第三十八話:『後鳥羽院』と『定家』と~検証⑦~





          ※※ 38 ※※





「えっと……後鳥羽院?」


 事態がピンとこず首を傾げる灼。俺は次の色紙に灼を誘う。



――『逢みてののちの心にくらぶればむかしは物も思はざりけり』


「この歌は権中納言敦忠あつただだ。ちなみに同じく『百人一首』に収められてる右近うこんと恋人だったとも言われてる。で、右近という女性は艶聞えんぶんの多い女性だったらしい。で、この意味は……」


 突如、大きな栗色の瞳に顰蹙ひんしゅく光彩いろあらわにし、険悪な顔で睨む灼。


「まさか、この歌の意味もあたしに言わせる気? ……いやらしい」

「これは純粋に学問だッ! 確かに男女の情事だけど……愛憎あいぞうの一言につきるけどッ! 主婦が観てる昼メロドラマのワンシーンだと思えば問題ないだろ?」


 思わず狼狽ろうばいした俺は、声をゆららし、表情を真っ赤にして弁明する。灼は上目づかいで俺を睨みながら、羞恥しゅうちを隠さず吐露とろした。


「こんなエッチな歌の意味を女子に言わせるなんて……ヘンタイ」

「なんで、そうなる!?」


 動揺しきったまま、たまらず悲鳴を上げた。そして、すっかり観念した俺は、深く大きく嘆息する。


「はあ……。『拾遺集しゅういしゅう』巻十二の恋に『題知らず』とある歌で、つまりまれた状況が不明というわけだ。意味は、まあ……」


 俺は、できるだけさりげなく話そうと心がける。


「恋がれていた貴方とようやく結ばれた。しかし、どうだろう……。片思いだった頃に比べて苦しみが増してしまった。貴方に対する不安や嫉妬しゅっと、独占欲。あの頃はただ貴方と愛し合いたかっただけなのに。こんな思いで苦しむなんて考えもしなかった……ってな感じだ。

 この歌が誰てだったのかは不明と言ったが、私見で言うと多分、浮気ぐせのある右近うこんに対してだろうな。ちなみに……」


 いぶかる灼の肩越しに指差す先の色紙を読む俺。


――『わすらるる身をば思わず誓いてし人のいのちの惜しくもあるかな』


 この歌を非難と取るか、惚気のろけと取るか。

 愛とか恋とか、結局どうしようもないものに対し、灼はもはや理解というより観念した顔で受け入れている。


(あたしも人のこと言えないけど。だから、こんなこと考えるのかな)


 灼の思いが、脳裏ですり抜ける。


「これが右近うこんの歌だ。『拾遺しゅうい集』巻十四・恋に収められており、意味は――いつかは忘れられるだなんて思いもしなかった。私は貴方への愛を神の前で誓ったというのに……。いいわ、心変わりした貴方にはきっと神罰が下るから。……でも、でもね、本当は嫌なの。罰が下って、もしも貴方が死ぬようなことがあったらと思うと。

 ちょっと自分でも言ってて恥ずかしくなるけど、おおむねこんな感じだな」


 俺は、照れ笑いを隠しきれずに続ける。


「さっきも言ったが、右近は艶聞えんぶんの多い女性だ。『大和やまと物語』の記述によれば、醍醐だいご天皇の皇后隠子おんしに仕える女房だったらしい。

 また、敦忠あつただの他、桃園の宰相<藤原師氏もろうじ>頭の中将<藤原定国さだくに>とも恋仲だったという噂があったとのことだ。

 しかし、そんな愛憎劇も、定家によってくつがえさせられる」

「それが、後鳥羽院に関係する?」


 何気ない灼の問いに、俺はガリガリと頭を掻いた。


「ま、まあ……最終的にだが、その前に聞いてほしい」


 俺は改めて権中納言敦忠あつただの色紙を見上げた。


敦忠あつただは左大臣時平ときひらの三男だ。道真みちざね失脚しっきゃくさせた後、時平は徐々に落ちぶれて三十九歳で死に、兄・保忠やすただ、敦忠の姉、その夫の保明やすあきら親王も若死にする。


――『かくあさましき悪事を申し行ひ給へりし罪により、この大臣おとど<時平>の御末はおはせぬなり』

 

 道真を冤罪えんざいで追い落としたため、時平の子孫はその罰を受けるのである……と、いうことだが、『大鏡おおかがみ』にはさらに『われは命短き族なり、必ず死なむず』と敦忠あつただ自身も言ったとある」


 もはや、予想外ではない、確信に近い……だが、不興な眼差しで俺を見る灼。それを意ともせずに俺は続けた。


「そして右近うこんと近しい仲であった桃園ももぞの宰相さいしょうである藤原師氏もろうじも時平の子だ。また頭の中将・藤原定国は、醍醐だいご天皇が即位すると、急速に出世し、大納言まで昇る。

 さらに定国は、藤原菅根すがねと共に醍醐だいご天皇に対して「天下之世務以非為理」<天下の世務、もってことわりあらざるなり>と奏上そうじょうし、菅原道真みちざねの失脚するきっかけを作った。

 まあ、説明はここまでとして、ここからが考証だ」


 見上げる灼の表情が引き締まる。俺は相好そうごうを崩し、灼の小さな頭を撫でた。


「定家によって、道真の歌は『流人るにん』の象徴となった。親友である在原業平なりひらの歌は『流人』の強調であり、忠平ただひらの歌にある『……今ひとたび』を旅と掛けて『流人』に対し、同情と再会の祈願となった。

 つまり、歌をあわせ別の意味を構築することで、隠岐に流された後鳥羽院の無聊ぶりょうを慰めていたのではないかと思う」


 釈然しゃくぜんとしない灼は、小首を傾げて言う。


「そのためにわざわざ『百人一首』を編纂したという事ね。どうしてそんな迂遠うえんなことするの? 普通に手紙出せばいいじゃない」


 俺は灼の頭に軽く置いた手を大きく回し、全く違う色紙を指差す。


――『人もをし人もうらめしあぢきなく世を思う故に物思う身は』


「……随分と憂鬱ゆううつな歌ね。誰よ?」


 灼の率直過ぎる感想に、俺は答える。


後鳥羽ごとば院だ。意味は達観たっかんというか諦念ていねんというか……。

――なんてつまらない世の中だ。あるときは人を愛おしく思え、またあるときは憎くもある。ただ流されていく人生の中で、出会いなんてどれほどの価値があるというのだ……と、いう感じだが」

「後ろ向きよね。あたしが一番嫌いなタイプだわ。まあ、それは良いとして、こんなにうつになって沈み込んでいる後鳥羽ごとば院を定家が慰めようとしたというのは分かったけど?」


 俺は大きく頷き、話を戻す。


「詳しくは北条氏の話をするときにするが、承久しょうきゅうの乱後、定家は政治的配慮から後鳥羽ごとば院との断交を余儀なくされる。

 さらにどうやら後鳥羽院は定家をも恨んでいるという噂も聞く。かつては歌の師弟関係でもあり、親密な関係であったにも関わらず、だ。だから無聊ぶりょうを慰めると同時に、弁明か懺悔ざんげに似た思いもあったのだろうと思う。

 ところで、ここで話は変わる」


 あちこちに飛ぶ話題に、灼は半ばあきれ顔を作った。その集中力の途切れに気を遣いつつ、


「……すまん。俺が最後に言いたかったのは、定家は道真の不遇と後鳥羽院の境遇を重ねて『物思う』心を 慰撫いぶした。

 反面、藤原時平に関わる人の歌にある『思はざりけり』或いは『身をば思わず』というような反対の語彙ごいを置くことで敵意を暗示している。

 つまり、忠平の流れを受ける定家にとって、道真の正当性が極めて重要であると読みくことができるというわけだ」

「今回……あんたの話、かなり分かりにくかったわ」


 苦渋くじゅうと疲労に満ちた表情を見せる灼。確かに今回は少々強引に過ぎた。

 俺は反省を混ぜた笑みを浮かべ言う。


「少し、何処かで休憩きゅうけいするか」

 「うんッ」


 灼が、雲間から輝く太陽のように明るく笑った。

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