第3話 おかしな話:忠臣蔵

 12月といえば、「忠臣蔵」が思い出されます。

 赤穂あこう浪士が吉良きら邸に討ち入りしたのは、元禄15年12月14日(西暦1702年)のことです。


 「忠臣蔵」は、歌舞伎をはじめ、大河ドラマなどのテレビ、あるいは映画などで繰り返し上演・放映されています。

 江戸時代だけでなく、今でも一定の人気を誇る、いわば国民的なドラマといえるでしょう。


 しかし、私にとって「忠臣蔵」は実におかしな話であり、なぜ人気があるのか理解不能です。


 考えても見て下さい。

 ことの発端は、江戸城内にある松の廊下で、赤穂藩主・浅野内匠頭あさのたくみのかみ長矩ながのりが、高家こうけ筆頭・吉良上野介きらこうずけのすけ義央よしひさを斬りつけた事件です(元禄14年3月14日)。

 どう考えても、被害者は吉良でしょう。

 殿中で刃物を抜いてはいけないという決まりを破った浅野は切腹させられ、赤穂藩は取り潰しとなりました。それらの処置を決定し命じたのは、幕府です。


 ところが、浪人となった赤穂藩士は吉良を恨み、その一部が徒党を組んで吉良邸を奇襲し、義央らを殺害したわけです。

 理不尽ではありませんか?

 恨むなら、頭に血が上って失態を演じた長矩か、あるいは切腹・お家取り潰しという判断を下した幕府を恨むべきでしょう。


 何の落ち度もない吉良を襲撃・殺害するとは、お門違いも甚だしいと、私は思うのですが、いかがでしょう?

 物語では、吉良による浅野への意地悪な行いが色々描かれています。しかし、だからといって、殿中における斬りつけが正当化されるはずもありません。悪いのは、藩主という重要な地位にありながら、理性を失って子供じみた振る舞いをしでかした、浅野です。


 江戸時代、あるいは、明治から敗戦までは、忠君(主君に忠義を尽くすこと)が重要な徳目とされていました。ですから、忠君物語である「忠臣蔵」がもてはやされるのも理解できます。

 しかし、忠君から解き放たれた現代においても、忠臣蔵が盛んに上演されたり、放映されたりしています。12月には、「赤穂義士」の墓がある高輪泉岳寺たかなわせんがくじに線香をあげに行く人も多いと聞きます。

 いったいどういうことなのでしょうか?

 師走が巡ってくるたびに、もやもやとした疑問が湧いてきます。

 

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