第1話
「……いってきます」
テレビの音にかき消されそうなほど小さな声で呟きながら、学生鞄を持つ。私の声を聞き取ったお母さんが、「机の上に千円札置いておくから」と洗面所から顔を出さずに言った。
今日も遅くなるのか、と少し安堵しながら、私は玄関のドアを開ける。途端に、「あ、おはよう、
「え、人の顔見てため息つかないでよ。悲しいんだけど……」
「べつにいいでしょ」
そう言いながら、ドアのカギを閉めた。
「じゃ、一緒に行こう」
そう笑みを浮かべた加藤の言葉に、「え、嫌だ」と即答する。
するとガーン、と効果音がつきそうな顔で「えぇっ」と加藤が言った。
「なんでよー……」
うなだれる加藤に、小さく「うそだよ」と返す。するとさっきの姿が嘘みたいに、嬉しそうにぱっと顔を上げた。
「やった! お礼になんか奢るよ」
「え、なんで……?」
「お礼だよ。それともいらない?」
「…なら、お言葉に甘えて」
「了解! 昼までに考えといて」
明らかに弾んだ声で言う加藤を見ていると、小学生の頃、通学路に捨てられていた犬のことを、なんとなく思い出す。
あのときは土砂降りで、私たちは傘を差しながら帰っていた。そのとき、『ワンッ』という小さな鳴き声が聞こえてきたのだ。そちらを振り向くと、ダンボールに入れられ、びしょぬれになっている子犬がいた。
『茜ー、どうし……子犬?』
そのとき一緒に帰っていた加藤が、しゃがみ込んでいた私の隣にきた。そして、ダンボールを覗き込む。途端に、犬好きの彼は『かわいー、捨て犬かな』と、へにゃりと表情を崩した。しばらく子犬を撫でていた加藤だったが、『捨て犬…』と呟き、おもむろにこちらを見た。
『茜ん家、犬飼える? 俺は父さんが犬が苦手だから、飼えなくて…。でもあのマンション一応ペットオーケーだし、茜の方はどう?』
そう訊かれて、動物を飼ってみたいと思っていた私は、頬を緩ませながら『とりあえず、連れて帰ってみる』と答えてダンボールを抱えた。私はそのとき、お母さんが動物を飼う許可をくれることを、信じていたのだ。
けれどお母さんは動物を飼うことを拒否した。しかも、子犬を家に上げる事さえさせてくれない。『ちゃんとお世話する』『自分で全部する』と言っても、返ってくるのは『お金がない』『茜にそんなことができるとは思わない』という否定的な返事ばかり。高揚した気持ちが冷めた私は、『もういい』と呟き、ドアの外で待機していた加藤に『駄目だった』と伝えた。
罪悪感でいっぱいだった私の気持ちを感じ取ったのか、加藤は『茜は悪くないよ』と真っ直ぐな目で言ってくれた。そして、
『相談してくれただけでも、ありがとう』
と微笑んで、私の手をぎゅっと握ってくれた。大丈夫だよ、という思いが、彼のぬくもりから伝わってきて、泣きそうになった。
そして私達は、子犬を元の場所に戻した。
『ごめんね……』
子犬を撫でながらそう言った加藤のことは、今でも鮮明に思い出せる。本当に、苦しそうで悔しそうだった。いつも笑っている彼をこんな顔にさせてしまった自分の無力さ、そしてお母さんへの怒りに、私は唇を噛み締めた。
それから二日後、親子が子犬を引き取っていくのを見て、私達は安堵したのだった。
「——茜ー? 聞いてるー?」
加藤の声にはっとする。
「どうしたの? 具合悪い?」
「……ちょっと、あのときの子犬のことを思い出してた」
小さな声で言うと、彼は少し目を見開いてから、「そっか」と頷いた。
それからすこしの間、沈黙が続く。見慣れた風景の中を二人並んで歩いていると、加藤が唐突に「今日」と口を開いた。
「え?」
「今日の朝ごはん、なに食べた?」
加藤が、いつもの笑みを浮かべて訊ねてきた。
「……そういえば、食べてない」
「えっ、今日も? 昨日も食べてこなかったじゃん」
「起きてから身支度整えて、そのあとぎりぎりまで予習してたから」
「確かに勉強は大事だけど、朝ご飯は大事な元気の源だよ? ちゃんと食べなきゃ」
「うーん……」
私が首を傾げると、やれやれ、と加藤が肩をすくめた。
「なら、明日から俺が作ってあげようか?」
「えっ……」
目を見開き、「ううん、大丈夫」と首を横に振る。
「朝ご飯食べなくても、そんなにお腹減らないし」
そう言ってから、どうせ「嘘つかないで、本当はお腹空いてるでしょ?」とか、「遠慮しなくていいよ! 迷惑じゃないから」などと言われると思ったので、私は「ほら、着いたよ。早く行こ」と言って、門をくぐった。
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