定、スマホの画面に映ったのは、しばらく前にも見たあの羊のイラストのアイコンだった。僕が岸崎さんに返信してから感覚的には一時間以上経過しているように感じられたが、画面に映っている時刻を見てみると、まだ十分も経っていなかった。そして時刻の下に現れた「ようこが写真を送信しました」という無機質な文言を見て、すぐにこれが浮気の証拠であることを察した。少し遅れて、再び通知音と同時に、ロック画面に羊が一匹追加され、「二人のトーク履歴です」というメッセージが目に飛び込んできた。なるほど、確かにLINEのトーク履歴は動かぬ証拠となり得る。もちろん内容次第ではあるが、もしここに浮気していることを示す内容が書かれてあれば、客観的にも音緒が武夫と浮気をしていると証明できる。

 しかし、だからと言って、そんなものを見たいわけがなかった。浮気相手同士のトーク履歴など誰が見たいものか。本能的に、見たら絶対に後悔すると分かっていた。

 僕が躊躇ためらっていると、さらに通知が飛び込んできた。「本当はもっと過激な部分もありましたが、そこまでお見せせずとも、多分これだけでも充分信じていただけるかと存じます」この文言を見て、これは相当深刻な浮気であることを直感した。人に見せられないほど過激ということは、アウトの線を大きく超えている可能性が高い。ますます見るのが嫌になった。

 しかし僕は、それ以上に真実を知りたかった。音緒が本当に浮気をしたのか、それを知るまでは夜も寝られないだろう。覚悟を決めて、長細く一枚にまとめられたスクリーンショットをタップして開く。一目で音緒のトーク履歴であることが分かった。一面若葉色に染まった草原を、丸いピンク色のキャラクターが歩いているという背景。これこそ見慣れた音緒のトーク画面である。スワイプして拡大し、一番上から順に見ていく。

 

武夫 「俺聞いちゃったよ」「音緒に彼氏ができたこと」

音緒 「あ、もうバレちゃったんだ笑笑」「武夫には内緒にしていたのになあ」

武夫 「なんで内緒にするのさ」

音緒 「だって武夫、嫉妬するでしょ?」

武夫 「嫉妬はしないよ」「ていうかそもそも俺、嫉妬できる身分じゃないから笑」

音緒 「確かに笑笑」「でもちょっとは嫉妬してほしい自分がいる笑」

武夫 「じゃあ嫉妬しておくわ」

音緒 「何それ笑笑」「まあ、武夫に彼氏のことがバレるのはいいや」「彼氏に武夫のことがバレたら大変だけど笑」

武夫 「まあそういうことだ」「バレないように、怪しいラインは消しとこうね」

音緒 「そうだね笑笑」「今まで以上に消さなくちゃなあ笑」

武夫 「大丈夫、俺は今までずっとバレたらいけない環境にいたから」「もう既に消しのプロだね」「困ったら相談に乗るよ」

音緒 「消しのプロって何? 笑笑笑」「まあでも彼氏と四か月過ごしたけど、あの子鈍感だから気付かないよ、きっと笑」

武夫 「四か月か」「意外と長いな」「その間に音緒が心変わりしちゃったりして」

音緒 「そんなことないよ笑」「彼氏とは必要最小限のやり取りしかしていないし」「何なら武夫の方がいっぱい話しているよ笑笑」

武夫 「そうなんだ、ならいいか」「でもやっぱり」「彼氏には先を越されたくないなあ」

音緒 「大丈夫だよ、今の所そこに到達する兆しは全然ないから」

武夫 「本当?」

音緒 「うん」「でも、そんなに彼氏より先にやりたいの?」

武夫 「男とは、自分の愛する女にとっての『最初の男』になりたがる生物である」「みたいなことを聞いたことがあるよ」

音緒 「そんな言葉があるんだ」

武夫 「ちなみに女は、愛する男にとっての『最後の女』になりたいらしいね」

音緒 「確かに言われてみればそうかも」

武夫 「だからこそ、女性は浮気に厳しいんだろうね」「だって、愛する男の『最後の女』の座を、他の女に奪われるわけだから」

音緒 「それ、武夫が言えることじゃないでしょ笑笑笑」

武夫 「ごめんちゃい」

音緒 「反省する気ゼロ笑笑」

武夫 「音緒だってそうだろ」

音緒 「まあ、そうね笑笑」

武夫 「お互い、反省はしないということで」「これからもよろしく」

音緒 「よろしく笑」「でも、それにしても面白いね」「やっぱり価値観って男女で違うんだ」

武夫 「じゃあ、俺が彼氏に先を越されたくない理由分かった?」「まあつまり、愛する女の『最初の男』の座を、他の男に奪われたくないってことだね」

音緒 「うーん、分かった笑」「また考えておくよ笑」

 

 読みながら、頭がくらくらした。後半の方のやり取りなど、朦朧もうろうとしてまともに読めなかった。トークの背景に映る丸いピンク色のキャラクターが、普段なら可愛く思えるのに、この時ばかりは化け物のように見えた。

 予想通り、いや、予想以上に浮気の程度が激しかった。これはもう当然「アウト」である。客観的に見ても、これだけでも明らかに浮気していることが分かる。その上良くないことに、あの二人は、自分たちが浮気をしていると自覚した上で、なおも反省せずに浮気を続けているのである。悪気がなくて浮気をしているよりも遥かにタチが悪い。これでは二人に弁解の余地はあるまい。

 しかし、読み終わった僕の中には、何か違和感が残っていた。このトーク履歴の中に、どこか引っかかるところがあったのである。しかし、この時はそれが何なのか分からなかった。いや、それを考えるほどの余裕がなかったと言った方が正しいか。そもそも僕は、このトーク履歴を見る前にも、岸崎さんからの報告にどう対応するか、そしてその後の岸崎さんの証拠次第でどのように行動するか、という難題について考えたばかりである。そこでかなり脳のエネルギーを消費していたのに、ここでさらによく分からないことを考えられるだけの体力など、残っているわけがなかった。もちろん、これからやらなければならないことは山積している。だが今は無理である。明日に回すしかない。これ以上は何も考えられないのだ。

 こうして思考を放棄した僕は、もう寝ることにした。ただ、いくら脳が思考停止状態になっても、岸崎さんへの返信だけは忘れなかった。

「ありがとうございます。僕はもう何も考えられないので寝ます。明日になったら音緒と話をします」

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