第5話 動き出す時間

「どうして貴方が神の棲む山に?」


 思いがけない出来事に動揺しつつ、アッシュは訊ねた。


「カラスのラッチくんに事情を聞いて、抜け出してきたのだ。今頃、村中大騒ぎだろうな。いや、私がいなくなったことにすら気づいていないかもしれん」


 旅人は淡々と言った。よく見ると、村人にタコ殴りにされたはずの旅人の顔には、傷がひとつも残っていなかった。一体、この旅人は何者なのか。


「色々気になるけど……そんなことより、今は父さんの話だ。祠に近づくと、父さんと同じ目に遭うというのはどういう意味なんだ? なぜ貴方が父さんのことを知っているんだ?」


 アッシュがまくし立てるように言った。


「それについては、彼――いや、彼女に聞いたのだ」


 旅人がそう言って後ろを振り返る。すると、旅人の背後から、ヌッと四足歩行の巨大な獣が現れたのだ!

 獣はイノシシのような強靭でどっしりとした体躯と、シカのように立派な角を持っており、全身に光り輝くような神々しいオーラを纏っていた。


 じっとアッシュを見つめる両の瞳は、吸い込まれそうになるほど暗く深い海の底のようだったが、妙な温かさも感じた。その獣が放つ、魔獣では持ちえないような神聖な何かを肌で受け取らないではいられなかったのだ。


「私はこの山に棲む精霊――近くの村では、守り神と呼ばれています。永い時を生き続けながら、結界魔法により魔獣の脅威を退け、村人たちを守り続けていました」


 彼女と呼ばれた精霊が言う。村人たちが信仰する守り神は実在したのだ!


「夜になっても村が魔獣に襲われなかったのは、貴女のおかげだったのか」


「ええ、その通りです。しかし、この100年くらいで状況は大きく変化しました。村の者たちの信仰は徐々に薄れ、次第に山の世話を誰もしなくなりました。その結果、村と山の狭間に深い森が生い茂り、闇を好む魔獣が棲むようになったのです。嘆かわしいことです」


 アッシュは少し気まずい気持ちになった。確かに、守り神の話は村で何度も聞かされたが、誰も心の内では信じていなかった。都合の良い時だけ神頼みする有様だったのだ。

 だが、今はそんな話をしている場合ではない。アッシュは話を強引に本題へ引き戻した。


「貴女は僕の父の身に何が起きたのか知っているようだ。父はどこへ行ったんだ!?」


「貴方の父親はここで死にました」


 あまりにも無慈悲な即答だった。身体の力が抜け、言葉を返すこともできなかった。心のどこかでわかってはいたのだ。だが、受け入れることができず、時を止めたまま8年を過ごした。事実を確定させたくなかったのだ。


「8年前、1人の男が霊薬を求め、この山を登ってきました。それを見ていた私は『危険だから帰りなさい』と警告したのです。しかし、彼は聞く耳を持っていませんでした。そして、在りもしない霊薬を探すため、祠の中に入っていったのです」


 ふと、我に返った。聞き捨てならない言葉があったからだ。


「在りもしない霊薬……? まさか、霊薬は存在しないのか?」


「この世のどこかにあるとは言われています。しかし、この山にはありません。おそらく、悠久の昔から生き続ける精霊――つまり、私の存在そのものが無病息災、不老不死の噂となり、尾ひれがついてしまったのでしょう」


 それでは、母を治す手段はなかったということなのか。父はどうしてそんな突飛な噂に飛びついたのだろう。様々な疑問が脳内を駆け巡り、アッシュは苦しみのあまり、今にも吐きそうな気分になった。


「アッシュよ。祠の中を見てみるといい。ただし、慎重にだ。一歩一歩、足元を確かめながら、慎重に覗くんだ」


 苦悶に満ちた表情を浮かべつつも、アッシュは旅人の言うとおりに祠の中を恐る恐る覗き込んだ。そして、旅人と精霊が何を伝えたかったのか理解した。祠は半分崩れ落ちていて、一歩進めば絶体絶命。底なしの断崖絶壁となっていたのだ。


「再度言っておきますが、私は彼に警告しました。祠に霊薬はない。危険だから止まりなさいとはっきり伝えたのです。それでも彼が止まらなかった理由は、貴方ならばきっとわかるでしょう」


「……?」


 精霊が何を言っているのか、いまひとつわからなかった。「古き血を継承する」とは、どういう意味なのだろう。思わずアッシュは眉をひそめた。


「まあとにかく、ここに霊薬などというものはないのだ。それに、今は時間がないだろう? まさか、ミルゴ少年のことを忘れたわけではあるまいな」


 旅人が水を差すように言った。


「でも、霊薬がなければ、どうしようもない。ミルゴは母さんと同じように、ゆっくりと死を待つしかないんだ」


 そう言いながら唇を噛んで下を向いていると、旅人がもぞもぞと懐から小さな瓶を取り出し、アッシュに手渡した。中には、透明な液体が入っている。


「この薬をミルゴ少年に飲ませてやりなさい。霊薬ほどの代物ではないが、命を救うことはできるだろう。しかし、1つだけ守らねばならない条件がある。君が自分の意思をもって完治を願いながら、君自身の手で飲ませてやることだ。そうでなければ、この薬の効き目は皆無となるであろう」


 すると、旅人は杖を前方に突き出し、何やらぶつぶつと呟き始めた。そして、「目を瞑りなさい」とアッシュに伝えた。

 何が何だかわからないが、今はもう、この謎の小瓶に頼るしかない。言われた通り、アッシュは目を瞑った。


 その直後、アッシュの身体はふわりと浮かぶような感覚に襲われた。そして、すぐにその感覚は身体から消え去った。不思議に思いながら目を開くと、アッシュは神の棲む山の頂ではなく、村の外れに1人立っていたのだ。

 一体何が起きたのか、全く分からなかった。しかし、アッシュの手の中には旅人に渡された小瓶があった。今やるべきことは、この薬をミルゴに一刻も早く飲ませることだ。アッシュは村長の屋敷に向かって駆けだした。





「大変だ、村長さん。いつの間にか、罪人が倉庫から抜け出していやがった!」


 真っ青な顔をして報告に来た見張りの言葉を受け、村長の顔はみるみるうちに真っ赤に染まっていき、熟れたトマトみたいになった。


「男手を掻き集めろ! 罪人はまだ近くにはいるはずだ。今すぐ捕まえて、晒し首にしてくれる!」


 村人たちは逃げた旅人の大捜索を開始した。殺気だった男たちは、ローブ姿の男を探して躍起になって動き始めた。ちょうどそんな頃に、アッシュは下山したのだった。


 混沌とした状況は、アッシュにとって好都合だった。楽々と屋敷に到達したアッシュは勝手口から内部へ侵入し、ミルゴの寝室へと向かった。思った通り、ミルゴの部屋を除いて、屋敷の中はもぬけの殻だった。

 ドアを開けて部屋に入ると、そこには熱にうなされるミルゴと、懸命に看病する母親の姿があった。想定内のことだったが、アッシュがミルゴに近づこうとすると、母親は間に入って邪魔しようとした。


「そこをどいてください。この薬を飲ませれば、ミルゴは助かります」


 アッシュは旅人に貰った小瓶を前に突き出し、必死の形相で説得を試みる。


「あなたなんかの言うことを信用できるとでも思っているの? このよそ者め……それが本当に薬かどうかもわからないじゃない!」


「くそっ……時間がないんだ!」


 その時、ミルゴの寝室に備え付けられた透明な窓が大きな音を立てて割れた。1羽のカラスが窓を破り、部屋に侵入してきたのだ。カアカアと騒ぎ立て、バサバサと大きな黒い羽根をはばたかせながら部屋の中を飛び回っている。


「なに、なによ! カラスが! きゃああああ」


 畳み掛けるようなストレスの連続に耐えかねたのか、ミルゴの母は悲鳴を上げながら座り込んでしまった。


「アッシュ、今がチャンスだ!」


 カラスのラッチがカアと叫ぶ。アッシュは心の中でラッチに礼を言いながら、小瓶のフタを開けて強く願った。「頼む、治ってくれミルゴ!」と。そして、ミルゴの口を指でこじ開け、薬を流し込んだ。

 すると、緑に染まったていた腕がすぅーっと元の健康的な色に戻っていき、荒くなっていた呼吸もあっという間に落ち着いた。ミルゴは本来の壮健な肉体を取り戻したのだった。


「……よかった、間に合った」


 たまらず、安堵の声を漏らす。確かに、ミルゴの完治は心の底から願っていた。しかし、まさか本当に薬が効くとは思っていなかったのだ。

 ふと部屋を見渡すと、いつの間にかラッチは部屋からいなくなっていた。だが、ミルゴの母親は怯え切ってうずくまったままだった。


 今後、この屋敷で暮らすことはできないだろう。そう思ったアッシュは、騒ぎにならぬうちに屋敷の外へ出ることにした。





 裏口から屋敷の外へ出ると、ミルゴの母親の甲高い声が聞こえてきた


「ミルゴちゃん! ミルゴちゃんの容態が落ち着いた! みんな、戻ってきて! 守り神様の奇跡が起きたのよ! ミルゴちゃんが治ったわ!」


 その声を聞いた村の男衆は、あっという間に屋敷の前に集合し、守り神の奇跡を喜んだのだった。「なんて都合のいい考えなのだろう」とアッシュは思った。本当にあの精霊が不憫でならない。


「上手くいったようだな」


 急に後ろから声を掛けられ、飛び上がりそうになった。声の主は、旅人だった。


「本当に治ったんだ。もしかして、あの薬があれば母さんの病も治ったのだろうか……」


 アッシュが独り言のように呟きながら訊ねると、旅人は静かに首を横に振った。


「あの小瓶に入っていたのは、ただの水だ。お前が同じように母親に飲ませてやったとしても治らなかっただろう」


「水? あれがただの水だって?」


「そう、ただの水だ。だが、そのカラクリについて説明している暇はないようだ」


 旅人が屋敷の方向を指さした。どうやら、ミルゴの無事を確認したにもかかわらず、村の男たちは逃げた旅人の捜索を再開したようだった。


「ここより東へ進み、南北に跨る山地を超えた先に、エルレミラという地方都市がある。その町で私は小さな店をやっているんだが、人手が足りなくてな。よければ君に手伝ってほしいのだ。ついて来てくれるならば、道すがら、君が知りたいことについて教えてやれるだろう」


 突然の誘いに、アッシュは困惑した。だが、断る理由はもうなかった。むしろ、この機会を逃せば、一生この村で窮屈な思いをしながら暮らしていかなければならないだろう。既に返事は決まっていた。


「もちろん行く。でもその前に、友人らに挨拶だけはさせてくれないか」


「手早く済ませてくれよ」


「そうだ、貴方の名前を教えて欲しい」


 アッシュが言うと、旅人は右手に持っていた杖でとんとんと地面をたたいた後、ゆっくりと口を開いた。


「私は魔法使いグラト。しがない魔法屋だ」

 

 そう言って、グラトはにやりと笑みを浮かべた。

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