第4話 菅原蓮
桜が舞う季節、この平城学園に未練を抱えながら入学する少女がいた。
「はあ、落ちぶれたな……私は。」
第二志望の高校で祝福の象徴たる木々に迎えられたことは、彼女にとって屈辱でしかなかった。ネット上の出願システムで見た不合格の文字が、未だに脳裏にちらついて離れない。
信じたくなかった。呆然としながら何度も何度もページを更新した。ブラウザのインジケータと一緒に、ぐちゃぐちゃになった感情が彼女の中で渦を巻いていた。しかし何度ページを更新しようと、その三文字は白い虚無の中に居座り続け、切望してもやり直して改変することなどできない事実を、ただ伝えるのみであった。次第に目頭が熱くなるとともに、段々とその文字が歪んでいき、やがて全く判別が付かなくなってしまった。瞼に引っかかった露が、振り払うたびに溢れ出てしまう。彼女はぼやけた世界の中でひたすらに嗚咽していた。
彼女の両親は教育に熱心であったから、県内トップレベルの私立高校に娘を入学させるために、ほぼ毎日塾に通わせていた。娘も彼らの期待に応えようと、「どの高校に行くかで人生の半分が決まる。」という塾講師の言葉を信条に努力を続けていた。両親は仕事から帰宅し娘から受験の結果を聞くと、落胆し娘を厳しい言葉で𠮟責した。それは彼女の心に大きな打撃を与えた。
「(どうして……私、お父さんとお母さんの言う通りに、こんなに頑張ったのに……)」
教室に入ると、見覚えのある男子がいた。身長は高く、髪はボサボサ。冷め切った目の下にはクマができていた。菅原が知っていたのは、彼が同じ中学にいた事だけだった。この時、彼が自身に大きな影響を与えることになるとは思ってもみなかった。
心の傷が癒えた――いや、それを忘れかけていた四月の下旬、部活動の仮入部が始まった。菅原は両親に言われた通り、勉強に集中するために活動日数が少ない部活を探していた。美術部の仮入部で、外京に会った。彼と話すうちに、自分と同じで彼もこの高校を第二志望で受験したこと、活動日が少ない部活を探していることを知った。
「君はどこに入部するの?」
「俺は茶道部に入ろうと思っている。」
想像の斜め上を行く回答に、思わず笑ってしまった。
「え、ちょっと、待って、あはは、冗談でしょ、似合わないよ。」
「そんなにおかしいか? あそこは隔週一回しか活動日がないから狙い目だぞ。」
「ごめんごめん、笑いすぎた。でも、そんなに部活に行きたくないなら帰宅部でいいんじゃないの?」
「いや、事情があって……一応、何かしらの部に入っておきたいんだ……」
「それなら、どこでもいいってことなんでしょ。なら、私と美術部に入ろうよ。」
「いや……俺、絵はあまり好きじゃないんだ……ここに仮入部で来たのも活動が週一 だからとりあえず見に来ただけで……」
「何言ってるの、君の絵、上手いじゃない。もったいないよ。」
「いや、そうじゃなくて……」
逡巡する外京に、菅原が奇襲攻撃をかけた。
「じゃーんけーんポン!!」
「うわっ」
「君の負け!ほら、入部届、出しに行くよー!」
菅原は外京を引きずっていった。 週に一度の、彼女にとって優しい時間はここから始まった。
――「ねえ、聞いてもいい?」
部室の中での、ある日の些細な会話である。
「私、私立の
菅原はそのことをとっくに消化したつもりでいたので笑って見せたが、まだ心に残された深い傷が痛んだ。
「嫌なら……言わなくてもいいんだけどさ、」
ただ、知りたかっただけだった。他人の過去に踏み込もうとする自分を嫌な奴だと思った。けれど、自分と同じ境遇の者を、心のどこかが求めていた。傷をなめ合う相手が欲しかった。
「君も、難しいところ……受けたりした?」
「俺も、まあ、そんなところかな……」
それを聞いた菅原は肩の力が抜けた。棘が刺さった心がそのまま麻酔薬に浸されているような、中毒性のある低俗な安心を感じた。
「でも」
外京は口を開いた。冷静で淡白な言いようだった。
「俺は自分で受けると決めて、落ちただけだ。俺にはその高校に入る資格がない。ただその事実を知ったまでだ。」
彼が自分とは違う見方をしている、自分よりも遥か先を歩いている、と菅原は思った。やっと見つけたと思った仲間に置いて行かれるのが嫌だった。だから、彼女は聞いた。
「なんで、そう平気でいられるの?落ち……たんだよ?努力が否定されたんだよ?」
虚無な快楽にこのまま浸っていてもよかった。だが、このままでは駄目だと、心のどこかで彼女はそう思っていた。だから、知りたかった。前を向くための方法を。
「どうして、すぐに立ち直れるの……?」
「自分で決めて動いた結果だからだ。当然だろ。」
その言葉は、まだ当時の彼女には早すぎた。だから、このような返事が出た。
「それってさ……君が強いからそう言えるんだよね……私は……弱いんだよ。」
「そうじゃ、ないんだよ。俺だって……弱いさ。それなのに、昔の俺は強く見せようとして……」
彼は嫌なことを思い出したのか、途中で話すのをやめてしまった。菅原も、他人の来歴に土足で踏み込んだことに申し訳なさを感じて黙り込んでしまった。その後はただ、淀んだ空気を残してただ時間が過ぎ去るのみであった。
――彼の言葉の真意を理解したのは、菅原が二年生になってからであった。
外京は部活を欠席することが多くなった。それに伴い成績を着々と伸ばし、校内で第二位に躍り出た。対して菅原の成績は低下するばかりで、一年時はほとんど差がなかった外京に大きく引き離されていた。親の期待に応えようと国公立を目指し、部活が無い日は夜遅くまで、ほぼ毎日塾に通っていたにも関わらず、成果は目覚ましいものではなかった。
誰もいない隣の机に照り付ける夕日をぼんやりと見つめながら、週に一度の部活は終わりを迎える。なんとなくペンを動かして書いた絵は、一年前と比べて全く成長していなかった。
「はあ、私、何やってるんだろう……」
思い返せば、彼女はただ、他人に敷かれたレールの上をひたすらに進み続けていた。そうしていれば、習い事も、勉強も、全てうまくいっていた。「優等生」として褒められていた。だが高校受験でそれが全て崩れた。自分の意志で決めたわけでもなく、ただ自分の身の丈に合わない目標を何の疑いもなく定め、そのせいで苦しい思いをしただけであった。
「そうだ、私はちゃんと、自分の意志で動いてなかった……だから、私は……」
だから、甘えていた。自分の失敗を、心のどこかでは仕方ないものだとして片づけていた。両親が「正しい道」として設定していたルートを彼女はまっすぐに進んでいたから。「正しい」ことをしていたのに、思うように結果が出なかったのは、もう仕方のないことだとしか言いようがない、と。
「だから、私が、これからの私を決めなきゃいけない!」
心の奥で、ずっと引っかかっていた棘が消えるのが分かった。力強い足取りで、帰路についた。歩きながら、燃える夕日に手を伸ばしてみると、いつもより近くにあるように感じた。
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