第9話 山梔子は二度咲き誇る

 曇り空の下、二人で並んで歩く帰り道、東大寺が話し始めた。

「私、クラスシャツのデザインの係で……だから、放課後に残る日が増えるかもだから、しばらく外京君とは帰れないかもしれない……朝は会えるけど……」

 彼女らしくない落ち込んだ声が、陰鬱とした空気に溶けた。

「そうか。」

 外京はいつも通り不愛想だった。

「もう、外京君は寂しくないの?」

「まあな。」

「冷たいなあ。女の子には優しくしないとだめだよ?」

 そう言った彼女は笑顔を見せたが、少し憂鬱そうだった。

 

 電車の中でも、参考書を読む外京の隣で、彼女はいつもの小説を読みながらたびたび遠い視線を送っていた。ブラーがかかった灰色の景色を窓越しに見ていた。外京は何か話そうかと考えたりもしたが、終始本を持って黙っているだけだった。

 左肩に温かく柔らかい圧がかかってきた。穏やかな寝息が聞こえてくる。外京は彼女を起こした。心のどこかではそうしたくないと思っていたが。

「おい、起きないと!着いたぞ!」

 肩の重しがゆっくりと消えた。

「ふあっ!?うあっ、ご、ごめん、寝ちゃってた!?」

 頬のあたりが熱くなっていた。

「あ、ああ、急げ、ドア、閉まるぞ。」

 腑抜けた声の「またね」を車内に残して急いで出て行った。

 次の駅で降りる外京は、余韻が残る隣の席に、あるものを見つけた。

「明日、渡すか……」

 東大寺がいつも読んでいる小説だった。手作りと思われる布地のブックカバーに丁寧に収められていた。開きたくなる気持ちを抑えて、そっとカバンにしまった。

 

 家に着いてから、外京はあの小説のことが気になって仕方なかった。人のものを勝手に読むのは良くないと思っていたが、ような気がしてならなかったので非常に内容が気になった。その日は何とか好奇心を抑えて眠りについた。


 翌朝、東大寺と会わなかった。いつも彼女のほうから話しかけてくるのだが、それがないと心に不足を感じる自分を、外京は少し否定したくなった。

「あれェ、今日は一緒じゃないのデスねェ、デュフッwww。」

 仲間を取り戻したようで若干嬉しそうな様子の友人が話しかけてきた。うるせえ、一人の方が楽でいいわ、とだけ言っておいた。

「(なんで俺はちょっと寂しくなってるんだ。いつも鬱陶しい奴だから、今日みたいな日があるほうがちょうどいいだろう。どうせあいつも、またわざわざやってくるだろうし。)」

 そう自分に言い聞かせた。 


 その日の昼休み、体育祭の競技の練習をしようと一軍女子が大声で提案した。

「(げ、こいつ、ついに言った)」

 六月の下旬であったので暑い日が続いていたため、外京はなおさら嫌だと思った。教室に何人か女子が残っていた。あのような人たちについていくのが苦手なのだろう。

「(わかる、わかるぞ、同志よ……)」

 ささやかな抵抗を見せる彼女らの勇姿(?)に勇気づけられた彼は教室で参考書を読んでいた。が、すぐに練習に連れていかれた。

「外京サン、デュフッ、悪く思わないでくだサイ。我々は命令されて、仕方なく……」

 行ってみると、一軍女子とその取り巻きが指示をして威張っていた。外京は例の「即外野行き作戦」でドッヂボールの練習を乗り切った。

 練習が終わり教室に戻るとき、廊下で東大寺の姿を遠くに見た。いつも明るいはずの彼女の背中は、そのときとても小さく見えた。

 

 次の日の朝、外京は学校の最寄り駅で菅原にあった。

「あら。残念そうな顔じゃない。愛しの三月ちゃんじゃなくてガッカリなんだね。」

「いや、そうじゃなくて……でも、朝に会わないのは何かあったのかと。」

「ふうん。本当は寂しいくせに。放課後は係の仕事があるって聞いてたけど、朝に会わないのは変よね……あんた、三月に変なこと言ったりした?」

「な、なんで俺が疑われるんだ!?変なことなんて言ってないと思うけど……」

「じゃあ何をしたのよ。あの子、私のところにも来ないわよ。」

「そういえば、あいつが前に本を忘れて、それを俺が持ってるんだけど……」

「あんたのせいじゃない!じゃあ早く渡してあげなさいよ。無くしたと思って落ち込んでるんじゃないの?」

 菅原はあきれ顔だった。

「そんなことでか!?本を無くしてそこまで落ち込むやつがいるか?」

「女の子はよくわからないものなんだよ。ほら、わかったらちゃんとそれ渡してあげな。」

 彼女は少し偉そうに言った。

「『よくわからない』って、お前が言うのかよ……まあ、ありがとう。今度頑張って話しかけるよ。」

「女の子に話しかけるだけで『頑張る』って、ヘタレだねえ。」

 そう言って菅原は外京をからかった。

 外京はぼんやりとした色の空を見上げた。

「ほら、やっぱり寂しがってる。」

 

 そうして東大寺が彼のもとに来ないまま一週間が経った。外京は何度か彼女と廊下ですれ違ったが、やはりいつもと違う様子であったので、なかなか声をかけられずにいた。

 彼は昼休みに練習をサボって東大寺の様子をこっそりのぞきに行った。体育祭が間近にあるということで、クラスはそれなりの盛り上がりを見せていた。

 三年三組の教室の一角に、女子が何人か固まっている。発注したクラスシャツが届き、係の人たちで開封して確認しているようだ。

「(あれ、東大寺はいないのか。)」

 よく見ると、彼女は教室の隅の席に座り、一人で窓の外を眺めていた。

 係の一人が、彼女のところに行ってなにか話していた。その内容はわからなかった。ただ、互いに笑顔であったものの、外京には両者の間に見えない壁のような隔たりがあるように思えた。女子同士の関係には、いろいろと複雑なことがあるのだろう、それが原因で東大寺は落ち込んでいたんだ、と外京は彼なりに察した。それと同時に、本を無くしたから落ち込んでいるのだろうという菅原の予想を、少しほほえましく思った。

 会話が終わると、係の女子は気まずそうな様子でもとの位置に戻り、東大寺は再び窓の外を見ていた。ため息が窓にかかって曇っていた。

 いつもの外京なら、ここで引き返していた。


「とうだいじさーん、東大寺さんは、いませんか?」

 

 考える前に、引き戸の冷たいレールを跨いで、そう叫んでいた。さっきまで騒がしかった教室が凍り付いたように静かになり、視線が集まるのを痛いほどに感じる。似合わないと思った。恥ずかしかった。でも、あの日彼女が突然やってきて、孤独に生きようとしてきた自分の道に割り込んできてくれた、ただそばにいてくれたことを思うと、たった数週間程度の付き合いであっても、一歩踏み出さずにはいられなかった。

 席に小さく座っていた少女が、澄んだ目を見開いて驚いたような顔をする。直後、その顔は美しく輝く笑顔に変わる。

「どうしたの?いきなり。」 

 潤んだ目でほほ笑む彼女に、外京はあの日の彼女のように話す。

「ついてきて。」

 あの日彼の未来を変えたその一言が、再び放たれる――


「にしても、大げさだよね。本を返すだけなのに、あんな呼び方して。」

「ご、ごめん。あれは変だった。」

 外京は自分の行動を今になって恥ずかしく思った。

「ううん。私はうれしかったよ……本当に。」

 東大寺が彼の目を真っすぐに見て言った。

「……お前、教室で一人なんだな……」

 恐る恐る外京が言う。

「なあに?心配してくれてるの?君だって一人でしょ?」

「でも……」

「女の子にはいろいろあるんです。心配しなくていいよ。私は大丈夫だから。」 

 そう微笑んだ彼女に戸惑って、外京はつい別の話題を口にした。

「あのさ、その本の内容って……」

「見たの?」

 途端に不安そうな顔をする彼女に向かって、外京は首を横に振る。それを見て、彼女はほっとした様子を見せる。

「そう。なら。君が言うなら、信じる。特別に、ちょっとだけ教えてあげる。さっきのお礼ってことで。本の中身はね……」

 彼女は透き通った目を細めて言う。

「ヒ・ミ・ツ!いつか教えてあげる!」

 そう言って彼女は小走りで教室に戻っていった。扉の前で立ち止まり、もう一度こちらを見て手を振ってくる。

「体育祭、頑張ってねー!」

 それを見て、外京は小さく手を振って見せた。

 廊下に暖かな風が吹き抜けた。


 体育祭当日、外京は体育館でドッヂボールの試合に出ていた。その様子を二階席から二人の少女が眺めていた。

「三月、外京ばっかり見てるよねえ。」

「ち、違うって。蓮ちゃん、変なこと言わないでよ。」

「でもさ、三月、あんな不愛想な奴のどこがいいの?」

 菅原が少し顔を赤らめながら聞く。

「うーん……すっごく、優しいところかな。ああ見えて、私のこと、ちゃんと見てくれてるんだよ。」

「ふーん、そう。お幸せに。」

 不満げな様子で菅原が答える。

「ちょ、ちょっと、なんで怒ってるの?」

「ふん、知らない。――にしても、あいつ、ずいぶん頑張ってる。らしくないじゃない。」

 彼女は遠くのほうでボールからひたすら逃げている外京を見ながら呟いた。

 

 六月が終わろうとしていた。 

 

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