第19章 シエロ殺処分

第112話 殺処分

 帰りの車中、僕たちは何も言わずとも満ち足りた想いに溢れていた。


 だが、夕暮れも押し迫ったころシェアトの駐車場について、車から降り助手席のドアを閉めると、空さんはすぐ異常に気付いた。


「シエロ?」


「? シエロに会いに行きます?」


 しかし空さんの顔は緊張感と不安感に満ちていた。


「違うの。変なの。あんな声聞いたことない」


「声? 何も聞こえませんけど……」


「ううん聞こえる!」


 空さんは途端に厩舎に向かって駆けだした。厩舎にはみすぼらしい馬運車ばうんしゃ(※)が停まっていた。空さんは全速力でそこに向かう。


 そこには今まさに馬運車ばうんしゃに乗せられようとして激しく抵抗するシエロがいた。


「シエロ!」


 僕たちは同時に叫んだ。これが何を意味するか瞬時に理解したのだ。馬運車ばうんしゃかたわらにはムネさんとゴウさんが驚いた顔をして僕たちを見ている。


 非力だったはずの空さんは、シエロを馬運車ばうんしゃに乗せようとする職員二人を無理やり引きはがし手綱たづなを握る。両手を広げてシエロと職員たちの間に立って通せんぼをする。


 僕はこわばった顔でムネさんに訊く。


「これはどういうことですか」


 訊くまでもない質問だった。空さんがいない間にシエロを運び出す理由があるとすればそれはただひとつ。


「あ、ああ、……こいつを『処分』しなくちゃなんなくなってな」


「どうして!」


「こないだ火事の時に来たろ、馬主うまぬしの海崎さんの意向だ」


 こっちを見ないムネさんの顔は苦り切っていた。


「させないから。そんなこと、絶対に」


 シエロの手綱をしっかりと握った空さんは両手を広げたままムネさんの前までやってきて冷たい怒りにかられた声で言い放つ。ムネさんは落ち着きのない様子で答える。


「空の言いてえこたあ分かる。だがうちにはあの火事の件についてリークしてもらっただけでなく、乾まで送ってよこしてもらった恩義ってもんがある。それに月78,000円の飯代がお前に払えるのか? それだけじゃねえ、シエロの所有権を譲渡してもらえんのか? お前にそんだけの金があんのかよ?」


 しばらく沈黙が流れる。


「そう。お金がないせいでシエロは殺されるのね」


「……そうだ。馬ってのはなあ、そりゃあ金がかかるもんなのよ」


 空さんの表情は相変わらず冷たい怒りに満たされたままだ。


「お前を雇う時最初に俺が言ったことがこれだ。家でそこら辺の犬猫なんかを飼うよりずっとシビアな時があるのよ。馬を飼い育てるってのはよ」


 息を吸い込んでからムネさんが言葉を続ける。いつもの元気はどこへやら、打ちひしがれた感じさえする。



▼用語

馬運車ばうんしゃ

馬を運搬するために特化し、馬のサイズに合わせて設計された運搬車両。



【次回】

第113話 競走馬の悲しき現実

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る