第三十二話:淡い想い





               ※※ 32 ※※





「着いたァ!」


 灼は北柏駅のホームに降りて、ひと伸びした。

 眼下には手賀沼の水面みなもが輝いている。そのまま、改札口をくぐる俺の後を、慌てて引かれるように駅前へ歩を進めた。

 ゆるやかな坂道を並んで下りながら、灼は大きなバスケットを腹部の前で両手に持ち、終始にやけている。いや、とろけているといってもいいだろう。


「……灼、おまえ随分ご機嫌だな?」

「そう? そう見える……かな? だって、あんたと二人でお出かけって久々じゃん」


 灼は頬とまぶたを熱くして、満面に微笑む。柔らかな日差しが、無垢な表情を包み込み、大袈裟と思えるくらいの歓喜の色を見せた。安堵と動揺が同時に、俺の胸の内を駆け抜けたが、不思議と違和感を覚えなかった。

 再びお互いの視線が重なると、照れ笑いを浮かべる灼。隠さず、明るく振る舞う灼の雰囲気に、俺は昨晩の出来事を思い出す。

 

 確かトイレで階下に降りたときだった。リビングから灯りが漏れているのに気づき、おもむろにのぞくと、灼が料理の仕込みをしているのように見えたので、思わず声をかけたのだ。


 「おまえ、こんな夜更けに何してる?」


 灼はわずかに驚き、複雑な笑みを送る。


「あんた、晩御飯の時、大好きな鶏唐揚、あんまし食べなかったじゃん? 何か失敗したのかなァって……」

 

 薬味と調味料に浸した鶏肉を優しく、しかし手元に集中して手もみする灼の横顔を見て、俺は言葉が詰まった。母親の雑言や、結衣さんの虚言に振り回されていた俺を、確かに愉しみしていた灼の鶏唐揚を堪能たんのうできなかった俺を、こんなにまで気遣う灼に、心が震えた。


「なあ、灼……」

「なによ?」


 それとなく、でも少々不自然だったかもしれない。俺は頬を掻き、灼に言った。


「明日、二人で松ヶ崎まつがさき城址に行ってみないか? そろそろ道真の検証も大詰めだが、それには、おまえが以前書いた論文を参考にする必要があるんだ」


 灼に一瞬、沈黙が降りる。俺の贖罪しょくざい悔悟かいごに対し、様子をうかがう気配を見せたが、灼はそれ以上に嬉しさをいっぱいにして言った。


「じゃあ、この鶏唐揚を揚げて、お弁当つくらなきゃ、ね!」


 俺は、それだけの笑顔で、何だか安堵と暖かさに満ちていた。




 俺が回想にふけっているそばで、灼が俺の腕を引く。坂を降り切った交差点に位置するコンビニの駐車場が喧騒けんそうに渦巻いていた。


「た、平良、あれ?」


 バイクや、スポーツカーで乗り入れている男性に囲まれている中心に、モトクロスウェアをまとったスレンダーな少女と、地味ではあるが着物を着こなした日本人形さながらの超絶美少女が立っていた。


「あ、平良君、待ってはったんやでェ~!」


 突如、和服の超絶美少女が、手を大きく伸ばし、そでを振る。さらにモトクロスウェアの少女も視線を向け、

 

「平良君とアッキーっス。お~い!」


 二人を囲っていた男性諸君が一斉に俺を見た。視線に羨望せんぼう憎悪ぞうおを込めて。そして隣に立つ灼が、途端に不機嫌になる。 


「ああ、あんた……、あの二人も誘ったの?」


 慌ててかぶりを振る俺。今朝早く、結衣さんは帰宅したと灼から聞いた。ゆえに、休日はもっぱら遅起きな俺が会って話をすることは出来ない。しかも、昨晩は灼と二人だけの話だったわけで……って、まさか!?


「昨晩、リビングで話してはるのを、偶然に聞いてしまいよってん。早朝から灼ちゃん、お弁当作ってはったようやったし、これは間違いない思うたんや。なんでウチも誘ってくれへんかったの?」


 ぱたぱたと草履ぞうりを鳴らしつつ、寄ってきた結衣さんが不平を鳴らす。俺の手を取り、えりの合わせ、胸の上に添えて上目遣いで俺を見つめた。後方の男性陣から、どよめきが走り、殺意も感じるも、断念したように、四散しさんし始めた。


「結衣先輩と一緒にいたら、声掛けられまくりッス。待ってるだけで大変スよ」

「あら? ウチがここに着いたときには、オザキちゃんの周りには殿方が数人いてはりましたえ?」


 バイクを押し、苦言を呈しながら俺と灼の前に辿り着く尾崎。まあ……しかし、設楽原したらがはらの時も思ったが、こいつはバイクが良く似合うな……って!?


「オザキ、お前、公道走っていいのかよ」


 俺の詰問に、「ジャ、ジャーンッ!」と言いながら、眼前に運転免許証を出した。


「いくらなんでも、偽造はよくないぞ?」

 

 わざと大袈裟にたしなめる俺に、尾崎は真面目な瞳で、思い切り頬を膨らませた。


「偽造じゃないッス! ちゃんと教習所で取ったスよッ。一発合格ッス! 十六歳になったんで問題なしッス。ただ、一本橋で後輪走行したら、教官に怒られたッス」


 そりゃ、激怒するだろうな。ともあれ、尾崎のテクニックは秀逸だ。一発合格も頷けた。


「そうか。まあ、おめでとう様。俺たちはこれで……」


 俺は右手を挙げ、左手で灼の腰を押しつつ、離れようとする。が、結衣さんが俺の襟首を抑えた。


「なんで、ウチ置いて行きはるのん?」

「なんでって……。今日は灼と松ヶ崎まつがさき城址に行くって約束……っ、グゲェ!」


 結衣さんが、いきなり後襟ぐりを引いたため、俺の首が絞まり、奇妙な声が出た。


「平良君が、ウチのために、山科さんの課題ゲームを引き受けたって、言いはりましたんちゃう?」

「平良ァ!」


 と、今度は灼が胸元を掴む。俺が蹌踉よろける瞬間、激しい屈伸くっしん運動を始める。


「お、俺じゃないッ! 昨晩、会長が結衣さんに電話したって言ったはずだァ!」


 そんなことは知っている、覚えている……はずなのに、受け入れがたい結衣さんの発言を、改めて本人の声で聞いた灼は、掣肘を加えることに躊躇ためらいは無かった。

 超絶的な美少女と、幼さを残す凛とした美少女の、僅かな心と心のぶつかり合いが弾けた状況に、尾崎が偽りのない穏やかな声で割って入ってくる。


「あたし、平良君のこと、好きッスよ」

「はァ?」


 予想外の出来事に、過敏な反応を示す、灼と結衣さん。と、同時に爆発的な怒りをき出させた。


「先輩なのに、全然年上の威厳ないから親しみやすいし、男子なのに、一緒にいても意識せずに愉しいし……。二人も『友達』として、同じ気持ちだったのが嬉しいッス」


 込められた、その言葉に、二人の膨れ上がった衝動が一気にしぼんだ。

 途端に、結衣さんが憐憫れんびんな瞳で俺を見る。灼は涙を流して笑い出した。意味も分からずのまま尾崎は満面の笑顔だ。

 こういうセリフを受け取るのは富樫の専売特許だと思っていたのだが。

 先程のまでの鋭敏な空気が、花が咲くように明るく穏やかになる。


(これは、しゃーなしか)


「結衣さんも、オザキも、同行するのは良いが、メシは自分で用意しろよ。後……結衣さん、すごく綺麗な衣装ですが、これから行くところは山です。とても難しいですよ」


 俺が、結衣さんの衣装を見ると、「イケズやわァ」ともだえながら、大き目の巾着きんちゃくから大き目のズボンらしきものを取り出した。それは、モンペだった。

 人知れず、小さな溜息ためいきを吐く俺。


(農作業でもありませんよ、結衣さん……)



 


 機嫌が多少、治ったとは言え、憮然とした灼を隣にして、俺の前方を和服にモンペの結衣さん、モトクロスウェアの尾崎が並んで歩く。常磐線じょうばんせんの高架線をくぐるるとき、ふと灼が声を上げた。


「平良、あれ見て」


 壁面に張り付けられている黄色い看板には、『道路面から↑80cm↓40cm』と表示されている。

 

「ああ、たぶん冠水表示だろうな、きっと。やっぱり、おまえの論文通り、古代は水運の主要地のひとつだったんだろうな」


 俺の言葉に、赤面すること一瞬。灼は松ヶ崎城址を見つけた。

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