第9話 羊飼いの悩み

 羊飼いは過酷な職業だった。


 春になると羊の大群を引き連れ、長い旅に出る。牧草地から牧草地へと渡り歩いて夏を過ごし、秋になってようやく地元へ帰ってくることができるのだ。


 長旅の間、肉食の獣や魔獣に襲われることも少なくない。そのため、羊飼いは護衛用に連れた牧羊犬の他に、特殊な仕掛けを施した牧羊杖を持ち歩いている。この杖には、持ち手の人体に有害な症状を引き起こさない程度の微弱な魔力が込められており、弱い魔獣ならば振り回すだけで追い払うことができるのだ。


 しかし、羊飼いは戦いの専門家ではない。明らかな魔獣の危機が迫っている場合は、魔法使いに駆除を依頼せざるを得ないのだ。


「異変に気が付いたのは、5日前の朝のことでした。秋になって、長い旅からようやく解放された後も、私は早朝から羊たちの世話をしていました。その際、羊の数を数えたのです。しかし、100頭いたはずの羊が99頭しかいないではありませんか」


 羊飼いのリックは、今にも泣きそうな表情を浮かべていた。アッシュは大きく眼を見開いて、真剣に羊飼いの言葉に聞き入る。


「私は必死の思いで、消えた1頭を探しました。しかし、どこにも見当たらない。そのまま日は暮れ、夜になったのでいったん捜索を打ち切りました。また明日探そう、と」

 

 ついに、リックの頬を伝って大粒の透明なしずくが流れ落ちた。リックは鼻をすすりながら、顔をぐちゃぐちゃにしながら訴え続ける。


「翌朝、捜索前にもう1度、羊の数を数え直しました。もしかしたら、夜の間に消えた1匹が帰ってきていて、100頭に戻っているかもしれない。そう願いながら、数えたのです。しかし、神は何と残酷な仕打ちをするのでしょうか。羊の数は98頭に減っていたのです」


 牧羊杖を握るリックの手が怒りに震える。ピリピリと張り詰めた空気が、店中を支配した。


「実際に犯行現場を目撃したわけではありませんが、魔獣の仕業であると、私も牧場主も睨んでいます。そんな折に、魔法屋の噂を耳にしました。お願いします、可愛い羊たちが消えた原因を調査してください」


 トントン。


 熟練の魔法使いグラトの杖が床を鳴らす。


「この仕事、お引き受けいたしましょう。リック殿、奥の部屋へついて来てください。裏庭へ案内します」


 そう言って、グラトは奥の部屋へ消えた。リックは戸惑いながらも、グラトの後についていった。


「南の村では、夜に魔獣が牧場へ侵入してくるのか?」


 少し暗めのトーンで、アッシュがリシュナに聞く。


「どうだろうね。大抵の場合、人が住んでる場所には土着の精霊がいて、魔獣除けの結界術を張っていることが多いはずなんだけど」


 精霊――アッシュは神の棲む山を思い出した。確かに、彼女は西の村を守っていると言っていた。他の地域にも、同じような守り神がいるのだろう。しかし、精霊とはいったい何者なのだろうか。


 その時、店のドアが開いた。シオンが帰ってきたのだ。


「お、シオン! おかえり~」


 リシュナが陽気に出迎える。それに対し、シオンは気だるげに「ああ」と軽い返事をするのみで、リシュナはぶぅーと頬を膨らませ、口先を尖らせた。


「帰ったのか、シオン。ちょうどよかった」


 店の奥からグラトが戻ってきた。グラトの顔を見たシオンは、急にキリっとした顔をして、ぺこりと頭を下げた。リシュナはじとーっとした目つきをしながら、まだふてくされている。


「仕事ですか。俺は今すぐにでも行けますよ」


 たった今帰って来たばかりだというのに、シオンはやる気に満ち溢れていた。クールな印象を受ける風貌からは想像もつかないほど、熱い闘志を燃やすように目をぎらつかせている。


「そうだな。日が沈むまでに片づけてもらいたい仕事があるのだ。羊飼いからの依頼で、消えた羊の捜索だ。魔獣が絡んでいる可能性がある」


「承知しました。依頼人は裏庭ですね? 行くぞ、リシュナ」


 そう言うと、シオンはアッシュをわざと無視するような態度をとりつつ、裏庭へすたすたと歩いていった。リシュナはため息をつきながらシオンについて行く。

 初日から置いてけぼりを食らったようで、アッシュはポカンと口を開けて立ち尽くしていた。すると、グラトが軽くアッシュの肩を叩いた。


「何をしている。君も裏庭へ来なさい」


 そう言って、グラトは裏庭へと消えていった。その後ろ姿を見て、アッシュも慌てて追いかけた。





「さて、今回の仕事は、アッシュとシオンの2人に任せようと思う」


 グラトの言葉に、アッシュは驚きの声を上げようとしたが、それより先にシオンが噛み付いた。


「なぜですか。こいつがいたら邪魔になる。俺1人で十分です」


「アッシュに必要なのは経験だ。そのためには私だけでなく、シオンとリシュナの協力が不可欠なのだ。それに、今回の仕事をする上で、アッシュの魔法は役に立つと判断した」


 役に立つ。そう言われて、嬉しくないはずがなかった。少し下を向きながら、アッシュは笑みを浮かべていた。


「さあ、リック殿とアッシュとシオンは一カ所に固まってくれ。リシュナ、後は任せるよ。今日の私はもう、魔力がすっからかんなのだ」


 そう言うと、グラトは庭に置いてあった使い込まれたロッキングチェアに体を預け、深く息を吐いた。どうやら、相当疲れていたようだ。


「ほら早く、羊さんたちが待ってるよ。アッシュとシオンも……リック……さんも、もっとくっついて」


 グラトに代わり、リシュナが場を仕切り始めた。いつの間にか、リシュナは顔を隠すようにローブについたフードを深く被っていた。

 「チッ」と舌打ちをしながら、シオンがアッシュとリックの肩を掴み、ぐっと自分の近くに引き寄せた。


「なんだよ、痛いな」


 あまりに強く掴むものだから、アッシュはつい文句を溢してしまった。リックはというと、既に羊のことで頭がいっぱいなようで、俯いたままぶつぶつと聞こえないくらいの声量で独り言をつぶやいていた。


「手足を失いたくなければ、じっとしていろ」


 アッシュの文句に対し、シオンは冷静に言葉を返した。

 その直後、3人の頭上に異変が起きた。まるで空が裂けるようにして、突如上空に深緑色の大穴が出現したのだ。そして、大穴はゆっくりと真下に向かって降り始めた。


 ふとリシュナの方を見てみると、大穴に向かって両手を掲げ、何か呪文のような言葉を口にしていることに気が付いた。これはリシュナの魔法なのだと理解したアッシュは、静かに目を閉じ、未知の魔法に身を任せた。

 大穴は降下しながらみるみるうちに大きくなり、3人を包み込んだ。そして、ぐにゃぐにゃと形を縮小させていき、手のひらに収まるくらいの大きさになり、最後には何もなくなった。


「よし、あたしのお仕事おーわり。2人は仲良くなれるかな?」


 そう言って、リシュナは魔法屋の中へ戻っていった。





 ――ほぼ同時刻。


 アッシュとシオンとリックの3人は、だだっ広い荒野のど真ん中へ乱暴に放り出された。地に背中を付けながら天を仰ぐと、先ほどの深緑色の大穴が上空3mくらいのところに開いていたが、それは徐々に小さくなって、消滅した。


「早く立てよ、新人」


 既にシオンは立ち上がり、リックの身体をゆっくりと起こしてやっていたところだった。リックは牧羊杖を頼りに立ち上がり、きょろきょろと周囲を見渡した。

 黄色く染まった秋の荒野はどこまでも雄大に広がっており、自分の小ささを際立たせるようだった。遠くには高くそびえ立つ山々が見え、空の高いところではトンビが飛び回っている。その時、リックは何かに気付いたような顔をして、腕を上げて遠くを指さした。


「この場所は見覚えがあります……! 確か、ここから30分ほど歩けば、私の村へ着きます。わずか一瞬で、私が3日かけて歩いた距離を移動してしまうなんて、魔法使いさんは本当にすごいのですね」


 リックは感嘆の声を上げた。シオンは慣れた様子だったが、アッシュはリックと同じように高揚感に身を浸らせていた。

 リシュナが使ったのは、グラトも使っていた空間移動魔法だったのだろう。しかし、彼女は旅慣れた羊飼いが3日かけて歩く距離を、3人を同時に、一瞬で移動させたのである。リシュナが元来生まれ持った空間移動魔法が、グラトのそれより遥かに高性能であることは明らかだった。


「リシュナってすごいんだな……」


「ふん、知った気になるのはまだ早いんじゃないのか」


 シオンが目も合わせずに噛み付いてきて、ピリッとした空気が両者の間に流れる。険悪なムードを察知したからか、リックが2人の間に割って入ってきた。


「さあ、可愛い羊さんたちが待っています。急ぎましょう?」


 リックは半ば強引に話を進め、牧場へと2人を案内したのだった。

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