第1章 古き血の継承者
第1話 動物と話せる少年
暗い森の中で、少年は獣道を駆けていた。
風で葉が揺れる音だけならまだよかった。少年の耳には、のっしのっしという重苦しい足音も届いていたのだ。足音は段々と近づき、間隔は小刻みになっていく。
汗がにじみ、心音が急速に早まる。ズキズキと痛み始めた左胸を押さえながら、必死で足を動かした。今はとにかく逃げ切らねば!
「グオオオオオオオ」
まるで雷が落ちたような叫び声が上がると、足音はさらに勢いを増し、グングンと近づいてきた。“それ”が放つ邪気は凄まじく、その正体が“魔獣”であることは明らかだった。懸命に駆ける少年と、ぜえぜえと息を荒げ、よだれを撒き散らしながら小さな背中を追いかける魔獣。走っても走っても前へ進んでいる気がしない。魔獣との距離はどんどん縮まっていく。
ふと周囲を見ると、景色が異様にゆっくりと動いているように思えた。本当に走っているのか? 本当に前へ進んでいるのか? 壊れてしまった時計の針は、いつから止まったままなのだろう。
いよいよ魔獣との距離は目と鼻の先にまで迫り、少年は絶望の淵に落とされた。このままでは、闇に包まれた森の中で、1分と経たぬうちに魔獣の爪や牙で八つ裂きにされてしまうだろう。そう思うと、なんだか意識が遠くなっていくような気がした。
そして、少年は眠るようにその場で倒れこんだ。
☆
「カアカア、朝だぜ、起きろよアッシュ!」
やかましいカラスの鳴き声が耳を貫き、少年は目を覚ました。痛む左胸を押さえながら粗末なベッドの中で顔を横に向け、昨夜のうちに開けておいた小さな窓から外を見る。空はまだ暗いが、起床時間だ。
夢でうなされていたような気がするが、もうあまり覚えていない。
「今行くよ、ラッチ。いつもありがとな」
アッシュがそう言うと、カラスは照れ臭そうにカアと鳴いた。窓の枠に止まっているカラスのラッチは、黒く美しい羽根を輝かせていた。
「気にすんなよ、オレはヒマなんだ。お前が話し相手になってくれなきゃ、今頃は退屈すぎて死んでたぜ」
ラッチの話を聞きながら、ゆっくりと体を起こし、ペチペチと自分の頬を叩く。こうして、軽く痛みを与えて朝が来たことを身体に伝えてやらないと、どうも動きが鈍るのだ。
「はは、それならよかった。それじゃあ、僕は朝飯の準備をしてくるよ」
そう言いながらアッシュは立ち上がり、耳にかかったブラウンカラーの髪の毛をいじりながら、狭苦しい部屋の戸をそっと開けた。他の住人はまだ寝ているようで、屋敷の中はしーんと静まり返っていた。
何しろ、ようやく太陽が少しばかり顔を出したくらいの時間だったのだ。この辺鄙な村の中で、起きているのは自分くらいだろう。そう思いながら、アッシュは台所の脇にある勝手口から外へ出て、すぐ近くにある家畜小屋へ向かった。
小屋に入ってランプに火をともすと、周囲がぱあっと明るくなり、すでに目を覚ましてモゾモゾと動き始めていたヤギと目が合った。他にも何頭かいるが、起きているのはその1頭だけだった。
「おはよう、メイサー。今日は早いね」
アッシュがヤギのメイサーに声をかける。
「おはよう、アッシュ。昨晩は早くに寝ちまってな、その分だけ早く起きちまったのさ」
ヤギのメイサーが大きなあくびをしながら答えた。そして、ぐうとお腹を鳴らした後、アッシュの顔を物欲しげな表情で見つめた。
「今、用意するから待っててくれよ」
毎朝の日課である小屋の掃除を手早く済ませる。そうしているうちに、他のヤギたちも起き始めてきて、朝食を求めてアッシュの周りに集まってきた。空腹でめえめえと鳴くヤギたちに、穀物や根菜を混ぜて作った餌を与えると、彼らは嬉しそうに食事を始めたのだった。
「さて、次は人間の餌だ」
アッシュは「はぁ」と大きなため息をつきつつ、そそくさと屋敷の台所へと戻った。
草と糞の臭いがこびりついた両手を冷たい水で綺麗に洗い流した後、小さめの鍋にヤギのミルクを注ぎ、火を起こす。使い込まれたナイフを右手に握ると、手際よくトウモロコシとタマネギを細かく刻んだ。細かくした野菜をヤギのバターと一緒に別の大きめの鍋に放り込んで、水を加えてじっくりと煮込みつつ、丹念にすり潰していく。最後に、あらかじめ温めておいたミルクを大きな鍋へと流し込んだ。
しばらくして、トウモロコシのスープが出来上がると、屋敷中が芳醇な甘い香りで満たされていった。すると、バンッと乱暴にドアを開ける音が聞こえ、ドカドカとやかましい足音が台所へと近づいてきた。
「メシはまだかよ、変人!」
朝っぱらから下品な怒鳴り声が響く。こんな大声では、村中の人間が起きてしまうだろう。
「おはよう、ミルゴ。今作ってるから」
アッシュは適当に返事をしつつ、先日まとめて焼き上げておいた堅めのパンにナイフを入れて、1枚1枚丁寧に切って、平たい皿に並べていった。それを見て、ミルゴはあからさまに口を尖らせた。
「何て態度の悪い野郎だ。パパが助けてやらなかったら、お前みたいなよそ者はとっくに野垂れ死んでいたんだぞ。感謝を忘れるなよ」
今日もミルゴがアッシュをいびっていると、屋敷の奥の方から1組の夫婦が大きなあくびをしながらゆっくりと台所に現れた。そして、妻の方は何も言わずに大テーブルの方へ歩いていき、いつも座っている自分の席に着いた。夫の方はというと、アッシュとミルゴを交互に睨みつけ、偉そうに蓄えた髭を揺らしながら大きな口を開いた。
「朝から騒々しいぞミルゴ。アッシュはさっさと食事の用意をしろ。今日は早くから仕事に行かねばならんのだ。もちろん、村長としてのな?」
それだけ言うと、そそくさと自分の席へと向かった。叱られたミルゴは、父親とそっくりないじわるそうな眼付きでアッシュをひと睨みし、小さく口を開いて「早くしろ、ばーか」とだけ囁き、席に着いた。
アッシュは丁寧にトウモロコシのスープを皿に盛り、パンと共にを3人家族が座る大テーブルへ運んだ後、パンを2切れだけ持って、逃げるように勝手口から屋敷の外へ出た。
☆
ようやく太陽が昇り始めた秋の空の下で、アッシュはカラスのラッチと共に朝食をとった。ラッチはアッシュにとって唯一の友人であり、家族でもあった。
「なあ、アッシュ。いつまで、あんなバカどもの世話をしてんだ? オレはなんか悔しいぜ」
ラッチがカアカアと鳴く。ぷんすか怒りながらも、隙を見ては黒いクチバシでアッシュに千切ってもらったパンの欠片をつつき、おいしそうに食べている。
「仕方ないだろ、僕にはここしか居場所がないんだ。こうしてご飯を食べられているだけでも幸せだと思うよ。それに、父さんが帰ってくるかもしれないだろ」
堅いパンを奥歯で噛み千切りながら、アッシュが言う。
「気持ちはわかるが、もう8年も経つんだぜ?」
ラッチがカアと鳴く。
「わかってるさ、僕もそろそろ16歳になる。でも、だからってどこへ行けばいいと言うんだ? この村には地図すらない。どこへ行くと何があるのかなんてことも、誰にもわからないんだ。この村の住民は、皆この村で生まれて、この村で死んでいく。元々、僕はよそ者だけど、前にいた場所や本当の故郷のことなんかあんまり覚えていないし、この村を故郷だと思っている。だから、まだしばらくは、ここで父さんを待ち続ける」
「誰を待つって~? 変人くん、誰と喋ってるのかな?」
背後から、聞き覚えのある嫌な声が響いてきた。振り向くと、いじわるそうな眼つきをした村長の息子のミルゴがいた。あっという間に朝食を平らげてしまったようで、腹をぽんぽんと叩いてはゲェ~とげっぷをまき散らし、村の綺麗な空気を汚している。
ミルゴはアッシュと同い年だが、身体ががっしりとしていて、背も高い。何故かいつも、根拠のない自信に満ちたような、嫌らしい表情を浮かべている。
「ミルゴには関係ないだろ」
アッシュはミルゴと目を合わせず、小さく呟いた。
「薄汚いカラスのお友達にはぺらぺら喋るくせに、ご主人様の前では無口ときた。ずいぶん強気な犬っころだな」
ラッチに対する無礼な発言に、アッシュは思わず拳を握りしめる。
「僕は村長の世話をさせてもらっているだけだ。君に仕えているわけじゃない」
アッシュが吐き捨てるように言うと、ミルゴは眉をひそめ、威圧するようにアッシュとの距離をグッと詰めた。そして、右手の人差し指と中指をアッシュの額に強く突き立て、トントントンと叩きながらドスの利いた声を発した。
「同じことだろ。ここで、お前は、死ぬまで働くんだ。まぬけな父親が帰ってくることもない。とっくに、どこかで野垂れ死んだに決まっている。それか、お前を見捨ててどこかに逃げたのさ。そうだ、それだ! 別の町で女を作って、今頃幸せに暮らしてるかもな! ハッハッハ!」
ミルゴが腹を抱えて笑う。どうやら、本当に面白くて笑っているようだった。アッシュの右手のひらを鋭い痛みが刺す。拳を強く握りしめた際に、爪が深く食い込んだのだ。血が滴り、乾燥した拳が怒れる朱に染まっていく。
「どうした、俺を殴りたいのか? 殴れるもんなら殴ってみろ。ただの野鳥や家畜に話しかけるような寂しい寂しい変態野郎に殴られたって、痛くもかゆくもないぜ」
次の瞬間には、アッシュの拳がミルゴの頬にめり込んでいた。目をぎらつかせながら、憤怒の衝動をふんだんに乗せた拳を振り切ると、体格差があるにもかかわらず、ミルゴの身体は3メートルほど吹っ飛んでいった。
泥まみれになったミルゴの顔には血が付いていたが、そのほとんどは拳が接触した際に付着したアッシュの血だった。
「あーあ、ついにやっちまったな。どうする?」
ラッチが困り顔でカアと鳴き、アッシュの顔を覗き込む。アッシュは顔を下に向けたまま動かない。
「アッシュ! さすがにやべぇからよ、いったん逃げようぜ」
ラッチがカアカアと声を掛け続けていると、アッシュはふと我に返り、みるみるうちに顔を真っ青にした。そして、何も言わずに地面を蹴り上げ、村の外れにある森へ向かって駆け出した。
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