第117話 人と馬

 千二百万。空さんはどうしてそんな大金を。僕は訝しんだ。銀行から借りるでもしたのだろうか。


 中腰の海崎さんの顔から疲れた表情が消える。中腰のまましげしげと空さんを見下ろしたまま訊く。


「千五百ならどうだ」


「千四百であれば」


 大きな目を更に大きくして大きくうなずいた空さん。


「あんたそれでまかせじゃねえだろうな、お嬢ちゃん」


 空さんは真剣な顔でうなずく。


「証拠は。証拠はあんのか」


 空さんは横に置いていた黒バッグを開いてそこから札束を取り出す。


 帯封をされた一万円札の束がみるみるうちに空さんの手で積み上げられていく。それは間違いなく十四束。しかも空さんのバッグの中にはまだありそうだ。僕は愕然とした。驚いた、空さんは僕なんかとは比べ物にならない金持ちだったんだ。なんだか僕は自分がとても小さな存在になった気がして惨めになった。


 海崎さんもソファに座り直すと驚いた顔をしている。


「これなら…… これがあれば……」


 と札束を凝視しながら呟き喉を鳴らす。そしてふと我に返ると空さんに言った。


「お嬢ちゃん。あんたの若さでこの金額は簡単じゃなかろう。あんた一体なんのためにこれだけの金をヤツに……?」


「先ほどお話した通り、シエロは私のパートナーです。それだけでなく、シエロは私の命の恩人だからです。私の最大の理解者の一人でもあり、私を最も大切に思う者の一人でもあります」


「……」


 海崎さんはソファに深く背中を預けると全く理解できないといった表情を浮かべる。


「私にはもうシエロのいない人生なんてあり得ません。大切なパートナーのためだったら私なんでもします。私は逆に伺いたいんですが、海崎さんはなぜシエロを飼っていたんですか?」


「勝利と栄光と賞金のためだ。そしてその三つとも俺とヤツは手に入れた」


「かわいそう」


「なにっ」


「その三つを手に入れたのは海崎さんです。馬は人間たちが好き勝手で作り出した勝利や栄光になんか興味はありません。一体シエロは何を手に入れたんですか。ニンジンやリンゴを食べさせたり、一緒に走ったり、ブラッシングしてやったり、一緒にお昼寝したりしなかったんですか」


「するかっ。温かい寝床をあてがい、餌を食わせてやった。それで充分だろうが」


「そしてシエロがその勝利と栄光から遠ざかったらその寝床も餌も取り上げて殺すんですね」


「何言ってやがる。こっちだってあんたが思っとるような冷血漢じゃねえ。引退後は繁殖もできねえヤツを慰労のためにシェアトに預けていい暮らしをさせてやったんじゃねえかっ」


 海崎さんの声に怒気が乗る。



【次回】

第118話 疲労感

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