第四十六話:『菅原家』の人々~検証⑨~






                ※※ 46 ※※




「今でこそ菅原道真みちざねは『学問の神様』で名が通ってるけど、かつては『文芸・芸能の神様』でもあり、『農業・産業の神様』でもあり、と様々な分野での神様だった」


 カウンター横にえ置いている電気炊飯器から、お米がける時の甘い湯気ゆげが出ている。灼は全ての刺身を切り終え、大きな飯台はんだいを用意していた。その中に水をひたす。


「それは本来、道真みちざね一人の能力ではなく、菅原家が持つ叡知えいちの全てということよね。

 でも、待って。道真みちざね配流はいるされる前に『武士』として生きるためのエッセンスを平氏に伝授したけど……、道真みちざねの子供たちがバラバラになった後、誰が菅原家をまとめたの?」


 灼は言って考えて、ふといてきた。


大学頭だいがくのかみだった嫡子ちゃくしの菅原高視たかみ土佐介とさのすけとして、配流されたというのは話したと思う。

 しかし、五年後にゆるされて復任、従五位上にじょせられるが、菅原家を立て直す間もなく、三十八歳で病死してしまう。この後、高視たかみの子・菅原文時ふみときの頃になって、菅原家累代るいだいの職だった式部大輔しきぶたいふに任じられ、村上天皇から三代にわたり仕えて従三位に叙位じょい、いわゆる『菅三品かんさんぼん』と称されるようになった」

「へえ、盛り返してきたってことね」


 灼の、その同情する喜びを俺は遺憾いかんな思いで打ち消した。


「いや、実はそれほど順調ではなかったみたいだ。文時ふみときは一代限りでその後が続かない。兄弟である雅規まさのりも配流先の尾張から帰京してるが、国司を歴任したのみで、その子・資忠すけただも『類聚符宣抄るいじゅうふせんしょう』という法令集によると、康保こうほう五年<968>に課試、つまり文章生もんじょうせいになるための入試問題を作る宣旨せんじを受けただけで身分は低い。だが、その嫡子が菅原家の流れを大きく変えた」


 灼は、関心の色を隠さず身を乗り出すが、すぐに興味を失ったかのように冷静になる。


「誰……って言っても、あまり聞いたことない人なんでしょ」

「いや、多分一回は聞いたことのある名前だ。菅原孝標たかすえって知ってるだろ?」


 俺の満足げな顔に、灼は不快な思いを声に乗せて言う。


「知ってるわよッ! 『更級さらしな日記』の作者の父親ぐらいッ」


 言って、不思議に思った。しゃくな気持ちは残ったが、探究心たんきゅうしんおさえようもない。


孝標たかすえって――確か文章もんじょう博士になれなかった人物で菅原家一族でも少数派の人でしょ? 一般的には不器用で地味な感じの、うだつが上がらないお父さんってイメージだけど……どうやって流れを変えたの?」


 俺は嘆息し、苦笑で答えた。


孝標たかすえという人物を語るとき、必ず引き合いに出されるエピソードが『扶桑略記ふそうりゃくき』治安三年<1023>年十月十九日条に記載されてる藤原道長みちながともで高野山参詣さんけいへ行った話だろう。そこの龍門寺仙房せんぼうとびらに記したという菅原道真みちざねの真筆に仮名文を併記し、人々に嘲笑ちょうしょうされたということだが……。

 まあ『売名行為』とか諸説ある中で、何故そのようなことをしたのか明らかではない。とは言え、自らの能力で菅原家を再興したという史実も見当たらないがな。

 俺の私見だが、孝標たかすえにとっても菅原家にとっても、幸運だったのは、藤原行成ゆきなりに出会ったことだと思う」


 俺の神妙な口調に、確答を得た灼。


「『寛弘かんこう四納言しなごん』の一人で権大納言。能書家として『三蹟さんせき』の一人でもある行家ゆきなりは、藤原道長みちながの側近だから孝標たかすえにワンチャン来たってことよね」

「ああ。でも、ただラッキーだったわけではない。藤原実資さねすけの『小右記しょうゆうき』に書かれてる永観えいがん三年<985>四月四日条に、

――『四日戊寅、雨降る……右中弁資忠すけただ朝臣、山科やましなより志を差し黒牛一頭を送る。斎王を迎ふるの勅使なり伝へ聞く。昨日斎王河陽の館に着すと云々』


 と、ある。右中弁資忠すけただとは孝標たかすえの父親だ。贈り物をしてアピールするのだが、取るに足らない出来事のように記録されてる。この時点では『菅原家』は相手にされてないということだ。そこで重要なのは、孝標たかすえ行成ゆきなりの生い立ちが近似きんじしてるという点だ」


 炊飯すいはんが終了した音ともに、灼が動き出した。大きな飯台はんだいされた水を捨てようとするのだが、重くて持ち上がらないようだ。俺はキッチンの中に入って手助けをした。今度は炊飯器のふたを開け、釜を取り出すのだが、灼の代わりに飯台はんだいの中へお米をひっくり返す。


「ありがとう。ついでに『シャリ切』もお願いしようかな」


 悪戯いたずらたくらむ子供のように、片目を閉じて小さな舌を出す。迂闊うかつにも灼が可愛いと思ってしまった俺は、狼狽うろたえながらガシガシと頭をいた。


「……別に構わないけど、何をすればいいんだ?」


 俺は両手首まで丁寧に洗い布巾ふきんで手をく。灼はしゃもじづたいに上から満遍まんべんなく合わせ酢をふりかけると、酢が一部分にだけまらないよう、しゃもじで均等に混ぜる。


「じゃ、平良にお願いね。しゃもじは横向きに使うの。例えば、刃物みたいなものでぎ切りする感じで、左右に振って」


 灼が飯台はんだいを回しながら実演する。そしてさわやかな笑顔で「はい」としゃもじを渡された。俺は無言でうなずき何となくそれをにぎる。取り敢えず、見よう見まねで『シャリ切』を試みる俺の隣に立ち、灼が団扇うちわで柔らかく風を送ってきた。


行成ゆきなり孝標たかすえい立ちが、どう関係あるの?」


 僅かの調理……といっても、ただき混ぜるだけだが、慣れぬ作業に悪戦苦闘あくせんくとうしながら、灼の問いに答える。


「藤原行成ゆきなりと菅原孝標たかすえは同年齢で文章生もんじょうせい時代の同級生だ。しかも二人とも若くして父親を失い、後ろだてがない。

 行成ゆきなりは幸い外祖父で式部大輔しきぶたいふを務めた紀伝道の学者、源保光やすみつの養子になったが、孝標たかすえは晩年まで苦労した。私見ではあるが、行成ゆきなり孝標たかすえは親密な学友だったと思う」


 灼は、パタパタと団扇うちわを叩き、「うーん」と大きな瞳をちゅうに向けた。


「苦楽を共にしてきたマブダチね。しかし、『菅原家』の人たちって、ホント友達に恵まれてるわ」

「確かに、な。しかもこの時期、孝標たかすえ以外の菅原家の人々も、家伝の書物等を回収する受領ずりょうチームと、時の権力者に渡りを付ける中央官僚チームに分担し、菅原氏長者を示す『式部大輔』を獲得する為、家業の『文章博士』どころではなかったのかもしれない。

 まあ、この時期『文章博士』になっても地方官僚だったり、中央官僚だったりするのはそういう理由だな」

「そうか。だから孝標たかすえは、若いころは中央官僚、晩年は受領ずりょう国司だったわけね。ちなみに家伝の書物を回収するってどういう意味?」


 俺はしゃもじを置いて、にこやかに言う。


道真みちざねには二十人を超える子供がいたと言われてる。その子供たちが一斉に配流された。『菅原家』としてまず守らなければならないのは、『菅家廊下』と言われたぐらい優秀な知識の継承だ。

 つまり子供たちは、その膨大で貴重な書物や資料を分担し、配流先へ持って行った」

「なんで、そこまでするの? 弟子とか何処どこかに預けるとか?」


 不意の質問に、俺は確たる表情で答える。


「藤原時平ときひら画策かくさくしたのは『菅原家』の消滅だ。道真みちざね個人の左遷させんでは終わらない。そして『菅原家』が最も武器とするものは……」

「だから、子供たちは道真みちざねが死んだ後、一斉に神社を建てたのかッ」


 突然、ひらめいた灼が大きな声を上げた。俺は強く頷き、


「各地の子供たちは、自分たちが秘匿ひとくしてきたをご神体として保存する。そうすることで権力者の手から守ろうとする。ただ神社を建立するにも民の支持を得なければならない。だから『菅原家の知恵』を神として『菅原道真』の御霊みたままつった」


 声にならない、息をむような表情の灼を見る。学問の神様として巷であがめられる菅原道真みちざねに隠された残酷ざんこくな現実と『菅原家』の執念しゅうねん。これこそがの正体なのだと。

 灼は悲壮ひそう面持おももちで保温櫃ほおんびつをキッチン台に置く。人肌までに冷めた寿司飯を、その中に入れ始めつつ訊いてくる。


「……分散したものは回収しなければならないわ。孝標たかすえはその『回収係』の一人だったわけね。でも、どうして晩年になって『受領ずりょう』になったの?」


 俺はキッチンを出て、再びカウンターに座る。


「当時、関東は桓武平氏かんむへいしの反乱によって荒れまくってた。そして歴史上無能と言われ続けてきた孝標たかすえは実はかなり優秀な官僚だったという証明にもなる」


 灼が用意してくれた緑茶をすすり、俺は言葉を切った。

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