第4話 神の棲む山
アッシュの心の内にある時計は、8年前に壊れたまま1秒も動いていない。
今も父親はどこかで生きていて、霊薬を手に入れて戻ってくるのだと心の底から信じている。そのつもりだった。
あれから無慈悲にも8年の時が流れた。だが、死んだと決めつけるようなことはしたくなかった。かといって、自分の目で確かめに行って、死を確定させるのも恐ろしかった。ずっと逃げてきたのだ。しかし、ついに向き合う時が来た。
「さあ、勇気を出せアッシュ。父さんが向かった神の棲む山へ行き、どんな病も治すという霊薬を探し出すんだ」
そう自分に言い聞かせ、薪割り用の斧を担いだ少年は前へと進み始めた。あくまで真の目的は霊薬を持ち帰り、ミルゴの病を治すことにある。それを忘れてはいけない。
決意を固めたアッシュの勇姿は、神の棲む山へと繋がる暗い森の中へと消えていった。
☆
真っ暗な森の中を進んでいく。もう昼になるというのに、森の中はまさに暗黒の世界で、明かりがなければ何も見えないくらいだった。想定外の出来事に、アッシュは唖然としてしまった。
当然、たいまつやろうそくなどは持っていなかった。威勢よく飛び出してきておいて何というざまだと、心の底から恥ずかしくなった。自分の無計画さを嘆くとともに、恐怖で胸の内がいっぱいになった。
8年前に村に引っ越してきて以来、1度も外の世界へ出たことがなかったアッシュは、いつも根拠もなく楽観的な思考をする癖がついていた。まさか、太陽の光が全く通らないほど、森の木々が深く生い茂っているなど夢にも思わなかったのだ。
悪しき魔獣は闇の中に潜む。まさに、魔獣がいつ現れてもおかしくない状況となってしまった。アッシュは恐ろしさで足がすくみそうになっていた。だが、もう後戻りもできない。何とか、何とかならないか!
その時、ぼんやりとしたあたたかな光を目の端で捉えた。「しめた!」と思い、発生源を辿ろうとしたが、光は思っていた以上に近いところにあった。なんと、光の発生源はアッシュの左手のひらだったのだ。
光は森の中の獣道を照らし出し、同時に、アッシュの心を覆い尽くしかけていた不安を綺麗に拭い去った。
まるでラッチと出会った時みたいだと、アッシュは直感的に感じた。母が死んで父が行方不明になった頃、アッシュは孤独な気持ちで心が埋め尽くされ、凄まじい絶望感に襲われていたのだ。そこへラッチが現れ、友人になってくれた。今、あの時と似たような奇跡が起きたような気がする。
左手から発せられるあたたかな光を頼りに森の中を進んでいくと、少し開けた場所が見えてきた。そこには、門のように見える石造りの建築物と、神秘的な雰囲気の階段があった。ついに、神が棲む山の入口に辿りついたのだ。
その時、背後からガサゴソという音が聞こえた。びくっとして、思わず息をのむ。「魔獣ではありませんように」と強く願いながら、恐る恐る振り返って音の主の姿を確認する。
その正体は、犬――にしては、大きい。あまりにも大きすぎた。オオカミと呼んでもまだ足りないくらい巨大で、ガタイのいい成人男性すら簡単に丸呑みできそうなほど大きな口をしており、口の中には岩石すら簡単に噛み砕いてしまいそうな鋭利な牙が備え付けられていた。
犬の魔獣だ。
まだ魔獣とアッシュの間には距離があるにもかかわらず、凄まじい悪臭がアッシュの鼻を刺した。どうして気がつかなかったのだろうと自分を責めたくなるくらい、魔獣は汚れた体中からひどい臭いを放っている。
犬のくせして、どうやら鼻よりも目の方が良いようだ。魔獣の目線はアッシュの手元へ一点集中している。おそらく、犬の魔獣はアッシュの手から発せられた光を嫌がり、発生源を潰そうと考えているのだろう。
現状、使える武器は薪割り用の斧だけで、魔獣を相手に対抗できる策はない。護身用にと念のため持ってきたが、何の意味もないじゃないか。アッシュは自分の無謀さに再び憤慨と後悔を重ねた。
アッシュは斧を投げ捨てて全力で地を蹴り、山の入口へ向かって駆けだした。突っ立っていても死ぬだけだ。魔獣の脅威から一刻も早く解放されるべく、でこぼことした獣道の上で懸命に足を動かす。
当然のごとく、犬の魔獣はアッシュを追いかけてきた。ハァハァと臭い息をよだれと共にまき散らしつつ、ずんずんと距離を詰めていく。飛び散ったよだれが周囲の草木に降りかかると、それらは音を立てて溶けていった。
走れ、走れ、足を回せ。恐怖ですくみそうになる身体に心の中でムチを入れ、必死の思いで駆け抜ける。しかし、距離はだんだんと詰められてきている。犬の方がずっと速いのだ。
「グオオオオオオオ」
落雷の如き唸り声があがる。犬の魔獣はさらに加速し、鋭く太い爪が今にもアッシュの背中に届きそうなところまで接近した。いつ身体を貫かれるかわからぬ恐怖と、鼻が曲がりそうになるほどの悪臭に耐えながら、アッシュは全速力で走り続ける。
魔獣の一撃が命を刈り取ろうとした寸前のところで、アッシュの足は神の棲む山の入口にある階段の1段目を踏みしめた。そのままの勢いに乗って、一気に階段を駆け上がっていく。15段ほど階段を登ったところで、ようやく立ち止まった。
「――まだ生きている!」
ふと振り返ると、犬の魔獣は階段の前で悔しそうな表情を浮かべながら、アッシュの顔をぎろぎろと睨みつけていた。神域である神の棲む山に、邪気を放つ魔獣は入ることができないのだろう。しばらくすると、犬の魔獣は諦めて暗い森の中へと帰っていった。
アッシュはふうとひと呼吸を入れると、すぐさま山頂を目指して長く続く階段を登り始めた。
☆
山頂へ続いていると思しき階段は、驚くほど歩きやすかった。
気安く近寄れる場所でもないのに、人が歩くためにきちんと整備されているようだった。昔は村と繋がっていたのだろうか。ふと見渡してみたが、山の周囲は木々もなく開けているにもかかわらず、辺り一面を覆う霧に邪魔されていて、景色は一切望めなかった。
「まだそんなに登っていないはずなのに、凄い霧だ。ここは本当に村から見えていた神の棲む山なんだろうか」
そんな不安を胸裏に抱えながら、アッシュはひたすら階段を上っていく。濃霧で先の見えない階段は、果てしなく続いているように思えた。まるで、死後の世界に繋がっているのではないかと思ってしまうほど恐ろしく、同時に神秘的な雰囲気も感じられた。きっと、神様も本当にいるのだろう。
「……………………」
何分経ったのだろうか。何段登ったのだろうか。そんなこともわからなくなるほど、気の遠くなるような太ももの上下運動でアッシュの顔に疲れが見え始めた頃、ようやく山頂らしき場所に辿りついた。
神の棲む山の頂は、より一層濃い霧に包まれていて、自分の足元すらまともに見ることができなかった。しーんと静まり返っていて、自分の足音以外は何も聞こえない。静か過ぎて、自分の鼓動まで聞こえてきそうだった。
恐る恐る前へ出てみると、霧の中に何やら建物らしきものがあることがわかった。もう少し近づくと、よりはっきりとその姿を確認できた。
その建物の正体は、重厚で巨大な石造りの祠だったのだ。もしかしたら、この祠の中に、どんな病も治すという霊薬があるのかもしれない。
「それ以上、祠に近づかない方がいい。父親と同じ目に遭うぞ」
どこからか、聞き覚えのあるような声が飛んできた。周囲を見渡すが、霧が濃くて何も見えない。
「誰だ! 父さんがここでどんな目に遭ったっていうんだ!」
アッシュが叫ぶと、聞き覚えのある足音と共に、杖で地面をつく音がした。巨大な祠を形成する石の柱の陰から姿を現したのは――
なんと、村で閉じ込められていたはずの旅人だった!
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