第四十三話:薄幸の美女『式子内親王』~検証⑧~






               ※※ 43 ※※



 

 その夜。

 夜半を越え、空に垂れ込めた曇雲が街に冷たい小糠雨こぬかあめとばりろす。やがて屋根を打つ雨音がはっきりと聞こえ始めた。


「朝までに止むかな?」


 俺は意味のない自問をして『兵範記ひょうはんき』を広げた。

 この書物の作者は平安末期から鎌倉初期にかけての公家で、桓武平氏高棟たかむね流の平信範のぶのりである。

 葛原親王から第一皇子・高棟王たかむねおうへと流れをくむ家系は所謂いわゆる『日記の家』と呼ばれ、平範国のりくにによる『範国記』や平知信とものぶの『知信記』等、代々書き記す日記が平安時代後期の朝廷や公家たちの活動、朝廷の儀典について知る上で貴重な史料となっている。

 さらに『兵範記』原本の特長として、大量の紙背しはい文書であるということだ。紙背文書とは、摂関家政所まんどころ別当職や蔵人頭くろうどのとうを務めていた頃の訴訟・行政文書の裏側を日記に利用しているというエコな文書のことであり、当時の摂関家の内部事情や蔵人頭の業務内容がうかがえる史料ともなっている。

 その中でも1993年、京都大学附属図書館報『静脩せいしゅう』に掲載された上横手うわよこて雅敬まさたか先生の論文によると、『兵範記』の断簡である『嘉応元年七月廿四日、式子内親王斎院退下条』の裏書に「……斎王 高倉三位(藤原成子)腹 御年廿一」と記されているのが発見されたとある。これにより定かでなかった出生年が判明したのだ。


 式子内親王は平治元年<1159>十月二十五日、十歳で内親王宣下せんげを受け斎院さいいん卜定ぼくじょう。つまりうらないによって定められて以来、約十年間、嘉応元年<1169>七月二十六日に病により退下たいげするまで賀茂神社に奉仕した。 そして約五十年の生涯を独身で過ごした薄幸の姫宮である。

 退下後は、藤原季成すえなりの娘である母の高倉たかくら三位さんみ成子の実家、高倉三条第から父・後白河院の法住寺殿内、その後、叔母である八条院暲子あきこ内親王のもとに身を寄せた。

 しかし、八条院とその姫宮を呪詛じゅそしたとの疑いをかけられ、やむを得ず八条院から退去することとなる。

 建久三年<1192>後白河院崩御ほうぎょにより大炊御門おおいみかど殿ほかを遺領として譲られたが、大炊御門おおいみかど殿は九条兼実かねざねに事実上横領されており、建久七年の政変による兼実失脚までは居住することができなかった。

 建久八年<1197>には蔵人大夫・橘兼仲かねなか夫婦の託宣たくせん事件に連座したと疑われ、洛外追放が検討されたが、実際に処分は行われなかった。

 正治元年<1199>五月頃から年末にかけて病が重くなる。定家が式子内親王のもとへ何度となく参上している。定家の日記『明月記』によると式子内親王の病状を心配し、一喜一憂を繰り返している。

 また、なかなか快方かいほうに向かわない病に対し『近代ノ医学、事ニテタノムベカラズ』といきどおりをあらわにしている。

 現在では胸の腫瘍しゅようと足のれから、乳癌にゅうがんわずらわっていたのではという説もある。その後、東宮・守成親王<順徳天皇>を猶子ゆうしとする計画が上がり、定家自身も奔走ほんそうするが、病のため実現せず、建仁元年<1201>一月二十五日薨去こうきょ。享年五十三歳。

 

「二十一歳から五十三歳まで約三十年。病弱な身体で、宿無やどなしのたらい回し、挙句あげくに嫌疑をかけられ追い出されるか……身分があるだけに気の毒だな」


 俺は思わず同情の声をらした。欠伸あくびが出たので、ベッドにもぐる。


「朝が早いし、続きは……」


 早くも轟沈ごうちんしていた。




 朝になっても雨は止んでいなかった。

 昨日の柔らかな陽光ようこうさわやかな青空と違い、鉛色の雲翳うんえいが天をおおう。時折、吹き抜ける寒風が横並びに進む濃紺の傘と鮮やかな赤い傘を叩く。

 肌を刺す風の中、灼は手袋越しに息を吹きかけ、手のひらをり合わせた。


「急に冷えてきたね。下手へたすると雪かな?」

「そうだな……」


 俺は、降り止まぬ氷雨ひさめの先を見つめ、白い吐息をらす。


「平良、昨日遅くまで式子しきし内親王について調べてたでしょ?」


 赤い傘の下から、灼があきれ半分でいてくる。俺は素直に是認ぜにんしたものの、疑問が浮かんだ。


「その通りだが……なんで、分かったんだ?」

「だって寝る時、あんたの部屋が明るかったのが見えたから」


 通りを隔てた斜向はすむかいにある家の二階が灼の部屋だ。確かに目視は可能だろう。俺は無意味な質問を投げたことに自省じせいの念を抱いて頭をく。

 灼は、そんな態度を気にすることなく、関心の色だけを表に出した。


「で、なにか気付いたの?」

「ん? んん……気付いたというか、考えさせられたというか……」


 何時にない曖昧あいまいな返事に、灼は釈然しゃくぜんとしない表情を見せる。


よわい十年で、仏事や不浄を避ける清浄な生活を強いられ、結果的に死ぬまで悩まされる病を二十歳はたちで得てから退下たいげ。その後も、宿無やどなしで知り合いを点々とする中で、一度は呪詛じゅその疑いで追い出され、二度目は託宣事件たくせんじけんに巻き込まれ、都を追放されかけてる。私の人生って何? と思ってても不思議じゃないな」


 深く嘆息した俺は続ける。


「まあ、退下後は帝や貴族と結婚して、第二の人生を歩んだ斎院さいいんも少数ながらいたらしいが、式子しきし内親王が生きた時代は源平の動乱期、末法思想が蔓延はびこる世界だ。夢も希望もなかったに違いない。

 だからこそかな、秘めた恋だけでも生きたあかし――まされた『命』の歌に魅了みりょうされる。今も昔も変わらない、窮屈きゅうくつな社会に幸せってあるのかなって……」


 多分気付かれただろうが、再び吐息を漏らす。心が重い。

 灼は言葉が終わったとみるや、こらえるように傘を持ってうずくまる。それはすぐにはじけた。


「……っく、くく」


 無邪気で痛快無比つうかいむひな笑い声が、冷えた空気を渡り曇天どんてんつらぬく。


「っあはははははは!」


 大きな栗色の瞳に涙をめて、憮然ぶぜんとした俺の背中を思いっきりたたいた。


「平良、全くあんたらしくないわッ。何、気分出してるのよ」

「……そんなに笑うことかよ?」


 一頻ひとしき哄笑こうしょうし切った灼は、息を整えて、「ごめん」と俺の抗議に謝罪する。そして、傘をクルクルと回しながら、僅かに先を歩いた。


「あんた、会長のこと考えてたんでしょ?」

「べ、別に……俺は……」


 途切れ途切れの言葉が言いよどみ消えた。俺は無言のまま、灼の背中に付いて行く。

 小柄な体躯たいくに、平均以下の背丈せたけ。しかし、均整の取れたプロポーションを今は黒褐色のロングコートで包んでいる。傘のふちからは、揺れる栗色のツインテールがのぞいていた。


忌避きひされる式子しきし内親王と嫌悪けんおされる山科会長。俺は無自覚に重ねていたのかも知れない)


 俺は、傘の柄を握る自分の手に視線を移し、言葉をつむぐ。


「確かに、俺は会長のことが気になってる」

「そう」


 赤い傘の回転がふいに止まり、灼は素っ気なく答えた。胸を突き刺す、見えない傷の痛みにうめきたくなるのをこらえて。だから、前を向いて言う。小さな幸せの為に。


「あたしは、あんたと歴史検証するのが一番たのしい。だから生徒会の仕事、一緒に頑張ろッ」

「すまん……」

 

 灼は、何でもない一言を、泣きたいくらいに抱きめていた。俺はその満たされた思いを感じて、ふと言葉をこぼす。


「なあ、灼」

「なに?」


 傘の下に、顔を隠したままく灼。


式子しきし内親王は幸せだったと思うか?」

「……」

 

 すぐには答えを返せなかった。かと、安易あんいな回答で終わらせることに、灼は躊躇ちゅうちょした。

 絶対だった二人だけの、当たり前の世界。しかし結衣ゆい先輩によってさぶられてから、その繊細せんさいな、れると壊れてしまいそうな存在だったと知ってから、自分の不甲斐ふがいなさにくやしさを覚えた。不安になった。

 体育の授業、上級生が校庭で球技をしていると、つい平良を探している自分。

 放課後、校舎の入り口で平良を待つ、ちょっと恥ずかしい嬉しさ。

 そんな些細ささいなことで一喜一憂いっきいちゆうする自分だから気づいたのかもしれない、平凡な答えの意味に。


「あたしには分からない。幸せなんて人それぞれだから。でも、幸せだったといいなって思う」

 

 俺と灼の言葉は途切とぎれ、沈黙がりる。雨粒が傘をたたく音だけが二人を包み込んだ。

 やがて、千葉県の動脈とも言える幹線道路を渡り、学校へと続く長い坂道のふもと辿たどり着く。俺は足を速めて隣に並ぶ。傘の下から互いに見つめ、


「急ぐか」

「うんッ」


 語って、頼って、一つの道へ向かった。

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