第6話 勉強会
図書館カフェテリア。
俺と鷺ノ宮さんは図書館の二階にあるカフェテリアに足を運んでいた。
勉強を教えてもらうという事は話をする事と同じであり、図書館の自習スペースでは他の人の邪魔になると考え、カフェテリアで紅茶を頼み、座っている。
俺は机の上にノートと参考書を開き、鷺ノ宮さんは借りてきた本に目を通している。
俺はシャーペンを持ち、ノートに向かう。
しかし、一問も分からない。分かるはずが無い。
俺は通知表オール2の男だ。普通に解ける問題すらも怪しい。そう、何が分からないのかも分からないのだ。
鷺ノ宮さんはそんな事露とも知らず本を読んでいる。
その姿は絵画の如き、息を飲む美しさだ。
時折、落ちる髪を掻き分け、耳に掛けるその姿はフェティズムを感じる。
ぺらり、と優しくページをめくるその手はしなやかに動き、何処か扇情的にも感じる。
首に巻かれ、全身を包みこむ紺のストール。そして、本を見つめる優しげな眼差しと醸し出される温和かつ気品あふれる雰囲気。
それはまさしく、深窓の令嬢。
「……あの、何かありましたか?」
「え?」
「ずっと私を見ているので、何かあったのかなと……」
「いや、綺麗だなって思いまして……」
「…………」
俺が思った事をそのまま話すと、鷺ノ宮さんは椅子を動かし、俺に背中を向ける形にする。
「さ、鷺ノ宮さん!?」
「宿題もやらない人と話す事はありません。真面目にやって下さい」
「や、やってますよ? ただ、何も分からないんです」
「何も分からないって……どんな問題をやっているんですか? 見せて下さい」
溜息混じりに嘆息した鷺ノ宮さんが机の上にある参考書を手に取る。
それをペラペラと眺め、一つ息を吐いた。何か、それに諦めが混じっていたのは気のせいか?
「……中田くん? 普段授業は聞いてますか?」
「聞いてます」
「では、出来ますね。頑張って下さい」
「ちょっ、嘘、嘘です!! 何も聞いてないです……助けて下さい……」
「全く、最初から嘘を吐かないで下さい」
鷺ノ宮さんは膝の上に開いていた本を閉じ、身体を元に戻す。
それから優しげな口調で言う。
「じゃあ、最初から優しく教えますから。ちゃんと聞いて下さいね」
「は、はい!!」
「この問題は……」
そう言ってから、鷺ノ宮さんの優しげで涼やかな声が俺の鼓膜を震わせる。
何というか、良い。普段、先生の野太い声とは違う優しくて、包み込んでくれるような声。
ああ、良い!!
「あの……中田くん? 真面目に聞いてますか? 聞かないならやめますよ?」
「き、聞きます!! ごめんなさい!!」
湿った眼差しで俺を見つめる鷺ノ宮さん。
どうやら良からぬ事を考えているのがバレ始めている。
これはそろそろちゃんとやらないと。
俺は鷺ノ宮さんの教え方を元に問題を解いていく。
鷺ノ宮さんの教え方は物凄く上手だった。
俺の分からない所をきちんと理解して、懇切丁寧に一から教えてくれる。
時折、鷺ノ宮さんからふわりと優しい甘い香りがしてくるし、それが俺の集中力をかき乱す所か、更なる集中力を呼び起こす。
「……中田くん、意外と物覚えが良いんですね」
「え? そうですか?」
「普段から授業を聞いていればしっかりと出来ると思いますよ? だから、ちゃんと聞きましょうね」
「はい……」
「じゃあ、少し休憩にしましょう。もう一時間はやってますから」
「え!? そ、そんなに!?」
俺はスマホの時計を確認する。
確かに勉強を始めてから一時間は経っていた。
まさか、勉強をして一時間も進んでいるなんて今まで一度も経験した事の無い感覚だ。
鷺ノ宮さんはふぅ、と一つ息を吐き、手元にあったアイスティーを優雅に飲む。
「……鷺ノ宮さんってお嬢様か何かですか?」
「え? いえ、そういうのではないですよ? 私は一般家庭の出身です」
「何かこう、深窓の令嬢っていうか、お嬢様っぽく見えたから。良い所のお嬢様なのかなって」
「ふふ、そんな訳ないです。お嬢様だったら、あの男性とお付き合いなんてしてないでしょ?」
鷺ノ宮さんは自虐的に笑いながら言う。
確かに。気になっていた事だった。どうして、鷺ノ宮さんっていうこんな高嶺の花のような女性があの浮気男とお付き合いしていたのか。
「気になりますか?」
「え?」
「あの男の人とどうしてお付き合いをしていたのか。顔に書いてありましたよ?」
「あ、アハハ……あ、言いたくないなら良いんですよ!? プライベートな事ですし!!」
「別に大した話じゃないですよ。そうですね……」
鷺ノ宮さんは人差し指を顎に当て、思い出しながら語る。
「彼と出会ったのはおよそ3ヶ月ほど前でしたか。私は恥ずかしながら、恋愛っていうものに凄く興味があったんです。やっぱり、高校生にもなったら恋愛くらいは経験しておかないと、と思いまして。ただ、それまで私、人を好きになった事が無かったんです」
鷺ノ宮さんの語る言葉を一言一句聞き逃さないように耳をしっかりと立てる。
「私はこうして図書館で本を読んで、動物たちと戯れて過ごす……。そんな毎日が大好きで。出来る事なら恋人ともそんな事が出来たらな、と考えていて……それを友達に相談したんです。その時に紹介されたのが彼でした」
「はぁ、なるほど……」
友達の紹介、か。
それ、友達が色々と間違えてないか? いや、鷺ノ宮さんの友達、悪く思うのはやめよう。
もしかしたら、鷺ノ宮さんが凄く大事にしている人かもしれないし。
「その友達に紹介され、彼とお付き合いをするようになったんですが、まぁ、内容は話した通り、ホテルに連れ込もうと躍起になっていて……私は心底失望しました。別れも考えました、当たり前ですね」
「でも、別れなかった……」
「はい。友達を裏切りたくなかったですし、それに恋人、というのは3ヶ月は続けるべきだと本にありましたから」
3ヶ月。
俺もそれは聞いた事がある。
恋人同士が相手の事を知るようになるのが3ヶ月だと。
そこで互いの事が見えてきて、お付き合いを続けるか、それとも別れるか。選択を迫られる時という話だ。
「だから、私はせめて3ヶ月。3ヶ月は信じようと決めたんです。彼にもきっと良い所があるはず……そう思って……しかし、それは私の買いかぶりだった、という事ですね。
ちょうど、その3ヶ月であんな事をされるんですから」
その言葉には若干の怒りが孕んでいるようにも聞こえた。
俺と同じで一日経って、色々と整理が付いているのかもしれない。
鷺ノ宮さんはミルクティーを飲み、口を開いた。
「……あの時、私は今まで何で頑張ってきたんだろうって思いました。好きでもない人を好きって思い込んでお付き合いして、良い所があるだろうと信じて……まぁ、でも、全部、それは独りよがりなものなので、怒るのもお門違いですね。私が早くに別れればこんな事には――」
と、鷺ノ宮さんが言いかけた時、ふと俺と目が合う。
鷺ノ宮さんは首を数回横に振り、優しく笑う。
「いえ。それはダメですね。あの日、貴方に会えたんですから」
「え?」
「ふふ、失意のどん底で自分のしてきた無意味さを突きつけられた時、貴方と出会った。きっと、貴方に出会っていなかったら、今頃、私は男性不信になっていたと思います」
「それは俺も同じですよ。俺も女性不信になりそうでしたから」
俺は思い出す。そして、それをそのまま言葉につむぐ。
「俺も恋愛をしてみたくて……その時、一目ぼれしたミナミに告白して、それでオッケーが貰えて、滅茶苦茶嬉しくて……デートとかも色々勉強してさ、女の子が喜ぶのとかもリサーチしたのに、ミナミは何か全部、俺に奢らせてくるし……でも、彼女が喜んでるからいっかとか思って……」
全部、ミナミが笑ってくれたから。
俺は好きな人にはいつまでも笑っていて欲しいから。
でも、それで俺は財布ばかりがやせ細っていって、それが正しいのか、間違いなのかも分からなくて、でも、ミナミは喜ぶからって思い続けて。
優しい温もりに俺の手が包まれる。俺が視線を向けると、そこには鷺ノ宮さんが優しく手を添えてくれていた。
「辛い事は思い出さなくてもいいんです。貴方も私も辛い思いはたくさんしたんですから。だからこそ、前を向きましょう。せっかく、私と貴方が出会ったんですから」
「鷺ノ宮さん……」
「私は貴方と会えて嬉しいですよ。貴方としたデートが一番楽しかったです。その言葉に偽りなんてありませんし、また行きたい……もっともっと貴方の事が知りたいんです」
ぎゅっと強く鷺ノ宮さんの手が俺の手を握り締める。
なんて暖かくて優しい温もりなんだろう。俺は重ねてくれた鷺ノ宮さんの手に俺の反対の手を乗せる。
「ありがとうございます。俺も鷺ノ宮さんと会えて嬉しいです。デートも楽しかったし、その、色んな事知りたいです」
「ふふ、同じ気持ちですね」
俺と鷺ノ宮さんは優しく笑い合う。
今までこんな穏やかに流れた時間は無かった。
こんなに幸せだと感じる時間は無かった。
俺は鷺ノ宮さんの手を離し、気合を入れる。
「よし!! じゃあ、デートをする為に俺も宿題頑張らないと!!」
「ふふ、その意気です……あ、そういえば、そのミナミさんとはお別れするつもりなんですか?」
「え? 当然ですよ!! 恋人がいるのに浮気するなんて流石の俺も許せませんし、それに、ああいうのが間違いだって鷺ノ宮さんに教えてもらいましたから。鷺ノ宮さんは?」
「当然、別れます。まぁ、連絡を入れているんですが、なかなか繋がらなくて……まぁ、いつか連絡が来るので気長に待ちます。今に始まった事ではないので」
もしかして、あの二人一緒にいるんじゃないか?
そんな事が俺の頭の中を過ぎったが、すぐに振り払う。
そんな事を考える事すらもどうでもいい。あの二人は俺の登場人物から消そう。
そんな事よりも宿題だ。
俺は再びシャープペンを手に取り、宿題を進めていく。
それからどれくらい時間が経っただろう。
「……そろそろ終わりにしましょうか」
「え? もうそんな時間?」
「はい。もう夕方ですよ」
「えぇ……早いな~」
俺は凝り固まった背筋を伸ばすと、クスっと鷺ノ宮さんが笑う。
「本当に一度集中すると長続きするタイプなんですね。中田くんはしっかりとやれば成績が伸びるタイプですよ」
「本当!? ……まぁ、頑張るかは別問題だけど。あ、そうだ。鷺ノ宮さん。何かやって欲しい事とかありますか?」
「やって欲しい事、ですか?」
「はい。だって、今日、付き合ってもらっちゃったし……」
いきなりとはいえ、お世話になった。
だったら、きっちりとお返しをしないと。鷺ノ宮さんは目を丸くしてから、恥ずかしそうに本で顔を下半分隠す。
「で、では、あの……明日とかってお時間ありますか?」
「明日? 大丈夫ですよ」
「中田くんと行きたい所があって……良いですか?」
「デートですか!! あ、いや、待って下さい。デートは普通、男から誘わないと……」
俺は見た事がある。
恋愛において、デートにお誘いするのは男から誘わないと、と。
俺は一つ咳払いをする。かなり緊張するが、やるしかない。ここで男を見せないでいつ見せる。
「鷺ノ宮さん、明日、デートに行きませんか?」
「……ふふ、細かい事を気にするんですね。でも、それだと私のお願いになりませんよ?」
「ば、場所を鷺ノ宮さんの行きたい所にすればいいんですよ。何処ですか?」
「それは内緒です。明日のお楽しみにして下さい」
「くっ……いや、それはそれでありか……」
楽しみが増えるという意味でもいいかもしれない。
すると、鷺ノ宮さんはゆっくりと立ち上がる。
「では、帰りましょうか。お代は?」
「俺が……じゃなくて、割り勘で」
「はい。良く出来ました。さあ、行きましょう」
俺は宿題をリュックの中に仕舞い、鷺ノ宮さんの背中を追い掛ける。
明日のデートが楽しみだな、そんな気持ちを抱きながら――。
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