第23話 黒い三角形
泥まみれになりながら、真っ暗な空の下を走り続ける。アッシュは流纏走術を使っていなかった。標的の移動速度が遅いのと、自身の魔力を少しでも温存するためだ。
以前、羊丸呑み事件の犯人を倒した時は、シオンの強力な剣撃のおかげで勝てた。だが、今回は1人だ。アッシュは不安を拭うように顔へ跳ねた泥を叩き落とし、覚悟を決める。
強い魔力の気配は確実に近くなってきている。だが、日を遮る厚い雲と打ち付ける雨は視界の大部分を容赦なく奪ってくる。同時に、大雨のせいで魔力の正確な位置がわかりづらい。
その時、アッシュはすさまじい殺気のようなものを感じ、振り向いた。しかし、目の前には何もいない。アッシュは自分の直感を信じ、瞳を上下左右に動かして気配の正体を探した。
「……?」
アッシュが視線を下へ向けた時、真っ黒い三角形の物体が近づいてきていることに気が付いた。三角形は左右にゆらゆらと揺れながら、じわじわと接近してきている。
次の瞬間、地中から無数の牙を持った6~7mはありそうな巨大な怪物が姿を現した! 禍々しい魔力の持ち主は、地中を海のように泳ぐサメの魔獣だったのだ。しかし、海というものを見たことがアッシュは、当然のごとく、サメという生物の存在すら知らなかった。
「何だ、魚の、魔獣……?」
ズラリと並んだ牙を輝かせるサメの魔獣は、大口を広げてアッシュの頭を食いちぎろうとした。だが、瞬時に流纏走術に切り替えたアッシュは間一髪で回避。すぐさま反撃に出る。
アッシュは魔力を練り上げ、右腕に炎の翼を纏わせようとした。しかし、魔力が羽根の姿を描こうとするたびに、炎は音を立てて消えてしまうのだった。その時、アッシュは重大な事実に気が付いた。
「まさか、雨の中だと翼を出せないのか……?」
再び、サメの魔獣が飛び掛かる。魔力により速度を強化したアッシュがサメの魔獣の攻撃を避けるのは容易なことだった。だが、決定打がない。雨の中では、炎は消える。アッシュは魔獣の堅牢な皮膚に傷をつける手段を封じられてしまったのだ。
アッシュに攻撃を当てられないサメの魔獣。サメの魔獣に通じる攻撃手段を持たないアッシュ。持久戦を強いられた両者がじわりと睨み合ったとき、どこからかひゅんと音を立てて鋭い魔力が急接近した。
刹那、サメの魔獣が血しぶきを上げながらバシャバシャと暴れ出した。驚いたアッシュがサメの魔獣の傷口に目をやると、魔力で形作られた矢が刺さっていた。
「アッシュ! あんた、雨降ってる中でどうするつもりだったの? 炎しか使えないのに」
痛いところを突きながら、リシュナが駆け付けた。
「雨の中で戦うなんて、初めてなんだよ!」と、アッシュ。
「まあ、これも勉強だね坊や」
そう言うと、リシュナは魔力の矢を3本生み出し、弓に番えて引き絞った。片目を瞑り照準を合わせて撃ち放った。だが、リシュナが3本の矢を放った瞬間、サメの魔獣は沈むように地中へ潜った。
魔力の矢は外れて大地に突き刺さり、消滅した。そして、サメの魔獣の三角形のヒレは、村の中心へ向かって一直線に進み始めたのだ。
「まずい、おそらく魔獣の標的は村人だ。リシュナは村人たちを安全な……家の屋根の上とか、とにかく高いところへ避難させるんだ!」
アッシュがそう言った時には、既に空間移動魔法の入口が出来上がっていた。深緑色の大穴がアッシュとリシュナを包み込む。直後、一瞬にしてアッシュとリシュナは村の中心部に移動していた。
「アッシュ!? リシュナまで。一体どこから……?」
突然現れた2人を見たランドが驚きの声を上げる。だが、アッシュはすぐにその場を離れ、サメの魔獣の元へ向かった。正面からぶつかり、何が何でも村人たちが安全な場所へ移動するまでの時間を稼がなければならない。
「ランド。村の人たちはどう? 話は聞いてくれた?」
リシュナが訊ねたが、ランドは首を横に振るだけだった。
「そっか……じゃあ、仕方ないね」
そう言うと、リシュナは胸にそっと手のひらを当て、自分に言い聞かせるように小声で囁いた。
「大丈夫、あたしは1人じゃない。ランドが近くに居る。グラト、シオン、そしてアッシュだっている。大丈夫、あたしは1人じゃない」
ふうと息を吐き、にやりと笑う。リシュナは自信に満ちたような表情を浮かべながら、すぅーと大きく息を吸った。そして、腹の底から大きな声を出したのだった。
「エール―フーがー、いーたーぞー‼」
リシュナが取った予想外の行動に、ランドは目を真ん丸にして驚いた。彼女の大声に反応し、ぞろぞろと村人たちが集まってくる。その中には、斧やナイフを持っている者もいた。
「悪魔の使いが何の用だ? 早く村から出て行ってくれ!」
村人の誰かが叫んだ。だが、もうリシュナは動じない。リシュナは再び空間移動魔法を発動して入口を作り、村で一番大きなマルケルスの家の屋根の上に出口を作った。
「今、この村に危険が近づいている。死にたくなければ、この穴をくぐって屋根の上に避難しなさい!」
リシュナが手短に精一杯の声量で叫んだ。
「誰がエルフの言うことなんか信じるか!」
どこからか飛んできた言葉に呼応するように、ざわざわがやがやとした声はどんどん大きくなっていった。誰も、リシュナの言葉を信じようとしなかったのだ。だが、その中で2人だけ、リシュナを信じる者がいた。
ランドとリエルだった。2人はリシュナの魔法の大穴を通り、マルケルスの家の屋根の上に一瞬で移動した。それを見た村人たちは大いに驚き、同時に恐れた。
「これは魔法というやつか……? ということは、彼女はエルフではなく、人間の魔法使いなのか?」
「だが、耳が尖っているぞ?」
「怪しい術には変わりない! 俺は信じないぞ」
村人たちの声が飛び交う中、10歳前後くらいの少女が一歩前へ出た。
「リエルが行くなら、私も行く!」
そう言って、少女が魔法の穴の中へ飛び込むと、慌てて止めようとした母親も続けて穴の中に吸い込まれていった。そして、2人は気が付くと屋根の上にいた。
屋根に上がった少女の母親が困惑したまま周囲を見渡した時、村のすぐ近くで戦うアッシュの姿が見えた。そして、防戦一方で苦しむアッシュの目線の先にいるサメの魔獣の存在にも気が付いたのだ。
「みんな、魔獣よ! 魔獣がすぐ近くまで来てる。エルフの子が言っていることは正しかったのよ!」
少女の母親の言葉を受け、村人たちはようやく事態を飲み込んだ。続々とリシュナの移動魔法を受け入れて、屋根の上へ避難した。当然、その中にはマルケルスとリラも含まれていた。
全員を屋根の上に避難させたリシュナは、続けてアッシュの救援に向かうつもりだった。だが、身体がうまく動かない。膝が震え、腕に力も入らない。
「あ、あれ……? どうしよ、魔力切れかな――」
リシュナはへなへなと座り込み、絶望的な状況を前に力なく笑うしかなかった。
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