死体洗いのアルバイト 其の2
胃の中身が逆流して、その場に吐き出しそうになる。
けれどマスクをしている事を思い出し咄嗟に堪える。
「ぐえ…おい…本当に…ドッキリとかならそろそろネタばらししてくれよ!」
スピーカーに向かって叫ぶけれど、相変わらず反応はない。
「おい!」
扉をこじ開けようとしても、ビクともしない。
脱出できそうなダクトも見当たらない。
そしてマスクの効果は果たしていつまで持つのか…千影さんがいればすぐに教えてくれるのに…
確か何かで読んだ記憶ではマスクのタイプにもよるが最長で300分程度だったような…
「死体を投入する液体…ってことはあの液体はホルマリンか?…だとすると…本当にやばいぞ」
刺激臭のするあの液体の正体に当たりを付ける。
ホルムアルデヒド水溶液、通称ホルマリンというやつだ、生物の標本等を腐らせずに長期間保存する事ができる液体だ。
ホルムアルデヒドは濃度にもよるが、直接吸ってしまうと目や鼻の粘膜刺激から呼吸障害、肺気腫にまでなってしまうかなり有害な物質である。
更には発ガン性もあり、このマスクの効力が切れてしまうと俺の身体は即、危険に晒されてしまう。
「死体洗いどころか…俺が洗われる側になっちまう…」
仕方無いと覚悟を決めて死体に向かい合う。
「ここを出たら絶対に訴える!」
腹部に大きな穴の空いた中年の男性の遺体だ。
まずは死体の前で手を合わせる。
そうすることで俺も少々落ち着きを取り戻す事ができた。
「成仏してください…」
死体の掃除と言っても身体に付着している血液以外に大きな汚れは無い。
というか…思ったのだが死体にはメスを入れた形跡がない。
つまり検死解剖はしていない段階なハズだ。
検死の前に死体を掃除してしまっては様々な物的証拠や死因を特定する材料を消してしまうのではないだろうか?
「何なんだ、何が目的でこんなこと…」
けれど今の俺にその疑問を解明する余裕は無い。
机の下には掃除用具の他にも蛇口、ホースがついていた。
「くそ、とんでもない事に巻き込まれてるんじゃないだろうな…」
ホースで水をかけながら、身体に付着している血液を綺麗に落としていく。
傷口付近を洗う時はやはり吐き気がこみ上げてきた。
ある程度汚れや血液が落ちた事を確認し、ホルマリンの水槽に死体を入れ…………待てよ。
「ホースと水があるなら…」
ホルムアルデヒドは水に溶けやすい性質がある。
つまりこの水槽にジャブジャブと水を注げばホルムアルデヒドは薄まり、身体に影響の無い濃度まで薄める事が可能なのではないだろうか?
幸い、床には排水口もあるから水槽から溢れた分は流れていくだろう。
「やってみるか…」
思い立ったが吉日だ。
俺はホースで横の水槽にどんどん水を注いでみる。
水嵩(みずかさ)は増していき、今にも水槽から溢れそうになったその時。
バガッ
水槽の下の床がパカっと開き、そこにホルマリンが全て流れていってしまった。
流れきると床は閉まり、再度ジャブジャブと壁からホルマリンが一定量注がれる。
「まぁそりゃそうか…」
ガクリと頭(こうべ)を垂れる。
「俺の調べた都市伝説の死体洗いのアルバイトとは…少々違うな…」
死体洗いのアルバイト。
某ハンバーガーチェーン店の肉にはミミズの肉が使われているという都市伝説と同程度には有名な都市伝説の一つである。
男が高額なバイト代につられて病院の求人に申し込む。
医者に言われるまま地下に行くと、そこには大きなプールがあり、そのプールには多くの死体が沈んでいた。
プールの中身はホルマリンで多くの死体を保存していたのだ!
時折浮いてくるその死体を棒でつついて再度沈めるのが男に与えられた仕事だったのだ……!
という話だ。
この話を調べた時に部長が「揮発性の高いホルマリンをプールになんか溜められない、ましてやかなり有害な物質だからね」と言っていたのを思い出す。
ちなみに俺のホルマリンの知識は、その時に千影さんから教わったものである。
「水槽の下が開くってことは…」
本当に嫌々だが、先程綺麗にした死体をグッと押し横の水槽に投入する。
ザバッと水しぶきをあげ死体がホルマリンの水槽に漬かる…
すると前程同様に床がバカッと開き、ホルマリンと死体をザザザと別の場所に流していった。
「これで死体をどこかに運んで保管するのか…」
本当に何の為のシステムなのかが分からない。
分からないが、何にせよこれで仕事は完了したわけだ。
「終わったぞ!出してくれ!」
扉の横のスピーカーに向かって再度叫ぶ。
するとガガガガと鉄の擦れる音が響き…ドサリとテーブルの上に新たな死体が届けられた。
「そういう意味の出してくれじゃねぇよ!!」
扉をガンと思い切り蹴るも、靴跡がつくだけの虚しい行為に終わった。
「今度は…うげ…勘弁してくれ…」
次の死体には四肢が無かった。
両手足の無いその死体は随分と小さく感じる。
手足のあった部分は綺麗な断面図なんかではなく、グチャリとねじ切れたように肉が抉(えぐ)れていた。
「何があったんだよ…くそ…ぐえ…」
水槽には新たにホルマリンが注がれる。
現実感の無い光景に徐々に感覚がおかしくなる。
ホースで死体に水をかけ、固まった血液を綺麗に取っていく。
傷口には大量のガラス片が刺さっているので、それも抜き取って廃棄する。
普通であれば絶対にしないであろう作業だが、自分の命にはかえられない。
1体目もそうだが、傷口以外はまだ綺麗なままなので何とかやり通せた。
どれくらいの時間が過ぎているのかも分からない。
マスクの下は汗だくである。
「2体目…完了…」
ザブンとホルマリンの水槽に死体を入れると、同じように床が開き、死体ごと飲み込まれていく。
「もういいだろう!おい!バイト代もいらない!早くここから解放してくれ!」
返答はないものかと思われたが、珍しくスピーカーがザザと音を立てる。
「次で最後の清掃になります」
それだけ言うとまたスピーカーは沈黙する。
ガガガガと鉄の擦れる音。
ドチャリと湿った何かがテーブルに乗る音。
「次で最後…一体今度はどんな…………うげ!」
それは人間ではなかった。
いや人間なのかもしれないが何がどうなればこんな事になるのかが分からない。
本来俺達の身体は皮膚や体毛によって守られている。
その皮膚がまるで無いのだ…。
表面は赤い内臓のような質感のブヨブヨとした質感であり、手足の先はなんと言えばいいのだろうか…
長袖や長ズボンを勢い良く脱いだ時に、その袖や裾が内側に入ってしまう事があるよな?
まさにその感じだ、内側に肉体が引き込まれてしまっていると言うか…
「裏返っ…」
吐き気がこみ上げてきて最後まで言葉にならない。
けれど俺の言いたい事は分かってもらえただろう、「人間が裏返っている」と言うのがこの死体を表すのに一番適しているように思えた。
「うえ…おえ…」
視界に入らないように反対の壁際まで下がり、へたり込む。
思い切り吐いてしまいたいがマスクのせいでそうもいかない。
「くそ…あんなんどうしろって…」
バツン!
その瞬間部屋の電気が落ちる。
意図的に消されたのか、ブレーカーでも落ちたのか…
とにかく地下で窓すらない密室だ、自分の手すら見えない真の闇包まれ…俺は発狂しそうなほどに怯えていた。
「なんだよ…」
ドチャ!
何か重い物が床に落ちる音がする。
ズル…グジュ…
何か湿った物が床を這いずる音がする。
その音がだんだんと近付いてくる。
俺もバカじゃない、何か分からないフリをしてはいるが…それがあの死体だって事くらい分かっている。
たとえそれが現実には有り得ない事だとしてもだ…
「やめろ…寄るなよ…開けてくれ…!!開けてくれぇ!!」
グジュグジュとしたそれが俺の足を掴み…俺は声にならない声を上げて気絶した。
…気が付くと、俺はベッドの上にいた。
「気が付きましたか?」
そして横には朝に見た医者がいた。
「あんた…なんなんだよあれは!監禁だぞ!いやそんな事より!何なんだあれは!?」
「監禁…?興奮なさらずに…いいですか?よく聞いてください」
「な…なんだ…」
「貴方は、新薬を飲んですぐに意識を失い、そして今までここで眠っていました」
「は?」
「防犯カメラの映像をご覧になりますか?」
「な…何を…」
「さすがに即効性での意識混濁は問題ありですからね…商品化は見送りになるでしょう」
「どこから…あの紫色のデカい薬を俺が飲んだんですか?」
「紫色…?今回の薬は白ですし、サイズもごく平均的な物ですよ」
「そんな…」
「治験に対する不信感や恐怖が夢に現れたんじゃないでしょうか?かなりの記憶の混濁があるようですね…もしも続くようでしたら受診する事をオススメしますよ」
「ほ、他の方達は?」
「他の方?それも夢ですかね…今回の治験に協力していただいたのは貴方だけですよ」
「嘘だろ…」
信じられるわけがない、死体の生々しさ、ホルマリンの刺激臭、全身で感じたあれが夢だったなんて…
ただあんな非人道的で人権を無視したバイトが存在するはずがないと思うのも事実だ。
「さすがに続行は危険と判断しました、バイト代は当初の予定通りお支払いしますが、治験はここで一旦の終了とさせていただきます」
「は…はい…」
「帰る前に、注意点だけいくつか…」
そこからの話はあまり耳に入ってこなかった。
帰る道中、その手を見る。
手元には本来なら5日間で貰うはずだった10万円が入った封筒。
たった1日で貰えたものの…ラッキーだとは思えず、どこか腑に落ちない…モヤモヤした気分のままだった。
気晴らしに歩いて帰る事にする。
そうだ、部長に報告してみよう、こんなモヤモヤは笑い話にしてしまえばいいのだ。
「やぁ景君、どうだったかね?治験のほうは」
「いやーそれが大変だったんですよ」
俺に起こった事を話す。
部長は楽しそうに聞いてくれたが最後のオチが気に入らなかったらしい。
「夢オチは最低だよ、景君」
「いやそう言われましても…」
「夢オチは何でもありになってしまうからねぇ…個人的には違うオチがよかったな、テレビの撮影であるとか、金持ちの道楽であったとか」
「仕方ないじゃないですか、実際に夢だったんですから」
「ふはは、まぁそれはそうだ」
「でも笑って聞いてもらってよかったですよ」
「ふむ、ちなみにどこの病院に行ったのだね?」
「えーと、3つほど先の駅の伊賀医院とか言ったかな?」
「伊賀医院?3つ先の駅の?横にコンビニのある?」
「ああそうですそうです、知ってたんですね」
「そこはずいぶん前に医療ミスが発覚して潰れただろう?」
「え?」
「後に病院が出来たなんて聞かないが…本当に伊賀医院だったかね?」
走り出していた。
部長の声が遠くから聞こえる。
歩いてきた道を全力で走って戻る。
「嘘だろ…」
そこは更地だった。
病院の建物どころか家ひとつない、広大な更地があるだけだった。
「確かに俺…ここから」
足がズキリと痛む。
ズボンを捲(まく)ると、何かに握られたような跡がクッキリと残っていた。
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