第119話 馬と老人

 その2日後の午前中のことだ。見慣れぬ黒い車、それもかなりの高級車が悪路に車体を大きく揺らし泥をはね上げながらシェアトの本館前に乗り付ける。


「相変わらず道わりいな」


 ハンチングをかぶった海崎さんは後部座席から降りるなり渋い顔で悪態を吐く。僕に気付くと手招きをする。驚いて海崎さんに駆け寄った僕に一言、


「こないだのお嬢ちゃんを呼んできてくれ」


 とだけ海崎さんは言った。


 僕は全速力で空さんを呼びに行く。厩舎きゅうしゃ周りを竹ぼうきで掃いていた空さんに声をかけると、空さんは厳しい表情になり海崎さんのもとに向かった。しかし、そこに海崎さんの姿はない。僕は海崎さんを探そうとした。が、空さんは言った。


「きっと放牧場」


 放牧場に走って向かうと果たしてそこに海崎さんはいた。馬柵の外から放牧場を眺める海崎さんの顔には相変わらず深いしわが刻まれていて、後ろ手を組んで少し背を丸めた姿はどこかうらぶれていて寂しげだった。


 僕たちが海崎さんのところまで駆け寄ると、海崎さんはこちらの方を向きもせずにかすれた声で呟く。



「事業が、傾いててな」



 僕たちは黙って次の言葉を待った。


「だから売れるものは全部売って、金のかかるものは全て捨てなくっちゃなんなくなった」


 なるほど、「馬主うまぬしにだってそれぞれ事情があるもんだ」そう言ったムネさんの言葉が今ではよく理解できた。だがシエロを殺させるわけにはいかない。空さんのためにも。僕自身のためにも。そしてなによりシエロ自身のためにも。僕は敢えてきつい言葉をぶつけた。


「そのためにシエロを犠牲に?」


「そうだ」


 こともなげに答えた海崎さんは空さんの方を向いた。


「あんた、ヤツは変わったと言ったな」


 空さんは無言でうなずく。


「そうか。見てえもんだ」


 その時遠くから小さないななきが聞こえ、シエロがこちらに、いや空さんに向かって駆け寄ってくる。その美しさには、馬をよく知っているつもりの僕でも感嘆した。

 空さんのもとへ一陣の風のように駆け寄ったシエロは空さんの前で甘える仕草を見せる。空さんはポケットに入れていたニンジンと軍手を海崎さんに渡した。


「これを……」


 海崎さんは不慣れな様子でニンジンをシエロに与えた。大きな音を立て夢中になってニンジンをかみ砕きむさぼるシエロ。海崎さんはそれを黙って見ていた。


 ニンジンを食べ終わるとシエロは空さんを誘うように飛び跳ねる。まるで「一緒に遊ぼうよ、一緒に走ろうよ」と言っているかのようだ。



【次回】

第120話 人馬の絆

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