第三十五話:その『一日』




 

               ※※ 35 ※※





 当たり前の光景を、常にあるものと信じるのか。いつまで続くのかと不安を胸に秘め、慄くのか。今、この瞬間を楽しもうと開き直るのか。何も考えず、ただ流れるのか……。

 俺は、灼との当たり前が、こんなにも繊細で、もろく、傷付きやすいものだったと、今まで考えすら及ばなかった。

 帰りは柏駅前まで歩いた。今日は日曜日なので、駅から伸びる大通りは歩行者天国となっている。

 夕飯の買い出しをしている主婦、帰路につくサラリーマン、遊び疲れて、互いに別れを告げる小学生たち。歩車道構わず、行き交う人々でごった返していた。

 しかもイベント日だったらしく、所構わず商品を広げ、連なる露店、着ぐるみのキャラクターたちがねり歩き、ストリートミュージシャンすらも人混みの中に飲まれ、沈んでいく。

 俺は、肌寒い夕風と多くの人出に揉まれながら、この大通りの歩行者天国をゆっくり歩く。灼は、シャツの背中を抓んで、後ろから無言で付いて来ていた。


「お? 今日は豚肉の特売かァ」


 多目的スーパーを横切った時、俺はタイムセールの看板を見て、意味もなくに口にした。内容はどうあれ俺たち二人にれ込める重苦さを吹き飛ばしたかったのだ。

 途端に灼が急に俺の腕を引っ張り出す。

 

「今日は中華を作るッ! 買い出し付き合いなさいよねッ」


 店舗に飛び込むように入った灼は、俺の腕を引き、ずんずんと人波をかき分け、地下の食品売場へエスカレーターで下る。その間、俺は手を引かれるというより、振り回されるように、連れて行かれた。


「おまえ、まさか今日も俺んちでメシ作るのか?」

「そうよ、悪い? そうだ、先に電話しとこ」


 灼はスマホを取り出し、何処どこかかへ架電する。手はもうはなたれているが、俺としては付いていくほかない。数秒後、灼が軽やかに切り出した。


「あ、お義母さん、灼。今日の晩御飯の予定は? ない? じゃあ、今晩あたしが作るね。え? 中華の予定よ。今、平良とお買い物中」


 ……って、俺の母親に電話したのかよッ。横にいても大きな声が漏れて聞こえる。聞く気もないので無視していると、灼が俺にスマホを渡した。

 

「ん。あんたに替われって」 


 俺は面倒臭そうに受け取り、耳に添えた。


『あ、平良。あんた、灼ちゃん怒らせたの?』


 母親のひそひそ声に、俺は「いや」と否定する。


『だって、おかしいじゃない? だいたい灼ちゃんが中華を作るときって、鬱憤晴うっぷんばらしよ。大量の皿がテーブルに並ぶのよッ。今からもう胸焼けがしてきたわ……。

 お父さんには、整腸剤と胃薬を用意しないと……。と、とにかく双月の家にはお母さんから連絡するから、あんたは家に着くまでに、灼ちゃんの機嫌を損ねないようにしなさいッ』


 一方的に話し、一方的に電話を切る母親。俺は憮然としてスマホを灼に返す。


「お義母さん、何て?」

「おまえの料理、楽しみにしてるってさ」


 少し投げ遣りな口調で、しかし母親からの直言を守るべく、細心の注意を払って言う。灼は無邪気で明るい笑みを浮かべた。


「じゃあ、今日はいつもより張り切っちゃおうかな?」

 

 いつしか買い物カゴが一杯になっていく様を、俺は両腕にかかる重量に耐えながら、ただ見つめることしか出来なかった。





「ただいまぁー。今、帰ったぞ。ん? いい匂いがするな、ちょうど腹が減ってたとこだ」


 父親が、帰宅を告げ、リビングの戸を開け、室内をのぞく。瞬間、硬直した。


「あら? お義父さん、お帰りなさい。お仕事、お疲れ様ァ」

「あ、ああ……」


 父親は生返事で、すでに灼の言葉は届かない。視線はテーブルの上にある皿の量に食いついたまま、唖然あぜんと凝視していた。


「ちゅ、中華……!?」


 父親のうめきに、灼は満面の笑みをたたえて言う。


 「今日は特に頑張ったわ。『糖酢里脊タンツーリージー』『西紅柿炒鶏蛋シーホンシィチャオジータン』『魚香肉絲ユイシャンロウスゥ』『香菇油菜シャングゥヨウツァイ』でしょ。

 それと『宮爆鶏丁グォンバオジーティン』『木須肉ムゥシュウロウ』『三鮮湯サンセンタン』『抜絲苹果バースーピングォ』『蛋炒飯ダンチャォファン』『家常豆腐ジャァチャンドウフ』……足りなければ、まだ作れるわ」


 父親の背中からまがまが々しい暗澹あんたんたる煙のような気配があふれ出す。そして魔物のような目つきで俺を見た。狼狽うろたえ、慌てて首を左右に振る俺。

 そんな、父子の水面下における攻防も、灼は意ともせずに、甲斐甲斐かいがいしく父親を席へ誘導する。


「お義父さんにはお酒のおつまみに、『土豆絲ツゥドウス』に『蒜泥黄瓜スヮンニィホヮアグゥワ』の二種類の涼菜リャンツァイを用意したわ。どうぞ召し上がれ」


 父親は、もはや処刑台に立たされている罪人のように、悟りきった表情で椅子に座る。俺も向かいに座ったところで、


「平良。事情は知らんが、俺はすでに諦め……覚悟を決めた。お前も男なら責任を取れ」

「当然だ」


 俺は、思わず腹を撫で、強く大きく頷く。


「では、いただきましょうかァ」


 母親の一言で、一斉に放たれた「いただきますッ」の言葉とともに、俺と父親は、重厚な敵陣地を突貫する戦士さながら、熱い闘志で箸を突き出した。




 

「うっぷッ……『一将功成りて万骨ばんこつる』だな……。俺は頑張った」


 父親が、ソファーに横になって、大きくふくれた腹を摩りながら自賛した。


「いや、オヤジ……。ここは『夏草やつわものどもが夢の跡』だ」


 俺も、父親同様、大きな腹をさすりつつ、椅子から動けずにいた。視線をテーブルの上の大量の皿に移す。見事に全て平らげた後だった。

 灼の料理は美味い。美味いので食べ続けてしまう。しかし、灼は中華に関しては尋常でない量を作るので、身体をどうしても無理させるはめになるのだ。


「二人とも何を言ってるのやら。意味不明だわ」


 灼手製の杏仁豆腐あんにんどうふ頬張ほおばり、とろけるような笑みで言う母親。さりげなく母親は全皿を少しずつしか摘まんでなかったのを俺は見ていた。

 デザートを美味しく食べている母親が恨めしい。俺も食べたいが、入る隙間が全くないのだ。


「灼ちゃん、今日は遅いので泊まっていきなさいな。おウチに話はしてあるわ」

「……うん、そうする。なんか今晩は一人だと、ダメになる気がする……」


 料理しているときは元気一杯に見えた灼が、食事中は全く元気がなかった。母親が話しかけても、笑う直前のような、ぎこちない困り切った顔を見せる灼。そして今、灼は洗い物を終え、俺の隣に座った。

 俺の指先と灼の指先が触れたとき、不自然に手を引く灼。その一瞬後の、躊躇ちゅうちょ

 苦しみとも悲しみともとれない、重く嫌なものが心の中で渦巻き、それらを必死に耐えている表情。大きな栗色の瞳に、揺蕩たゆたう哀しい光彩いろ

 

「……今日は色々あったし、疲れたな……。とはいえ、今晩おまえに付き合うくらいは出来る」


 灼は僅かに驚き、俺を見上げる。


「……たまには、俺を思いっきり頼ってもいいぞ……?」

「ん……」

 

 羞恥心を隠しきれない、不器用な俺の言葉を、安堵の表情で僅かに頷き、微笑以下の小さな笑みを零した。






 入浴を終えた俺は、自分の部屋へ戻った。

 灼とゲームをして、歴史以外の他愛のない話をして、程よい時間で灼は去った。その後、今日までの歴史検証を整理して、ベットへ潜り込む。

 疲れているときは、寝付きが良いもの……らしいが、疲れすぎているというのは、存外眠れないものである。浅い睡眠で何度も目覚めながら、うつらうつらとしているうちに、意識が遠のいてしまっていた。

 翌朝。ぼんやりとした頭で寝床をさぐる。寝返り打ったとき、柔らかくて温かいものに当たった。

 ほっとするような、いい匂い。


「……じ、侍従じじゅう?」

 

 言って、自分の言葉に驚愕きょうがくまぶたを開くと、目の前に吐息といきがかかるほどに近く、灼が穏やかな寝息を立てて寝ていた。

 繊細可憐な、見かけ通りの幼い、安らかな寝顔。

 清らかな、その姿に見惚みとれること一瞬、俺は身に覚えのない窮地きゅうきに立たされ、思わずパンツの中を覗き込み、分身に詰問する。

 こいつも無罪を主張していた。


「……平良?」

「……はわッ!?」


 俺は奇声を上げ、ベットの端まで後退あとずさる。灼は顔をこすりながら、上半身を起こした。少し寝癖のついた栗色の髪に、ほつれたおさげ髪。


「どうしたの? おはよう……」

「お……お、おはようございます」


 俺のぎこちない挨拶に「何、それ?」と、灼は満面の笑みを浮かべた。

 朝の光の中、輝かしいほどの、恋すら躊躇ためらうほどの、その笑顔がとてもまぶしい。

 俺は、まともに視線を合わすことが出来ないまま、


「えーと……その、なんで、俺のベッドにお前が――」

「愚息ゥー! 休日だからって、いつまでも寝てては……ッ!?」


 言いかけたところで一番厄介で一番見られたくない人間が、勢いよく扉を開け、室内に入ってきた。


「あ、お義母さん。おはよう」


 普段と変わらない挨拶の灼。


(お前、どうしてそんなに平静でいられるんだァ!?)


「まあ、まあまあまあッ!!」


 頬に両手を当て、みるみる頬を紅潮させる母親は、俺の前にズカズカと寄ってくる。そして、瞳を輝かせ、親指を立てた。


「でかしたッ、愚息よ!」


 ドヤ顔を近づけ、肩に手を置く母親。灼が隣で不思議な顔をして見ている。そして、母親は灼を両腕で抱きしめ、「これで灼ちゃんは、本当にウチの娘になったのねッ」と感慨深く言い放ち、スキップしながら階下へ降りて行った。降りてから、大きな声で「お父さんー」と叫ぶ声が聞こえる。

 弁明も許されず、取り残された俺は深く溜息をく。寝起き早々、疲労困憊ひろうこんぱいな俺を、やっぱり灼は不思議そうに見つめていた。






 着替えてリビングに入ると、母親はまるでお花畑でたわむれているような、軽やかなスキップで朝食の準備をしている。父親は無言のまま、椅子に座って新聞を読んでいた。

 俺と灼が着席すると、母親もエプロンを外し、席に着く。そして一斉に「いただきまーす」……もはや、これが我が家では習慣化してしまっていた。

 食事中、母親が俺と灼を交互に見ながら、終始ニヤケて頬をゆるませていた。父親は無言である。

 この公序良俗の塊である父親が怒鳴りも殴りもしないということが、逆に俺を萎縮いしゅくさせていた。


「ねえ、お父さん?」

「ん?」

「孫は女の子かしら? 男の子? あたしは女の子がいいわァ」


 俺は思わずミルクティーを吹く。せ返りながら、


「こここ、……これは俺も予想外で、変な真似まねは決して、いや多分……してないッ!」

 

 立ち上がり、抗議する俺。父親が重い口を開いた。


「平良。俺は未成年者の不健全な行為は決して見逃さない。しかし、お前たちは特別だ。俺たち夫婦と双月夫婦の冀望きぼうだ。でなければ、灼ちゃんの宿泊だって許すわけないだろ? 

 だから俺は一人の父親として言う。絶対に灼ちゃんを幸せにしろ。それがお前の責任だ」


 なんだか話が大きくなりすぎている。話の前後をみ取れない灼は、困惑した俺を見ている。


「とにかく、婚姻は灼ちゃんが十八歳になって以降だ。愛し合うのは構わんが、避妊ひにんはちゃんとしろ」


 俺は燃え尽きた灰のように抜け殻になって、椅子に崩れ落ちる。今度は灼が、崩れ落ちた俺の首根っこを持って強引に引き寄せた。

 びしびしと青筋を立てて、すごみと怒りに満ちた声が、低く漏れる。


「お義父さんの言った意味って何? あんた、あたしに変なことしたの?」

「ち、違うッ! 今朝起きたら、いつの間にかお前が隣で寝てて……って、そういえば、何でお前、俺のベッドで寝てたんだよッ?」


 熱く激しく、胸の奥から湧き上がった感情が、灼の頬と、両耳と、紅く火照ほてらせる。握る手も俺から離れ、何かを消し去ろうとするように、無茶苦茶な動きを見せた。


「ああ、あれは……だって、あんた言ったじゃん、頼っていいよって。だから一人で布団ふとんに入ったとき、怖かったの。不安だったのッ! 結衣先輩が、あんたのこと好きって言った言葉……。ずっと、あたしの頭から離れなくて。料理作って気分転換しても、全然気持ちが晴れなくて……。気が付けば、あんたの布団ふとんもぐり込んでた」


 ふいに落ち着き、優しい仕草しぐさで俺を見る。悲しみの上に嬉しさが重なり合い、そして残った晴れやかな気持ちを、大きな瞳に宿して。


「……あんたの背中に、ね。顔をめると、あんたの匂いがして……胸のつかえが、苦しいのが消えて行くのがわかったの。何でもないようなことみたいに安心したの」


 その余韻よいんひたるように、小さな笑みをこぼした。


「なァーんだ。何もなかったのね」


 俺たち二人の世界に水を差すように、母親が残念そうに言った。父親は、俺をヘタレと言いたげな視線を投げてくる。


「な、何だよ……?」


 俺の弱い声に、父親が腕を組み、うなる。


「結衣……先輩って、先日我が家に来たアイドルみたいな子だろ? 『たで食う虫も好き好き』とは言うが、難敵だな。まあ、しかし……二人とも青春してて良いことだ」

「愚息のどこがいいのかしら? あんなに美少女なのに。灼ちゃん、絶対に負けちゃダメよッ」


 二人とも、俺をけなしたいのか、灼を応援したいのか、どっちかにしてほしい。

 俺も灼も、乾いた笑みの端を引きらせ、互いを見合ったのだった。

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