手放す理由がない
ダリアとジャンは森を見て回った。
歓談をしながら歩き回り、疲れれば木の根に腰掛けて木の実を食べる。ジャンはずっと緊張していたが、ダリアは和んでいた。
「平和ですわね。こんな日々が続けば良いのです」
「そ、そうかな。時々魔術が襲ってくるけど」
「平気ですわ。ジャンがいれば」
「そ、そうなの!?」
ジャンは耳まで赤くなっていた。歩く姿がぎこちない。
「ダリアのような美人さんの隣を歩くのは緊張するよ」
「嬉しい言葉をくださるのね」
ダリアが微笑むと、ジャンは照れ笑いを浮かべた。
「ちょっと恥ずかしいけど、正直な言葉だよ」
「あなたの素直さに救われますわ。ありがとう」
「ぼ、僕は何もしていないよ!」
ジャンはパタパタと両手を振る。
ダリアはクスクス笑う。
「本当に私は幸せですのよ」
ダリアはエクストリーム王国にいた頃を思い出していた。
一年中花々が咲く中庭、豪華な部屋やドレス、顔も性格も良い召使いなど、何もかも与えられていた。ロベールに刺されるまでは、そんな贅沢な生活も悪くなかった。
しかし、今はかけがえのないものを手に入れている。人の心の温かみに触れ、のびのびと暮らしている。
「こんなスローライフが続けば良いのですわ」
ダリアは両手を広げて鼻歌を口ずさむ。ジャンも鼻歌を重ねる。森に心地よいハーモニーが響く。
そんな様子を見ながら、嫉妬に満ちた瞳を浮かべて大木をガリガリと掻く人物がいた。グレイだ。
「あいつら何なんだよ。腹立つなぁ」
グレイはこれまで自分の居場所がバレないように、ダリアとジャンに向けて魔術を放ってきていた。
しかし、ダリアとジャンの連携のせいであっさり防がれていた。
仲睦まじい二人の会話を邪魔するつもりが、かえって会話のネタを与える結果となっている。
「正体を隠しつつ魔術を掛けるのは難しいんだ。少しは報われてもいいだろうに」
逆恨みにまみれた言葉をブツブツと呟きながら、グレイは大木を掻く手を止めた。
両目を愉快そうに細める。
「いい事を思いついたよ。ギュスターブ公爵の計画をここで実験すればいいんだ」
ギュスターブの計画。
それは、人間に向けて禁忌の魔術を掛ける事を意味する。
「禁忌の魔術を掛けられた人間の多くが自分の意思を失って凶暴化したけど、仕方ないよね。僕をこんなに怒らせたんだから」
グレイはほくそ笑み、呪文を唱える。
「僕の怒りを思い知るといい。暗き祈りよ我に力を、マインド・コントロール」
禁忌を掛けられるのは、一度に一人だ。
どちらを操るかは迷わなかった。
「小僧は聖術を唱えるからね。先に封じておこう」
禁忌の魔術を掛けられたのは、ジャンだ。
楽しそうに鼻歌を口ずさんでいたジャンの両目が虚ろになり、足を止めた。全身が震えている。
ジャンの異変に気付いて、ダリアも足を止めた。
「どうかしましたの?」
「……逃げて。僕がおかしくなっている」
ジャンは両手で自らの肩を抱き、両膝を地面につけた。
「怖い……なんでこんな事を考えているの?」
「具合でも悪いのかしら」
「違う。悪意と殺意が、僕の胸を満たしているんだ」
ジャンはダリアを見据える。
「近くにいる人を、心の底から殺したい」
ダリアは絶句した。
死に戻る前に、刺された事を思い出した。
幸せの絶頂だった。しかし、一瞬にしてどん底に叩き落された。
最愛の人ロベールに刺されたのだ。大嫌いだった、という言葉も辛かった。
あの頃のロベールがどんな表情をしていたのか、ダリアが観察する余裕はなかった。ただただ絶望したものだ。
ダリアは何も言えなかった。
今のジャンの様子は明らかにおかしい。しかし、ろくな手立てを思いつかない。そんな自分自身が情けないとダリアは感じていた。
ジャンは涙を流していた。
「逃げて……」
か細い声で告げていた。
このまま走って逃げれば、ジャンは素直に逃がしてくれるだろう。むしろ、その方が彼の気が休まるかもしれない。
しかし、ダリアはジャンをそっと抱きしめた。
「この私に命令しないでくださる?」
そう耳元でささやいて、ジャンの体温を感じていた。
温かい。しかし、ひどく震えている。怯えているのだ。
放っておけない。
「少しは私を頼りなさいと言いましたわ」
「ダメだよ……なんだかおかしいんだ。僕が僕じゃないみたいで」
ジャンは嗚咽を漏らしていた。
「ダリアを殺すかもしれない……」
「もしもあなたが私を殺そうとするのなら、止めてみせますわ。私のスローライフはあなたが必要なのです」
ダリアは優雅に微笑んでいた。
ジャンの無邪気な笑顔は、ダリアに安らぎを与えていた。彼と過ごす時間は幸せだ。
「手放す理由がありませんの」
ダリアはジャンの銀髪を撫でる。ジャンの銀髪は汗ばんでいるが、悪くない心地だ。
そんな二人の様子を見ながら、グレイは忌々し気に呟く。
「……僕がいる前でやめてくれる? 僕がいるのを知らないのだろうけど」
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