犬の歌

田野廃器

第1話

 いまからもう何年も前、苦痛だった仕事を辞めたはいいがなにをしたらいいのかわからずに実家でしばらくくすぶっていたころ、飼っていた犬が死んだ。その犬は、主にわたしが担当していた散歩の時間をのぞけば、一生のほとんどの時間を庭の小さな犬小屋のまわりで、鎖につながれたまま過ごした。


 その犬はわたしたち家族のふがいなさのせいもあって放任主義で育てられたため、近所の犬に比べてペットとしての身ぶりは洗練されてはいなかったし、いろいろなものに対して、とにかくよく鳴いた。とくに庭にいて、目の前の道路を車や、人や、べつの犬が通りかかったときなど、顔を上に上げて、「ヴォン、ヴォン」とたくましく鳴いた。


 わたしたち家族は、静まり返った夜にその声を聞いたときには、今日も立派に番犬の役割を果たしてくれていると思い、安心して眠りについたものだった。

 

 その犬は独身で死んだ。特定の相手を愛することなく。息を引き取り、目をつぶって横になった犬を目にしたとき、わたしはそう思ったことを覚えている。


 しかし、いまも耳に残っているあの声を思い起こすと、それはもしかしたら、わたしたち家族が思っていたような威嚇の声ではなく、求愛の声であったのかもしれない、と思う。その声は、鎖につながれていて、思いを寄せる相手に近づくことができなかったからこそ、いっそう強く発されたのだろうか。


 あるいは、とわたしはいまになって考える。一生のほとんどを鎖につながれて過ごさなければならない、というおのれの宿命自体に対する怒りを、苦しみを、声に乗せてだれかに訴えようとしていたのではないか、と。


 だとするとそれは、自由を求める犬の歌、犬のロックンロールだったのかもしれない。


 そんなことを考えたところで、それが威嚇なのか、求愛なのか、自由を求める歌なのか、真意を尋ねることは、たとえ犬が生きていたとしてもできはしない。


 それでもわたしは、鎖から放たれたはいいが悩んでばかりいたあのころを思うたびに、贖罪の気持ちとともにか感謝の気持ちとともにか、わたしが受け止めきれなかったその声の切実さと、リードを握るわたしの手を力強く引っ張る散歩中の犬の姿を思い出すだろう。


 結局、その犬は鎖もリードも振り払って、どこか遠くへと走り去ってしまった。けっして帰らない場所へと。そこではまだ、犬の歌は聞こえるだろうか。

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犬の歌 田野廃器 @haikitano

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