第四十五話:『学問の神様』はこうして生まれた




              ※※ 45 ※※





 結衣ゆいさんは会長の後を追って生徒会室へ、尾崎は部活へと別れた帰り道。

 雨が上がっても天をおおう雲は依然いぜん厚い。落日は早く暮れれば痛いほどの寒気が桜の枝間えだまを吹き抜ける。俺と灼は長い坂道をくだっていた。

 

「平良」


 灼は俺に視線を向けた。大きな栗色の瞳に、なにからぎのある光彩いろが見える。曖昧あいまいな声で、もう一度言う。


「ねえ……平良」


 見た目にも、切り出せない戸惑いと問いたい葛藤かっとう交錯こうさくして言葉を躊躇ためらわせている。俺は語気をやわらげてく。

 

「歴史研究部のことか?」


 深く、深く、ため息をくように灼は声をらす。


「そっちもだけど……あたしたち、ホントにこれで良かったのかな?」

「まあ、あの会長だからな。まだ何かはかりごとめぐらしてるかもしれん。だからこそ『歴史遊戯ゲーム』の方は、きっちり俺たちの勝利で終わらせる」

「そうだね。でないと部は守れても、あたしたち退学だもんね」


 困った笑顔を見せた灼に、俺は大きく頷いた。坂道をくだり切って、大きな幹線道路に出る。黒い空をかす寒々さむざむしい並木道には、色とりどりのイルミネーションと装飾がり下げられ、行きう若者たちに心躍こころおどらせるイベントの到来を告知していた。


「あと一か月くらいでクリスマスかァ」


 車の途絶とだえぬ交差点で信号待ちをしている人々にまじじって、ふいに灼が独り言のようにこぼした。俺も同じようにそば耀かがやくクリスマス一色にまった街路樹を見上げる。


「……そうだな」


 返して、俺はかれた。

 大きな栗色の瞳を輝かせ、柔らかくおどるツインテールの髪間によぎる横顔。ただ漫然まんぜん時間ときを共にしてきたわけではない、おもいが積み重なって今がある。

 視線が重なると、白い息をき、最高の笑顔をくれる灼。見惚みとれている自分に気付いた時、あわてて視線をらした。


「その前に、期末試験があるぞ」


 歩行者信号が変わり、人波が一斉に動き出す。灼は大きく一歩をみ込み、振り返る。


「わかってるよォ! 平良のイジワルッ」


 紅い頬をふくらまし、「いーだッ」をする灼がとてもいとおしく思えた。





 自宅へ足を向け、喧騒けんそうき返る繁華街はんかがいに入ると、俺のスマホが鳴った。


『あ、平良。あんたの大好きな母さんよ』


 無言で電話を切る。間髪入れず再び鳴った。


『ちょっと、愚息ぐそくッ! いきなり切るなんてひどくない!?』

「……何の用事だ。おふくろ」


  非難の迫力はくりょくに押されるように、俺は耳を少しとおざけた。


『今ね。李依りえとォ~義雄よしおとォ~、お父さんとでね、居酒屋にいるの。今晩遅くなるから、あんたテキトーに何か食べなさい』

「パパとママ? そっか、今日ドイツから帰ってくるって言ってたっけ」


 大声でひびく母親の声が隣の灼まで伝わった。声の後ろで「灼を末永すえながく頼むぞォー」や「平良ァー! お前には責任があるッ」と、オヤジ二人が酔ってざんざめいている。


『灼ちゃんも一緒にいるんでしょ? 今、あんたの電子財布にチャージしといたから。じゃあねェ~』

「……切れた。全く勝手なもんだ」


 俺は、真っ黒になったスマホの画面を操作し、チャージの金額を確認する。


「で、どうするよ? 俺たちも何処どこかでうまいモン、食べてくか?」

「んー……」

 

 俺の質問に、灼は恬淡てんたんとした面持おももちで、人差し指を唇にえた。


「あんた、何が食べたい気分?」


 質問を質問で返された俺は、れったくも好ましく思いつつ答える。


「まあ……今は和食かな」

「分かったッ! 買いに行こうッ」

「えッ!?」


 意味が分からず、狼狽うろたえる俺の手を強引に引き、灼はビシッと指を差す。その先にはスーパーマーケットのある多目的商業施設。


「お刺身のタイムセール、まだ間に合うかもしれないし、急ごうッ!」


 引かれて、引いて、俺と灼は駅前から連なるイルミネーションに向かって歩き出した。





 自室にカバンを置き、着替えて階下かいかりてリビングルームの戸を開く。食卓には大量の刺身パックが広がっていた。


「刺身定食か、海鮮丼か?」

「お寿司よ」


 システムキッチンの向こう側にいる灼に否定された。キッチンテーブルに酢と砂糖と塩が置かれていくのを見ながら、


「ちらし寿司もたまにはいいなァ」


 と、カウンターに座る俺。収納棚の前でしゃがみ込んでいた灼が顔を上げる。


「なに言ってんの! あたしがにぎるのよ。あんた、うまいモン食べたいって言ってたじゃない」


 予想外の回答にあわてて立ち上がる俺。灼は火を起こした雪平鍋ゆきひらなべの中に酢、砂糖、塩の順番に入れ、ゆっくりとぜ始める。


「お前、寿司にぎれるのかッ!?」


 およそ職人のちからは程遠ほどとおい、小柄の少女が制服のまま、ピンクの可愛らしいエプロンを身に着けて、自慢げに微笑ほほむ。


「回転してる所はもちろん、そこそこの職人さんよりは美味おいしいわよ」


 確かに灼の作るメシは美味い。下手へたに外食するよりははるかにマシなのだ。とは言え『握り寿司』は素人しろうとが簡単に出来るものではないだろう。

 思ううちに、合わせ酢が出来上がり、お米をボールに移す。水を少量入れ、米粒をつぶさずり合わせるようにシャリ取りをする灼。その手つきは言うだけあって職人さながらだ。数回ほどいだ後、お米をざるける。

 俺は期待も不安も無意味なことだとさとり、自分のすべきことに集中した。


「灼、お前も既に気付いてるだろうけど、この『歴史遊戯ゲーム』という検証の重要人物は菅原道真みちざねであり、将来の菅原家だ。つまり様々な文献や史実をつなぎ合わせ、古今における影響力を考察してる」

「そう言えば、あんた一番最初にいたわよね。菅原道真みちざねってどういうイメージだって」


 灼は柳刃やなぎば包丁を取り出し、まな板の上に置く。奇麗な布巾ふきんたたんでかぶせた。


「ああ。お前はあの時『学問の神様』と言った。今まで会長からもらった歌を使って、ここまで検証してきたが、最後は俺たちの方から、この歌をき付けて終わりにする」

「どんな?」


 いぶしむ灼の前で、カウンターに放置されていた広告紙の裏に書いて見せた。


「――『ながめつる今日はむかしになりぬとも軒端のきばの梅はわれをわするな』

 新古今集・春上五十二。 詞書ことばがきは『百首歌たてまつりしに、春歌』ね。

 物思いにふけつつながめている今日の私。今こうしている時間が過去となり、忘れ去られてしまおうとも軒端のきばの梅よ、お前は私を忘れないで……やっぱり式子内親王なのね」 


 ふくみを持った顔で灼がつぶいた。俺は感慨かんがいを胸中に隠し首肯しゅこうする。


醍醐だいご源氏・高明たかあきら流で、源家長いえながという鎌倉時代前期の公家が記した日記に、

――『……斎院<式子内親王>せ給ひしまへの年、百首の歌たてまつらせ給へりしに、「軒端のきばの梅は我を忘るな」とはべりしが、大炊おおい殿<式子内親王が晩年過ごした屋敷>の梅の次の年の春、心地良ここちよげにきたりしに「ことしばかりは」とひとりごたれはべりしに……』と、ある。

 式子しきし内親王が薨去こうきょされた年<建仁元年:1201年>の前年に、後鳥羽ごとば院の求めに応じてんだ百首歌の中に「……軒端の梅よ私を忘れないで」という歌があった。そして年がぎた今も、主を無くした大炊おおい殿の梅は色鮮いろあざやかに咲いている。

 せめて今年くらいは……悲しみの余り、私は思わず上野岑雄かみつけのみねおの歌、

――『深草ふかくさ野辺のべの桜し心あらば今年ばかりは墨染すみぞめに咲け』と口ずさんでいた……。

 これが俺の意訳だ。源家長いえながは『新古今和歌集しんこきんわかしゅう』の編纂へんさん事業では事務方を中心に活躍した人で、藤原定家ていかや父親の俊成しゅんぜい鴨長明かものちょうめいとも交友があった。

 定家の『明月記』同様、『源家長日記』にも式子内親王の為人ひととなりまでうかがえる。

 もちろん内大臣中山忠親ただちかの日記『山槐記さんかいき』や平信範の『兵範記』など記録的な内容が多数残されてるが、他の同腹姉妹より圧倒的に記述が多いということは、それだけ影響力があったんだろうな。

 ちなみに、正治しょうじ二年<1200>十一月二十二日『正治初度百首』――現代でいうところの『宮中歌会はじめ』の 詠進歌えいしんかだが、『明月記』の正治二年九月五日条によると、事前に内親王は定家に見せてたようだな」


 チクリと心の奥に痛みがうずいた。嬉しいこともたのしいことも二人で二人分。一緒に喜び合いたいと願うのは恋する女子の特権だから。

 灼はエプロンの端を握り、自然とうつむいた。


「……何かわかる気がする。特別な人に見せたいと思うのは、自慢したくてめてほしいから」


 俺は内心、こそばゆいのを感じながら、


「うん。『明月記』の八月時点で、式子内親王は既に出詠しゅつえいが決まってたし、り切ったんじゃないかな。ところで、この歌を見て気付く点はないか?」


 灼が顔を上げると、そこに俺の他愛たあいない笑みがあった。「ふふっ」っと微笑ほほみがれて、心が軽くなる。


(そうだ。あたしは、平良と過ごす、


 痛みと寂寥感せきりょうかんき抜け、熱さが頬だけでなく胸にも宿やどり、灼は凛然りんぜんと答える。


実朝さねともの歌。そして実朝さねとも式子しきし内親王も『本歌取ほんかどり』が得意な定家と密接な関係にある。その二人の本歌が菅原道真みみざねということね」

「いつの時代も『いいもの』は誰でも真似まねたがる。そこに高い学識があれば、誰でも知りたいと思う。その代表格が菅原道真みちざねだということだな」


 俺は強く大きくうなずいた。

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