第6話 涙の安売りと言葉の陳腐化

 宣伝で「泣ける」「落涙必至」など「涙」を強調した小説や映画が、多く出回っていて、辟易させられるといった趣旨のことを、第1話で書きました。


 ならば、そういう作品を読んだり観たりしなければいいではないかと言われれば、正にそのとおりです。

 しかし、ヘソ曲がりガエルのヘソ曲がりたる所以ゆえんは、単に読まない、観ないでは収まらないことなのです。


 今日の新聞にもありました。

 ある時代小説の広告で、評論家や作家の賛辞が並んでいます。

 その中の一つに目が留まりました。


「私は読みながら幾度か嗚咽おえつを漏らさずにはいられなかった。(中略)……奇跡の一巻である。――文芸評論家 ○○○○」(フリガナは私)


 小説の宣伝文句は大袈裟なものが多く、それを信じて買って読むと、ガッカリさせられることも少なくありません。


 それにしても、「幾度か嗚咽を漏らさずにはいられなかった」とは、いささか大袈裟過ぎないでしょうか。


■ 嗚咽:こらえきれずにしゃくりあげて泣くこと。〔『新明解国語辞典 第8版』〕


 嗚咽という言葉がふさわしいのは、例えば葬儀で、故人との最後のお別れ(ひつぎに生花や遺品を入れて蓋をする)の時、近しい親族から嗚咽の声が聞こえた、といった場面でしょう。


 つまり、嗚咽が漏れるのは悲しみの程度が相当程度大きい時です。したがって、嗚咽は安易に使うべき言葉ではないと思います。


 しかも、これ書いた方は、文芸評論家という肩書が付いています。文芸評論家ならば、言葉に対する感覚が一般人より鋭敏であってしかるべきですが、このような安易な言葉遣いをしているのをみると、「この人、大丈夫なの?」と思ってしまいます。


 まあ、この「賛辞」に対して出版社からなにがしかの対価が支払われるのでしょうから、セールストーク(あるいは、記事)が混じっても不思議ではありません。

 それにしても……です。「文芸評論家」としての矜持はないのでしょうか?


 同じ広告の「賛辞」の中に、あるタレントが書いたものがありました。


「ここ数年読んだ時代小説の中で、一番面白く心温まる作品でした。(中略)2回続けて読みたいと思った小説は、久しぶりです。 ――○○○○ ○○○○」


 こちらの方が、ずっと素直で自然ではありませんか。


 半年くらい前、新聞の文芸時評の欄で、同紙文化部の記者が署名入りの記事を書いていました。

 そこで、ある本を読んで「号泣した」と書いていました。


■ 号泣:(涙を見せたことのないような人が)感極まって(大声をあげて)泣くこと。〔同前〕


 この記者は、職場の自席で、あるいは自宅、通勤途上の電車の中で、大声をあげて泣いたのでしょうか?


 私は言語学には疎いのですが、価値の高い意味を含む言葉も、時代を経るに従い、その価値が低くなっていく、という趣旨の説を読んだような気がします。


 例えば、「おまえ、馬鹿か?」というような時の「おまえ」です。遡れば、

お前(おまえ) ← 御前(おんまえ) と、もともとは相手に敬意を払って使う言葉だったようです。

 「貴様」も同様です。


 この考え方に則れば、「嗚咽」も「号泣」も、ひどく軽い意味で使われるようになりつつあるのかもしれません。

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