第41話 空を舞う不死鳥
それは、一瞬の出来事だったのだが、妙に長い時のようにも感じられた。右腕を失ったアッシュは、残された左腕で魔力を練り上げながら、必死に思考を巡らせる。
絶望的な状況に追い込まれていることに間違いはない。助言が欲しいところだったが、何故かグラトの声は一切聞こえなくなっていた。だが、魔力供給だけは絶えず行われている。
ティトーノスは霊薬の力によって若き肉体を取り戻した。300年にわたって溜め込んだ魔力を持ちながら強靭で健康な身体を得たのだから、この世で最も強い存在であることは確かだろう。だが、あの亀裂は何だろう。一体、ティトーノスの身体に何が起きているのだろうか。
『エルフと守護竜シドラの血さえ手に入れば……』
ふと、東の果ての洞窟で魔女グレアが言っていた言葉を思い出した。霊薬を作るために必要なのは、エルフと守護竜シドラの血。たしかに、リシュナにはエルフの血が流れている。しかし、彼女はの体内に流れているのは、エルフの血だけではない。
「まさか、あの霊薬は不完全なものだったのか……?」
ティトーノスが飲んだ霊薬には、若き肉体を取り戻すほどの効果があった。だが、人の血――リシュナの父、新しき魔法使いの血が混じっていたことで、効き目が薄れていたのではないか。
魔力波に全集中力を注いでいるティトーノスは、自身の肉体が崩壊し始めていることに気が付いていないようだ。今、このタイミングしかない。アッシュは最後の攻撃を仕掛ける決心をした。
グラトから供給された全魔力、アッシュ自身の全魔力、そして、全生命力まで込めた、全身全霊の一撃。ティトーノスを倒すには、それほどのエネルギーが必要だとアッシュは悟っていた。
相打ちになれば十分だ。ティトーノスを戦闘不能状態にさえ追い込めれば、きっと後のことは、シオンとリシュナが何とかしてくれる。アッシュは仲間を信じていたのだ。
ティトーノスの邪悪な魔力に負けないほどの、強大な炎の魔力が燃え盛る。アッシュの全身から立ち上った炎の魔力は大きな翼となり、右腕を失っていることすら忘れさせた。
それはまるで、巨大な火の鳥――不死鳥のようだった。アッシュは魔力と命を燃料にして、激しく優雅に炎の翼をはばたかせた。
「ぬぅ、まだ抵抗するか……古き血の末裔に死を!」
憤怒と怨念が詰め込まれた禍々しい魔力波が放たれた。大地を抉り、風を斬り裂きながらアッシュに向かって一直線に飛んでくる。きっと、10年前にこの場所――北の村で放たれた魔力波よりも、さらに大規模な攻撃なのだろう。
「もう二度と、お前の好きにはさせない」
光り輝く炎の魔力を纏ったアッシュは、大きな翼をはばたかせながら地を蹴り駆け出した。ティトーノスの攻撃に少しでも触れれば、きっと即死するだろう。それほどの威力、怨念が詰まった攻撃だった。
そう理解した上で、それでもアッシュは走った。右にも左にも後ろにも……どこにも逃げ場はない。
――否、既にアッシュは知っていた。そこは、逃げるための場所ではない。自由を得るための場所なのだ。偶然か必然か、アッシュの親友はいつもそこで自由を謳歌していたのだ。
「力を貸してくれ……ラッチ!」
魔力で形作られた大きな翼を上下に動かし、アッシュは――――飛んだ。上空へ舞い上がったのだ。次の瞬間、ティトーノスの強烈な魔力波が眼下を通過する。禍々しく光る魔力の根源を辿っていくと、勝ち誇った笑みを浮かべた男の姿があった。
ティトーノスの肉体は乾燥した大地の如くひび割れており、その亀裂は今にも顔にまで達しそうな勢いだった。だが、怨毒に囚われた哀れなティトーノスは、依然として自分の身に迫る危機に気が付いていない。
「そうか、最初からラッチは自由だったんだ。その上で、僕のそばにいてくれた。ありがとう、親友。僕もようやく理解したよ」
胸中で親友への想いを吐露した途端、アッシュの魔力が大きく膨れ上がった。炎の魔力が燃え盛り、徐々にアッシュから人としての形を奪っていく。やがて、アッシュは人の姿を失い、完全なる不死鳥と化したのだった。
その瞬間、ティトーノスの表情が一変した。上空を舞う不死鳥の存在にようやく気が付いたのだ。恐れおののいた史上最悪の魔法使いは、唇を震わせながら小さく言葉を漏らした。
「あれは、炎の……精霊……?」
それは、ティトーノスが若き姿で発した最後の言葉となった。不死鳥と化したアッシュが、全魔力と生命力を燃やし尽くしながら、捨て身の攻撃を仕掛けたのだ。
両者の魔力が触れ合う刹那、ティトーノスの肉体は一瞬のうちに崩壊した。飛び散った臓器や肉塊や骨の欠片は、アッシュが纏っていた永遠の炎によって焼き尽くされた。史上最悪の魔法使いを倒すために放たれたアッシュの命を賭した一撃は、大地を激しく揺らした。その衝撃波は、精霊山やエルレミラまで届いたのだった。
かつて、大勢の罪なき人々が理不尽に命を奪われた北の村。10年後、そこは最強の魔法使いによる最終決戦の舞台となった。両者は己が持ちうる限りの魔力を解き放ち、全力で衝突した。
そして、最後に残されたのは、肉体を消失して声と魂だけの存在となったティトーノスと、身も心も朽ち果てたアッシュの死灰のみだった。
「一体、何が起きたのだ。何も見えぬ、何もわからぬ。小僧の魔力も感じぬ。どうなっているのだ」
全魔力を使い果たし、声と魂のみの存在となったティトーノスが呻く。その時、どこからともなく声が響いてきた。
『アッシュ……よく頑張ったな……』
声と共に戦地へ姿を現したのは、グラト――にそっくりな影のような存在だった。精霊山から動けないグラトの代わりに、自分の分身を魔法で生み出して送り込んできたのだ。何にも触れられぬ分身が、アッシュの死灰を優しく愛をこめて撫でるように動いた。
「ぬぅ? グラトの魔力を感じる。グラトめ、貴様、どこに隠れていた。殺してやる、殺してや……あ、あがっ」
虚空に浮かんでいたティトーノスの声と魂が途切れた。否――グラトの分身が放った封印魔法によって、ティトーノスは近くに転がっていた重い岩の中に封じられてしまったのだ。
口を持たぬ大岩の中に閉じ込められたティトーノスは、二度と喋ることができない身体となってしまった。
『声だけの存在でなければ、今の私の魔法など届かなかっただろう』
グラトの分身が小さく呟いた時、すぐ近くに深緑色の大穴が開いた。その中から、シオンとリシュナが姿を現す。
「ここは北の村……だった場所か」と、シオンが静かに言う。
きょろきょろと周囲を見渡すリシュナの顔には、元気がない。シオンも平静を装ったような表情を見せているが、手の先は震えていた。目元も少し赤い。
それもそのはず。精霊山の中腹からアッシュを見守っていた2人は、彼の魔力が突如消失したことに気が付いていたのだから――
『シオン、リシュナ。これは、私が与える最後の仕事……いや、最初の依頼だ。そこにある大岩を持って、精霊山を越えなさい。そして、その先に広がる海に沈めてきて欲しい』
「海? 精霊山を越えた先に海があるのですか」と、シオン。
『ああ、お前たちは見たことがなかっただろう。せっかくだから、見てきなさい』
「………………」
リシュナは言葉を発さなかった。というより、発することができなかった。目を伏せて、シオンの横にぴったりとくっついている。
「……行くぞ、リシュナ」
「…………うん」
シオンとリシュナはティトーノスが封じられた大岩を持って、精霊山の先にあるという海へ向かって歩き出したのだった。
2人は大岩の横に散っていた死灰の方を一瞬だけ見たが、何も言わなかった……何も言えなかった。
☆
初めての潮風。初めての波の音。雄大な碧い海がどこまでも続いている。ふと頭上を見上げると、オレンジ色の空の中で、白い鳥がゆっくりと大きく旋回していた。
「これが海……か。思っていたより広いな」
広大な海原を見下ろす崖の上で、大きな岩を軽々と持ち上げたシオンが言う。
「そだね」
相変わらず、リシュナの声は暗く沈んだままだった。
「……………………」
「アッシュも、海を見たことないって言ってた。見せてあげたかった」
ルビー色に光る赤い瞳から、大粒のしずくがこぼれ落ちた。顔をくしゃくしゃにしながら、肩を震わせた。
シオンは奥歯を強く噛み締めながら、胸の内へ押し寄せる哀しみの高波に呑まれないように必死で抗った。そして、ふうと息をついてから、大岩を海に向かって放り投げた。
「これで聖血魔導会は終わりだ。俺たちが…………勝ったんだ」
シオンの目は真っ赤に腫れ上がり、流れ落ちた数敵の涙は海の中へ溶け込んでいった。
ティトーノスが封じられた大岩は、深い深い海の底へと沈んでいった。不死の力をもつ史上最悪の魔法使いは、暗い海の底で永遠の時を強いられることとなったのだ。
「本当に終わったんだね」と、リシュナ。
「ああ、これで全て終わった。エルレミラでアオイが待っている。帰ろう、俺たちの魔法屋へ」
☆
『アッシュ、アッシュ。聞こえるか』
グラトの声が響く。
「ここは……僕は死んだのか? ティトーノスはどうなったんだ」
アッシュの目には何も見えていない。だが、グラトの声だけは聞こえていた。
『声と魂だけの存在となったティトーノスは、岩の中へ封じ込めた。その岩は、シオンとリシュナが海の底へ沈めてくれた。もう安心していい。お前は役割を果たしたのだ』
「海……海って、サメって生物がいるところだっけ。ああ、見てみたかったなぁ。もう見れないのかな」
『何を言っている。お前の人生は、まだ始まったばかりだろう? アッシュの翼は何のためにあるのだ。自由を求めて、羽ばたきなさい』
その時、黒い灰の中で眠っていたアッシュは、短くも長い夢から覚めたような気がした。
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