第120話 人馬の絆
「なるほど確かに変わったな……」
シエロを眺めながら海崎さんが
「あんたが調教師だったとはな」
空さんが首を振る。
「調教師じゃありません。私を見てシエロが変わったんだそうです。そう聞いてます」
海崎さんは空さんの言っている言葉が理解できなかったようで目を丸くする。
「そりゃどういうことだ? あんたを見たって、たったそれだけのことで、あいつの方から勝手に変わったって言うのか?」
にわかには信じられないと言った顔で、強い意志が感じられる空さんの表情をまじまじと見つめる海崎さん。
「そんなことがあるか。おおかた誰かに調教されたんだろ」
僕はおずおずと口を挟んだ。
「あのう、横から失礼します。それが、シエロ、コレドールシエロが変わった瞬間を宗茂と僕が目撃していまして」
「ムネと? あんたがか」
「はい、
「信じられん……」
「しかし今お目にかけたように、これが真実です。コレドールシエロは間違いなく変わりました。性格や気質をここまで変えることは調教師にだってそうそうできることではないと思います」
海崎さんは一言うなったあとシエロを食い入るように凝視していた。僕たち三人の間に沈黙が流れる。遠くからの馬のいななき、シエロの鼻息、そして風の音だけがこの世界を支配していた。海崎さんは誰に言うでもなくボソッとつぶやく。
「これがお嬢ちゃんの言う『深いつながり』ってやつかい」
少しの沈黙ののち、海崎さんは話し続けた。
「コレドールシエロ、あいや、あんたたちの言い方だとシエロは知っての通りひどく気性が荒くて神経質でな。こんな奴一体誰が調教できるもんかと皆さじを投げとった。あのままでは処分するしかなかったろうな」
海崎さんの眼が何かを懐かしむように少し細くなる。
「だがな、当時こいつの育成牧場にいたムネがな」
「えっ、ムネさんはシエロの育成牧場にいたんですか?」
僕は驚いた。そう言えばムネさんの過去について僕たちはほとんど何も知らなかった。
「知らんかったのか。ムネはそれあもう懸命にこいつを売り込んできてなあ。こいつは途轍もなくはええ馬だ、とにかく逃げれば日本では右に出る馬はいねえ、気性の荒さに目をつぶれば必ず記録と記憶に残る名牝馬になる、とまくし立ててきた。俺あ逃げ馬には全く興味がなかったんだが、それでもあまりにしつこく言ってくるので気になってきてよ。すると、価格は潰すより少しはましな程度でいい、なんなら自分が信頼を寄せる腕利きの調教師を紹介してやってもいい、とここまで言ってきやがった」
「あ、ではその調教師が」
僕にはその調教師に思い当たる節があった。
「うん、坂田さんだ。あの頃はまともな実績もなく色々と不遇だったみたいだがな」
「それで、その坂田さんに預けたんですね」
「それからはあんたたちの知っての通りだ。牝馬三冠九頭目、菊花賞まで勝っての生涯戦績十九戦十二勝」
「競馬全然知らない……」
空さんの小声を無視する海崎さんはかすかな溜息を吐くと、目の前で草を
「おめえにゃあいっぱいいい夢見させてもらったなあ…… 本当に素晴らしい馬だったよおめえは…… あの秋華賞は忘れられん。八番人気だったおめえがスタートから並居る馬を差し置いての一人旅…… 俺ああん時涙が止まらんかったぜ……」
その時の海崎さんはシエロを見つめながら本当に泣いていたのかも知れない。
【次回】
第121話 二人の空、二人の夢
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